くらしの仏教語~豆事典~

 ながらく「仏事あれこれ」の連載をしてきましたが、新年よりあらたに「くらしの仏教語」というコーナーを開設いたします。段々仏事が遠ざかっていく現代日本ですが、私たちが何気なく使っている、言葉の多くが仏教の教え、言葉に由来していることは知られていません。このコーナーでは、仏事あれこれのもとになった『仏事のイロハ』の著者である末本弘然先生の『くらしの仏教語 豆事典』から転載して、身近にある仏教語を味わっていきたいと思います。

 

19  異口同音 (2020.7.5.更新)

 「つぎの時間にテストします」と言えば、教室中が「エエーッ」。初めて聞くような話でもすれば「ウッソー」の大合唱。女子校に勤めていますと、こんな風景は日常茶飯事です。まさに異口同音の世界です。

 異口同音とは、多くの人が口をそろえて、同じことを言うこと。多くの人の説が一致することを意味する言葉です。

 身は異なるから「異口」で、語説は一致するから「同音」です。語る人はそれぞれ異なっても、語る内容は同じというわけで、『弥勒成仏経』などの仏典にもよく出てくる言葉です。

 お釈迦様の説法に際しても、感激のあまり、大衆が一斉に讃嘆した情景が、いろいろの仏典に描かれています。

 『今昔物語』には「仏の御名を唱えて利生に預からんと言いて、五百人異口同音を挙げて」とあります。

 現在では、異口同音はさまざまな場面で使われていますが、本堂いっぱいに集まった信者たちが、みな口々にお念仏を称えるなどすばらしい情景ですね。

 

 

 

18 威儀 (2020.6.8.更新)

 「威儀を正して授賞式に参列しました」というように、「威儀を正す」とは、なり、形を整え、作法にかなった立ち居ふるまいをすることをいいます。

  「居ずまいを正す」とも、「威儀を繕う」ともいいますね。

 仏教では、行(歩くこと)、住(とどまること)、坐(すわること)、臥(寝ること)を「四威儀」といい、それぞれに守るべき戒律が定められています。だから、威儀は日常生活での一切の行動を包括しているのです。

 禅宗では「イイギ」と読み、規律にかなった正しい立ち居ふるまいをいいます。

 戒律上の細やかな作法や規則も威儀といい、小乗には三千威儀、大乗には八万威儀と、戒律の異名にもなっています。

 また、袈裟の肩上から前後に通じる平絎の紐も威儀と読んでいます。

 現代では、威儀を正さなければならない場面が少なくなってきたようです。しかし、そのことが心の乱れにつながらないようにしたいものですね。

17 安楽 (2020.5.8.更新)

   安楽は、身心に苦痛がなく、この上もなく楽な状態をいう日常語です。

 休息用のひじかけ椅子にを「安楽椅子」といったり、助かる見込みのない病人を、苦痛なく死なせることを「安楽死」といって、社会問題になったりします。

 仏教では『無量寿経』に「その仏の世界を名づけて安楽というとあるように、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土のことをいいます。安楽国、安楽仏土、安楽浄土、また安養浄土など、さまざまな表現がなされていますが、みな阿弥陀仏の世界のことです。

 また、禅でも安楽法門というのがあり、身は安らかで心楽しく行える坐禅をいいますから、そこに至るには

なかなかの修行ではないはずです。

 安楽とか極楽というと世間的な快楽が満ちていて、そこで安楽に暮らすように思う人がいますが、果たして、そうですかな。浄土に往生して悟りを開いた人は、この世に帰って来て、迷える人々に利益を与えることに窮まりがない、と説かれています。たいへん忙しいようですよ。

 

16 行脚 (2020.4.10.更新)

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」

『奧の細道』の有名な冒頭の文です。松尾芭蕉が元禄二年(1689)、江戸深川を出発し、門人曾良とともに奥羽北陸を行脚した旅から300年以上も経ちました。

 行脚とは、僧が一定の住所をもたず、師や友を求め、自分の修養や教化のために、処々を遍歴することで、仏道修行のための旅のことをいいます。

 お釈迦様は弟子たちに「これからは世の人々の利益と幸福を実現するために、国内をくまなく遍歴せよ」と教えました。

 寺院仏教が発展してからは定住化しましたが、中国では禅宗が興隆して、諸国行脚が盛んになったといいます。

 行脚僧は行く雲や流れる水のように、足にまかせて諸国を遍歴するので、雲水ともいいます。俳人たちの諸国旅行もまた行脚といいます。

 今では、行楽地は車でいっぱいですが、これを機会に一度徒歩で旅をしてみませんか。

15 安心 (2020.3.5.更新)

 テレビや新聞のニュースを見ていると、不安なことばかりです。親が子を殺し、子が親を殺す。友人を殺し、幼児を誘拐して、老人をだます。お金のためなら何でもするような事件が多いですね。

 これでは、安心して暮らしていけなくなりました。

 安心とは、心配がなく心が安らかなことをいいます。赤ちゃんが母親の胸の中で安心し切って眠っているような状態ですね。

 仏教では、仏法によって心の安らぎを得て、動ずることのない境地をいいます。

 禅宗では「アンシン」と読み、修行によって得られる安心した心の境地をいいますが、浄土真宗では「アンジン」と読んで、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏して浄土に往生できると確信して疑わない心をいいます。

 「安心立命」は、天命を知って心を安んじ、何事にも揺らぐことのない境地の意味ですが、安心は仏教語、立命は儒教語です。

 いずれにしても、安心できる世の中になって欲しいものですね。

 

14 有り難い (2020.2.7.更新)

 「ありがとう」は、一般に感謝やお礼の心を表す日常語として常識になっています。

 生物の先生に「現在この地球上には多くの生命が生まれているが、一番多いのは何ですか」と聞いたところ、バクテリアやウィルスなどのミクロの世界の生物、微生物が多いそうです。

 グラウンドに行き、「このいっぱいの砂が地球上の生命の数だとしたら、人間の数は」と問うと、一握りの砂だと教えられました。

 これでは人間に生まれる可能性は皆無でしょう。三千億分の1だという人もいます。三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」とあるように、人間として生まれることや、仏の教えに遇うことは、なかなか難しく「有り難い」ことなのです。

 「有り難い」は文字通り、有るのが困難、めったにない、珍しいという意味です。だからこそ、貴重である、かたじけない、もったいない、畏れ多いという感謝の気持ちを表す言葉になりました。

 どんなときでも、誰に対してでもすなおに「ありがとう」と言えるようになりたいものです。 

 

13  天邪鬼 (2020.1.23.更新)

 他の人たちが、白といえばわざと黒というように、わざわざ他人に逆らう「つむじ曲がり」のことを、よくあまのじゃくといいます。

 あまのじゃくは瓜子姫の話など、日本各地の民間説話に多く登場しています。たいていはずるがしこくて、かわいげがありません。他人の心をよくさぐり、姿や物をまねたり、口まねをしたりして人に逆らいますが、最後には滅ぼされてしまいます。

 仏教では、もともと毘沙門天が腹部につけている鬼面のことを海若といい、水神と考えられていましたが、後には毘沙門天の足の下に踏みつけられている二鬼を耐薫と呼ぶようになりました。

 あまのじゃくは『日本書記』に登場する天探女から始まったという説もあるようですが、いずれにしてもあまり人に逆らってばかりいると、踏みつけられて、最後には滅びてしまいますよ。

12  阿鼻叫喚 (2019.12.20.更新)

 「幾十万にもおよぶ広島在住の無辜の民を、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄に晒したということであります」。井伏鱒二の『黒い雨』には原爆が投下された情景を、このように描いています。

 「阿鼻叫喚の巷と化す」と表現されるように、阿鼻叫喚は、戦場や大災害の惨状を形容する語句で、地獄絵そのままに、人々が泣き叫び、逃げまどう悲惨な状況を表しています。

 この「阿鼻」も「叫喚」も地獄の名前で、八大地獄の中に入っているものです。

 阿鼻地獄は無間地獄と訳されるように、間断なく苦しみを受ける地獄の中で最も苦しい場所です。

 叫喚地獄では、熱湯たぎる大釜の中に投げ込まれたり、猛火の鉄室に入れられたりの苦しみを受けます。

 この両地獄ともあまり苦しみに耐えられず、泣き叫ぶというところから、惨状を形容する言葉となりました。

 あれから六十年経ちました。このような阿鼻叫喚の情景が、世界中から無くなるように、念願したいものです。

11 あばた (2019.11.7.更新)

 「あばたもえくぼ」という諺をご存知ですか。

 愛する者には、あばたさえもえくぼに見えるという、ほほえましいたとえです。

 こわいと恐れている人の目には、枯れ尾花もゆうれいに見えるという、「ゆうれいの正体みたり枯れ尾花」の類です。

 この「あばた」とは、サンスクリット語「アルブダ」の音写で、腫物とか水疱という意味で、仏典にも出てくる言葉です。

 仏教で説かれる八寒地獄の一つに、阿浮陀地獄があります。嘘をついたり、悪口を言ったり、聖者を軽蔑する言葉を吐いた者が落ちる地獄です。

 この地獄に堕ちると、極寒にさらされるため、身体中に腫物ができ、そのために、たいへん苦しむといわれています。

 このアルブダ・阿浮陀があばたとなり、天然痘のあとに残る痕跡の意味となりました。

 現代では、幸いなことに、天然痘は種痘のおかげで無くなってきましたが、「あばたもえくぼ」に見える心は、ますます盛んなようですよ。

10  悪口 あっこう (2019.10.10.更新)

妄語をいい、綺語を好み、悪口して他を罵り、両舌して他の親好を破することを、口の四悪業という」と、『十善法語』という仏書に書かれています。

 妄語は嘘をつくこと、綺語は真実にそむいて巧みに飾りたてた言葉。悪口は人をあしざまにいうこと。両舌は両方の人に違ったことをいい、両者を離間して争わせることで、二枚舌のことです。

 この4つは、口でしゃべる悪の行為だといいますから、慎まなければなりまね。悪口は一般にワルグチとか、アッコウと読みますが、仏教ではアックと読みます。

 悪心をもって人に悪言を加え、相手を悩ませ、傷つけることです。

 『正法念処経』は「人間は生まれながらにして口の中に大きな斧をもっている。その斧で他人を切るならば、それは悪口となる」と説きます。恐ろしいことですね。

 いずれにせよ、人に不快感を与えるような言葉は慎み、対人関係を大切にしたいものですね。

 あなたの一言が、相手の人生を変えさせることになるかもしれませんよ。

9 阿号 あごう (2019.9.14.更新)

 能の観阿弥・世阿弥、水墨画・連歌の能阿弥、書院造の相阿弥、作庭の善阿弥、立花の立阿弥、美術鑑定の千阿弥など、みんな名に「阿弥」がついています。

 名前の下に「阿弥陀仏」略して「阿弥」「阿」をつけるのを、「阿弥陀仏号」略して阿号といいます。

 これは法然上人から念仏の教えを聞いて感銘した俊乗房重源が、みずから南無阿弥陀仏を名としたところから、浄土宗や時宗などでよくつけられ、中世以降は、仏工・画工・能役者など、芸能関係者が好んで用いました 昔、筒井順昭が病死したとき、嗣子の順慶がまだ幼かったので、敵から攻められるのをおそれて、遺言により、声が順昭とよく似ていた南都の木阿弥を寝所に寝かせ、順昭が病気で寝ているように見せかけました。そして順慶が長ずるに及んで、順昭の喪を発表したと『天正軍記』は紹介しています。

 順昭の代役を務めた木阿弥は、もとの市人に帰っていきました。

 今では諺になっている元の木阿弥の一席でした。

 

8.悪事千里を走る (2019.8.21.更新)

 戦争が勃発すると、戦場の悲惨な場面を逐一茶の間のテレビに映し出すようなったはじめは、1991年の湾岸戦争でした。この戦争の特徴は、ハイテクの使用とテレビ戦争でした。

 以来、2001年のアメリカ同時多発テロ事件のときには、まるで実況中継でしたし、その後の世界各地での戦争状況もマスメディアを通じて世界中に伝えられています。

 まさに「悪事千里を走る」です。

 このことわざは、悪い行いはすぐに世間に知れ渡る、という意味ですが、戦争という悪事は地球上を駆け巡りました。

 『景徳伝燈録』に、「好事門を出でず、悪事千里を行く」とあるのが、このことわざのもとです。

 好いことはなかなか世に知られないが、悪いことはすぐに広まる。それが世相である。だからこそ、達磨大師は好いことを伝えるために、インドから遠く中国までやってきたのである、というのです。

 仏教は「不殺生戒」の立場から「いのちを大切に」をスローガンにしています。

 一日も早く、本当の平和という好事が、千里といわず、地球上を駆け巡ってほしいものです。

7.諦め (2019.7.10.更新)

 どうにもならないことをにくよくよ考えないで断念することを「あきらめる」といいます。

 お釈迦様は、悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで五人の友人たちに、初めてその法を説かれました。初転法輪と呼ばれているのがそれで、その説法の内容が「四諦」の教えでした。

 「諦」とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」、すなわち明らかに真実をみるという意味なのです。

 お釈迦様はその悟りの内容を、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって、真理を知ることができると説かれました。

 だから、「諦」という語は、現在のように消極的な用い方ではなく、真理を悟るという力強い語なのです。

 しかし、その時、自分ひとりの力ではどうにもならないことを悟るのが、本来の意味なのかも知れませんね。

 

6. 阿吽・ (2019.6.12.更新)

 相撲の仕切りは「阿吽の呼吸」を合わせます。吐く息、吸う息を合わせるのです。

 社寺の門前の狛犬さんや、山門の仁王様は、一方が口を開いて「ア」、他方は口を閉じて「ウン」と、阿吽の姿をしています。

 サンスクリット語では、最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳され、最後は「フーン」と口を閉じて出す音声で「吽」と訳されています。

 日本のアイウエオで始まる五十音図は、このサンスクリット語の配列にヒントを得て、それに基づいて整理されたものといわれていますから、同じく「ア」で始まり「ン」で終わっているのです。

 このように、阿吽は、ものの始まりと終わり、出息入息を示しています。密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心と涅槃などの象徴としているともいわれているようです。

 皆さん、何事にも、阿吽の呼吸が大切ですよ。

5. 会うは別れ (2019.5.15.更新)

 はじめより あふはわかれと 聞きながら 暁知らで 人を恋ひける

 

 古来より現代に至るまで、この情念をうたったものは数多くあります。

 「会うは別れのはじめとは、知らぬ私じゃないけれど」という切ない思いは、すっかり日本人のものになっていますね。

 この「会うは別れのはじめ」というのは、『白氏文集』の「合者離之始」を口語訳したものですが、『法華経』の「愛別離苦、是故会者定離」や『仏遺教経』の「会う者は必ず離るることあり、憂悩を抱くことなかれ」などという、仏教思想をやさしく表現したものです 「生者必衰、会者定離」といわれるように、生じたものはかならず滅し、会ったものは定めて離れなければならないという、人生の無常を表しています。

 三月四月は、卒業、入学、入社、転勤など、人の往来の多いシーズンです。人生のはかなさを悲観的にながめるのではなく、だからこそ、出会いを、人間関係を大切にしていきたいものです。

 

 

4.  挨拶 (2019.4.7.更新)

「一言、ご挨拶申し述べます」儀式などのときに、よく聞かれれる言葉です。挨拶状などという手紙が来たりもします。ちょっとすごんで「挨拶してやるぞ」とか、冷たく「ご挨拶ですね」と、挨拶は今では日常語になりました。

 しかし、挨拶はもともと仏教語なのです。挨は「押す」こと。拶は「せまる」という意味から、挨拶は、前にあるものを押しのけて進み出ることをいいます。

 禅家では、「一挨一拶」といって、師匠が門下の僧に、また修行僧同士があるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作で、その悟りの深浅を試すことがあります。これが挨拶なのです。

 そこから転じて、やさしく応答とか返礼、儀礼や親愛の言葉として使われるようになりました。

 最近は、日常の挨拶が少なくなったように思います。日々の暮らしを円滑に過ごすためには、まず挨拶からですね。

 

3. 愛敬‣愛相 (2019.3.9.更新)

 「男は度胸、女は愛嬌」とか、「愛嬌をふりまく」など、愛嬌といえば、にこやかでかわいらしいことや、愛想のよいことを意味する言葉として知られています。

 この愛嬌は本来、愛敬と書き「アイギョウ」と読んで仏教語でした。愛しみ敬うことを意味したのです。 

 仏・菩薩の容貌は温和で慈悲深く、拝む人たちが愛敬せずにはおられない相を表しておられるので、その相を「愛敬相」といいます。愛敬は、その愛敬相から来たものなのです。

 また、「愛想がよい」とか、「愛想が尽きた」などと使われている愛想という語も、本来は愛相で、そのものとは同じ愛敬相から出た語のようです。

 同じ愛敬相から、「愛敬・愛相」が生まれ、それが「愛嬌・愛想」となっていったようですが、いずれも、もとは仏さまのお顔の相だったのですね。

 

2. アイウエオ (2019.2.7.更新)

 電話番号帳、辞書、名簿。みなアイウエオ順に並んでいます。昔は、順序符号にいろは順を使うことが多かったようですが、現代ではアイウエオ順が普通になりました。

 この五十音図が仏教語という訳ではありませんが、『広辞苑』に「国語音に存する縦横相通の原理を悉曇の知識によって整理して成ったものか。また、悉曇より出たもの、漢字音の反切のために作られたものなど、その発生については諸説ある」とあります。

 「悉曇」とは、古代インドの言葉サンスクリット語の文字のことで、仏教経典にも用いられたものです。だから、悉曇学は仏教者の学問でもあります。

 五十音図は、サンスクリット語の母音の中からアイウエオをとり、それに子音の同じものを同行、韻の同じものを同段として、アカサタナハマヤラワの順で配列していますが、これはサンスクリット語の配列とよく似て、悉曇の影響を窺わせます。

 「いろは」といい、「アイウエオ」といい、やはり日本文化の底には仏教が流れていますね。

 

1. 愛 (あい)(2019.1.29.更新)

 バレンタインデーに、女性が愛する人にチョコレートを贈るようになったのは、いつからのことなのでしょうか。とにかく、街には愛のチョコレートがあふれています。

 この「愛」が仏教語です。

 仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」と『涅槃経』にあるように、「愛」は迷いや貪りの根源となる悪の心のはたらきをいいます。「愛」のサンスクリット語「トリシュナー」の意味は「渇き」です。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。

 愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味をもっています。

 一方仏教では、このような煩悩にけがされた染汚愛ばかりでなく、「和言愛語」のように、けがれていない愛も説かれています。仏・菩薩が衆生を哀憐する法愛がそれなのですが、この場合には、たいてい「慈悲」と呼ばれているようです。

 チョコレートをもらったばかりに、愛のしがらみに苦悩を深めている人はいませんかね。