浄土真宗の基礎知識

 当ホームペイジでは住職放談として、法話やエッセイを通じて浄土真宗のみ教えを味わっていますが、系統だって浄土真宗のみ教えをお話することができません。それでこのコーナーでは、浄土真宗のみ教えについてひとつづつ考えていくようにしたいと思います。

 仏教の基礎知識と同様にここでもかつて住職の私が学んだ本山の中央仏教学院の通信教育のテキストと村上速水和上の『親鸞読本』をもとに私が要約して書いてまります。

 毎月少しづつですが、真宗のみ教えについて耳を傾けていただきたいと思います。

 

親鸞聖人 一本の道 66 (2020.3.2.更新)

  11  凡夫の道をひらくー結婚と在家生活ー

    結婚への決断をうながしたもの

 救世観音大菩薩  聖徳皇と示現して 多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ

 聖徳皇のあはれみて 仏智不思議の誓願に すすめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる

 和国の教主聖徳皇  広大恩徳謝しがたし 一心に帰命したてまつり  奉讃不退ならしめよ

                                       (皇太子聖徳奉讃)

 しかし、親鸞聖人の眼に映じていた太子は、同時に在家仏教の先達者としての太子であったであろうことも想像せらます。二十九歳のとき、六角堂できいた「西方極楽の弥陀・観音・勢至の三尊が、仏法弘通のために現れたのが母とわたしと妃であった」という「廟窟偈」の文を、親鸞聖人はそののちも深い感懐をもって吟味していたにちがいありません。

 

 親鸞聖人 一本の道 65(2020.2.5.更新)

 11 凡夫の道をひらく―結婚と在家生活ー

   結婚への決断をうながしたもの

 しかしながら、そこに何の躊躇もありませんでした、といえば嘘になるでしょう。長い仏教の伝統を超えようとする、この革命的な行為の底には、大きな決断が必要であったに違いありません。

 そしてそこには、親鸞聖人の決断を促す重要な契機となった二人の人物が介在しているように思われます。一人は在俗の身でありながら深く仏教に帰依せられた聖徳太子であり、他の一人は、かつて学僧の名声を博しながら還俗して、人知れず念仏とともにその生涯を閉じた沙弥教信であります。

 聖人が聖徳太子を「和国の教主」とよんで深く景仰したことは前にもお話した通りですが、その気持ちの中には、日本に仏教を輸入せられた大恩人であり、殊に六角堂において親鸞聖人に死中の活路を示唆された偉大な先人であったという謝念が含まれていたであろうことはいうまでもありません。

 

親鸞聖人 一本の道 64 (2020.1.5.更新)

 11  凡夫の道をひらく―結婚と在家生活ー

   性の問題 ②

 先にも述べたように、表面にどれほど聖者の姿を装ってみても、内面に潜む獣性の根強さを思い知らされ、そしてそれをどう処理するこもできないことを体験された親鸞聖人においては、人間のなす行為は所詮偽善でしかありませんでした。しかし、そのような凡夫こそ救わんとせられる弥陀の本願であることを聞かされ、その世界に身を投ずることによって絶望の淵から救い上げられた親鸞聖人においては、もはやそれはことさらあげつらうべき問題ではなかったのではないでしょうか。

 「本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故に」(歎異抄第一章)

 歎異抄のこの言葉には、阿弥陀仏の救いに投托した聖人の絶対的な確信がうかがわれます。従来しばしば言われてきたように、師命のためにやむなく結婚されたのでもなければ、また後の念仏者たちに範を垂れるというような意図では決してなかったのです。

 

親鸞聖人 一本の道 63 (2019.12.19.更新)

 11 凡夫の道をひらく―結婚と在家生活ー

   性の問題 ①

 ともあれ、親鸞聖人もまた人の子であります。性の問題に全く無関心であったとは考えられません。そう考えようとしたならば、かえって不自然なことでありますし、人間親鸞聖人の姿を歪曲するものになりましょう。先に親鸞聖人は比叡山において、青年時代の二十年間、ひたすら修行に専念しましたが、そこに見いだされたものは煩悩具足の凡夫という自覚であったことを述べました。思うにその自覚も、問題の根源は愛欲にあったのではなかったのではないでしょうか。

 しかし、法然上人から、阿弥陀仏の絶対の慈悲には、男女、老少、貴賤、道俗のいかなる差別もないことを聞かされたとき、そして今や僧にあらざる身分となったとき、聖人は素直に人間性を肯定することができたのではないでしょうか。 

 

親鸞聖人 一本の道 62 (2019.11.4.更新)

 11  凡夫の道をひらく―結婚と在家生活ー

    玉日との伝説 ②

 ところで、当時僧侶でありながら妻帯した者は、決して少なくなかったことは、『沙石集』に「かくすは上人、せぬは仏」と、仏教界の裏面を皮肉っていることからも想像されます。それにもかかわらず、親鸞聖人の結婚だけがさまざまに取り沙汰されるのは、聖人のようにつゆ堂々とそれを敢行したものがなかったということ、また本願寺教団が強大なものとなるにつれて、これを嫉視する立場からいろいろ虚飾された話が捏造されたり、反対に教団の内側においては、ことさらに祖師の行状を美化せんとして、このような伝説が生まれたものと思われます。

 

 

親鸞聖人 一本の白道 61 (2019.10.3.更新)

  11  凡夫の道をひらくー結婚と在家生活ー

   玉日との伝説 ①

 愚禿と名のり、非僧非俗を表明した親鸞聖人は、この地越後において三善為教の娘と結婚された。後に恵信尼と呼ばれる人がその方です。

 もっとも聖人の結婚については、いろいろな異説があります。ことにそれについて有名なのはの、関白九条兼実の娘玉日と結ばれたという伝説です。これは法然上人に帰依した兼実が、出家の者の念仏と、在家の者の念仏とに優劣がないことを証明するために、自分の娘玉日を門弟の一人に配せられるように懇願したため、法然上人は親鸞聖人を選んで結婚をすすめ、聖人は恩師のすすめを拒むことができずに、やむなく玉日と結婚したというものです。

 この伝説がながい間、親鸞教徒の間に信じられてきたものですが、近時真宗史学の進歩によって、全くの虚構の物語にすぎないことが明らかにされました。すなわち兼実の日記『玉葉』にもこの話は記されておらず、また『尊卑分脈』の九条家の系図にも玉日という女性は存在しないこと、さらにこの伝説が初めて現れるのは室町時代初期のものと思われる『親鸞上人御因縁秘伝集』という俗書にすぎないことなどが明らかになったからです。

 

親鸞聖人 一本の白道 60 (2019.9.13.)

   10   僧にもあらず俗にもあらず

   愚禿の心情 ②

 このことは親鸞聖人が流罪に遇うたことを、必ずしも逆縁としてうけとらず、むしろそのことによって、僻地の民衆に念仏の法を伝えるこよなき縁を恵まれたものとうけとっていることによって知られます。すなわち『親鸞伝絵』にそのときの聖人の言葉として「大師聖人(源空)もし流刑に処せられたまはずば、我また配所におもむかんや。もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。是れなお師教の恩致なり」と伝えられているのが、その消息を物語っています。

 ともあれ、わたくしたちは親鸞聖人のこの事績の中に、弥陀の本願を信ずるものは強い確信を恵まれて、真理を阻むものに対しては断固としてこれと戦い、たとい逆境におかれてれも、かえってそれを仏法弘通のこよなき良縁としてうけとる力を恵まれることを教えられます。それこそ聖人の説いた転悪成善、常行大悲の益というべきでありましょうか。

 

親鸞聖人 一本の白道 59(2019.8.16.更新)

 10  僧にもあらず俗にもあらず

    愚禿の心情

 しかし愚禿の名告は、ただ単に外に向かっての憤懣やる方なき心情の表明だけであったのでしょうか。あえて愚の字を冠しているところに感じられるものは、自己自身に向かっての厳しい内省の言葉でもあったということであります。

 賢者の信を聞いて、愚禿が心を顕わす。

 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。

 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)

 外に賢善の相を装いながら、内は虚偽にみちている恥ずべき愚禿の姿。それがこの名告によみとられる親鸞聖人の心情でもありました。いわば仏の慈光に映しだされた自己の赤裸々な姿を表明されたのがこの名告であり、非僧非俗とは阿弥陀仏の救いには僧と俗、在家と出家との区別なく同朋であることをに意味しているものともうけとられます。まさに仏の大悲におさめとられたものの慚愧と感謝の交流する心情の表明でもありました。

 

親鸞聖人 一本の白道 58 (2019.7.3.更新)

 10 僧にもあらず俗にもあらず

   非僧非俗の精神

 とまれ、今や親鸞聖人は国家の認める僧ではなくなった。といって、聖人を罰した国家権力(俗)の側にくみする者ではもちろんありませんでした。僧でもなく俗でもないー聖人はその心情を表明して「愚禿」と名のりました。

 真宗興隆の大祖源空法師、幷びに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。或いは僧の儀を改めて姓

 名を賜うて遠流に処す。予は其の一なり。爾れば已に僧に非ず俗に非ず。是の故に禿の字を以て姓と為す。

と。さればその愚禿という名告の中には、国家権力に対する聖人の激しい抵抗の精神が潜んでいます。それは上に掲げた言葉の前は、承元の法難を記して、

 主上臣下、法に背き、義に違し、忿を成し、怨を結ぶ

という、きわめて激越な口調の言葉があることによって充分察せられますし、また

 今の時の道俗、能く己が能を思量せよ

という口吻の中にはも看取することができます。そこには真理を阻むものに対しては、断固として服従しなかった親鸞聖人の不屈の面魂が見られます。

 

親鸞聖人 一本の白道 57 (2019.6.9.更新)

 10 僧にもあらず俗にもあらず―愚禿の名告ー

   承元の法難と越後への配流 ②

 ともに僧籍を剥奪され、法然上人には藤井元彦、親鸞聖人には藤井善信という俗名が与えられました。なぜ、そのような処置がとられのかといいますと、元来出家とはこの俗世間を離脱したもののことであります。したがって、この世間の秩序を維持するために設けられた国法は、これを直ちに出家の者に適用することはできません。そこで出家の者が罪を犯したような場合には、一旦彼らを還俗させたうえで法を適用し、俗人として処罰するのが慣例となっていたからです。

 ところで当時の流人の生活はどのようなものであったのでしょうか。『延喜式』によれば、配所に至れば、身分の上下を問わず、一様に日に米一升、塩一勺が支給されました。これによって自活しながら、さらに貸与された田に種子をまいて稲を作ります。秋になって収穫を得ると、それ以後は米、塩、種子ともに支給を停止せられて、自給せしめられたといいます。

 寒風肌をつく北越の地に、無実の罪に問われて自活の生活を送った親鸞聖人。彼はその間、何を考えたでありましょうか。親鸞聖人のその後の生涯に、この流罪生活がどのように影響していたったかは、私たちの記憶に充分とどめおく必要がありましょう。

 

親鸞聖人 一本の白道 56(2019.5.4.更新)

 10. 僧にもあらず俗にもあらずー愚禿の名告ー③

   承元の法難と越後への配流

 しかし「好事魔多し」といいます。このような法然聖人との共なる生活も、決して平穏無事ではありませんでした。元久元年(1204)、比叡山の大衆は、一部の念仏者の不行跡をとりあげて、法然教団の解散を決議しました。しかし、法然聖人は直ちに七箇条の起請文を書き、門下189名の連署をもってその撤回を求めたため、幸いに一度は事態は収拾されました。けれどもその翌年には、南都仏教をに代表する貞慶の起草した法然教団の過失九箇条を指摘した弾劾文は、ついに朝廷を動かして念仏を停止せしめ、教団の解散を命ずるに至りました。そして法然聖人は土佐の国(のちに讃岐に代わります。現在の香川県塩飽島)に、また主だった弟子たちも各地に配流されました。親鸞聖人もその一人として越後国府(現在の新潟県直江津市)に流罪されたのでした。時に法然聖人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。

 

親鸞聖人 一本の白道 55(2019.4.4.更新)

 10.僧にもあらず俗にもあらず―愚禿の名告ー②

 …選択本願念仏集は禅定博陸 月輪殿兼実・法名円照 の教命に依りて撰集せしむる所なり。真宗の簡要、念仏の奥義、斯に摂在せり。見る者諭り易し。誠に是れ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉って、其の教誨を蒙むるの人千万と雖も、親と云い疎と云い、此の見写を獲るの徒、甚だ以て難し。爾るに既に製作を書写し真影を図画せり。是れ専念正業の徳なり。是れ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す。…深く如来の矜哀を知って、良とにし師教の恩厚を仰ぐ。慶喜弥々至り。至孝弥々重し。(教行信証‣化巻)

という文字の行間に溢れる親鸞聖人の感激を見よ。その他、この師弟の親密さは、信行両座の伝説や、信心一異の諍論などにも意味ぶかく伝えられています。

 

親鸞聖人 一本の白道 54 (2019.3.4.更新)

 ⒑ 僧にあらず俗にあらず―愚禿の名告ー

 師弟の信頼

 法然聖人の弟子となられた親鸞聖人は、そののち、その膝下にあって、熱心にその教えを学んだ。その当時の筆写と推定され、今に伝わる『観経・小経集註』には、親鸞聖人の勉学の跡が克明に記されている。そして聖人がいかにその師法然聖人に傾倒したかは、前に述べた通りです。また反対に親鸞聖人が法然聖人からどれほどの信頼をうけたかは、公開をはばかった法然聖人の主著『選択本願念仏集』を、元久二年(1205)33歳のときに、特に許されて書写していることからもうかがれます。それは親鸞聖人にとっていかに大きな感激であり榮譽であったことでしょうか。

 元久乙丑の歳、恩恕を蒙って選択を書しき。同じき年の初夏中旬四日に、選択本願念仏集の内題をあの字、幷に南無阿弥陀仏往生之業念仏為本と、釈綽空の字と、空の真筆を以て之を書かしめたまいき。

 

親鸞聖人 一本の白道 53(2019.2.2.更新)

 新興宗教の説く現世利益は、物質的肉体的な利益であり、とかく人々の好餌となりやすいですが、しかし、それは宗教の領域を逸脱したものと断定せざるを得ません。宗教の任務はあくまでも人間そのものの救いであり、生死の解脱ということでなければならないのです。生の依るところ死の帰するところを与えるものこそ、真実の宗教の面目でなければなりません。それによって結果的に物質的肉体的利益があるとしても、それを目的とするものであってはならないのです。

 親鸞聖人の宗教は、成仏という理想の達成を、未来浄土に生まれることによって果たすものと教えるのですが、その未来の救いがそのまま現在の救いとなって反映し、希望と歓喜と感謝との充実した生を送ることができると説くところに、重要な意義があることを見落としてはなりません。

 現世に浄土を建立し、現実において成仏することを説く聖道教は、いかにも現実的で雄々しい宗教のように見えますが、人生と人間の本質を見落とした観念論的宗教という外はありません。また単に往生浄土のみを説く一般浄土教は、現実軽視の批判に甘んじなければなりません。それに対して親鸞聖人の宗教は、その両面を見通した最も合理的な宗教であるということができます。

 

親鸞聖人 一本の白道 52(2019.1.15.更新)

 9.如来とひとし

 現世の利益

 そしてこの人々は「現実に無量の徳を獲る」といい、あるいは十種の益を得るとも説いています。すなわち『教行信証』の中に

「金剛の真心を獲得するものは、横に五種八難の道を超え、現生に必ず十種の益を獲。何者をか十とする。

 一には冥衆護持の益

   二には至徳具足の益

   三には転悪成善の益

 四には諸仏護念の益

 五には諸仏称讃の益

 六には心光常護の益

 七には心多歓喜の益

 八には知恩報徳の益

 九には常行大悲の益

 十には入正定聚の益

と説いてあるのがそれです。無量の徳といい、十種の益といい、正定聚の利益という。それは本願を信ずる者に恵まれる現生の利益の広・略・要というべきでありましょうか。しかし、無量の徳をうるといいながらも、そこに示されるものは、いずれも精神的利益であって、物質的な利益ではありません。

 

親鸞聖人 一本の白道 51(2018.12.15.更新)

  9. 如来とひとし

 如来とひとし

 親鸞聖人は本願を信じた人のこの地位を「正定聚」と呼ばれました。正定聚とは、まさしく仏に成ることに定まった仲間という意味です。したがってそれはまた不退転とも必定ともいわれます。一般仏教においては長い修行を積んだ菩薩のきわめて高い地位です。ですが、親鸞聖人は信心の行者をこの地位に配当し、菩薩の最高位にある弥勒と同じであると讃え、また「如来とひとし」と讃えられました。

 「真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁の当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。故に便同と曰うなり。」(教行信証・信巻)

 「まことの信心を獲たる人は、すでに仏になりたまふべき御身となりて在します故に、如来と等しき人と経に説かれて候なり。弥勒はいまだ仏になり給わねども、このたび必ずかならず仏になりたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申候なり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候也。」(末灯抄第十五通) 

 

親鸞聖人 一本の白道 50 (2018.11.3.更新)

 9.如来とひとしー信と救いー

現実の救い ②

 阿弥陀仏の本願を信じた一念に、成仏を約束されるという親鸞聖人の宗教においては、未来に浄土に生まれて仏になさしめられるという希望と期待とは、そのまま現在に反映して、現実生活に光をもたらすものです。人は多く現在と未来とを切り離して考えがちですが、現在という固定した時間、未来という固定した時間があるわけではありません。時間はあたかも逝く川の流れのごとくに、未来から現在へ、現在から過去へと流れて、しばらくも留まることはありません。現在は絶え間なく未来によって補われ、未来によって支えられている。したがって、未来に確かな希望をもつことのできるものだけが、真に現在を充実したものにすることができるのです。この意味において、親鸞聖人の宗教は決して単なる未来教ではありません。

 

親鸞聖人 一本の白道 49(2018.10.3.更新)

 9.如来とひとし―信と救いー

現実の救い

 さて、したがって人間の生はこのときを起点として、未来への希望に満ちた充足した人生へと転換するのです。もとより肉体があるかぎり、煩悩から離脱できるはずはありません。したがって一面から言えば、あくまで凡夫としての生活が続くわけです。しかし、凡夫が凡夫であるままに、仏の慈光の中にあるという自覚によって、慚愧と感謝の生活が恵まれるのですね。それは言い換えれば、我執我欲に支配せられ、恩恵を恩恵と感じない生活から、そのことの浅ましさを自覚させられて、仏心を規範とする生活に転ぜられるのです。それはさながら、人間でありながら人間苦にわずらわされない、人間を超えた生活であるということができるかもしれません。

 ここに親鸞聖人の宗教が現実生活に果たす役割があります。人はしばしば聖人の宗教をさして現実逃避の未來教の教えであるかのように考えがちですが、実は決してそうではありません。

 

親鸞聖人 一本の白道 48(2018.9.3.更新)

 9.如来とひとし―信と救いー

 弥陀の本願は、老若、男女、貴賤、智愚の区別なく、必ずすべての人を救わんとの願いであり、罪業深きものを殊にあわれみたもう願いであります。しかもその本願はすでに成就して、南無阿弥陀仏のみ名として私たちに廻向せられているからです。わたしたちにおいては、ただそのみ名を聞信する外はないのですね。そのとき救いはすでに成立し、罪業の重きことも問題とされません。罪業重きものを救わんとの誓願であるからです。

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと。」

 『歎異鈔』第一章のこの言葉には、本願を信じたものの確信が溢れています。

 

親鸞聖人 一本の白道 47(2018.8.19.更新)

   9.如来とひとしー信と救いー

臨終来迎の否定

 前に述べた第一、第二の形態の宗教においては、多少の相違はあっても、人間の側からの向上的な努力と修行とが必要でありましたから、仏との結合の証しが得られるまでは安心立命はできません。しかも人間が肉体を保持しているかぎり、煩悩を完全に断ち切るということは不可能でありますから、結局臨終の刹那において罪と悪との清算をするまでは、たえず不安に脅かされて、救済の確信を得ることはできないのですね。同じように浄土往生を目的としながらも、浄土真宗以外の浄土教において、臨終来迎が強く要請せられるのはそのためです。すなわち臨終に正念に住し、仏の来迎をうけることこそ、結合の証しと考えられたからです。

 けれども親鸞聖人は、この臨終来迎を期待することを強く否定されました。

 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるが故に、臨終といふことは諸行往生の人にいふべし、未だ真実の信心をえざるが故なり。……真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生また定まるなり、来迎の儀則をまたず(末

灯抄)」

と。すなわち親鸞聖人の宗教においては、阿弥陀仏の一方的な救いによるのですからその仏の本願を信じた時に、すでに救いは成立するのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 46 (2018.7.8.更新)

 8.仏にはからわれて―他力回向の宗教ー

 自然法爾の境地

 しかし一たび他力の世界に身を投じたならば、それはまた何という春風駘蕩たる世界であることでしょうか。親鸞聖人はその境地を「義なきを義とす」といい、「自然法爾」という言葉をもって表現していjますが、『教行信証』の中には、「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かにして、衆禍の波転ず」(行巻)という言葉をもって述べています。

 ちなみに、仏教諸宗の中で、もっとも自力的と考えられる禅宗の祖師道元の言葉に「自己をはこひて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(『正法眼蔵』・現成公案)という言葉が見いだされることは、まことに興味ぶかいものがあります。

 自力と他力と両極端の道を歩いた二人の結論が、期せずしてそこに一致を見せていることは、宗教の極致は同一の場所に出ることを教えているようです。自力も他力も実践を通さずしては、戯 論に終わることを教えているものということもできるでしょう。

 

親鸞聖人 一本の白道 45(2018.6.7.更新)

 8.仏にはからわれて―他力回向の宗教ー

 他力本願 ②

 すなわち親鸞聖人における他力とは単なる自力の相対概念ではなくて、自力の限界において発見された仏力であり、いわば自力を超えた他力なのです。更に言い換えるならば、難行の自力道に挫折して、易行の他力道に妥協したというような他力でもありません。ここに易行といわれるものの本質は、難行といわれるものと同じ次元にあるものではありません。易行とは阿弥陀仏の本願に乗ずることにおいてのみ用いられる言葉です。その道は自力の極限において発見されたものであったことにおいて、難行道を超えた易行道ということができるでしょう。

 すなわち自力無功と信知することによってのみ発見される他力であり、その意味において「難信の法」といわれ、その信は難中の難といわれるのです。聖人の宗教ほど妥協を許さない厳しいものはありません。しばしば誤解されるような頼他主義、依存主義とは本質的にほど遠いものであることがしっかりと理解されなくてはなりません。

 

親鸞聖人 一本の白道 44 (2018.5.4.更新)

 8.仏にはからわれて―他力回向の宗教ー

 他力の本願 ①

 また、すでに述べたように、親鸞聖人の宗教における他力の救いということほど、多くの誤解を受けてきたものはありません。それはしばしば人間の向上的な努力を否定するもののように受け取られ、頼他主義、依存主義と同じ意味に理解されがちでした。しかし今、親鸞聖人が到達した他力信の境地は、比叡山における血みどろの修行を通して人間の能力の限界につきあたり、人間がいかに我執煩悩から離脱することのできないものであるかを自覚せしめられて、その努力を放棄せざる得なかったところに見開かれたものでありました。

 ですから、それは決して「他人の力」という意味ではありません。聖人は明らかに「他力というのは如来の本願力なり」と限定し、また「十方群生海、斯の行信に帰命すれば、摂取して捨てたまわず、故に阿弥陀仏と名く。これを他力という」とおっしゃっています。

 

親鸞聖人 一本の白道 43(2018.4.3.更新)

8.仏にはからわれてー他力回向の宗教ー

 祈りの否定 ②

 親鸞聖人がいのりを否定されたということは、煩悩具足のわたしたちには、仏の心にかなうような純粋無我の祈りはありえないという自覚に立つからでした。また「仏心とは大慈悲これなり」と説かれる阿弥陀仏は、私たちの祈りに先行して、真実の心のない愚かな私たちを憐みたもう仏であらせられると領解されたからにほかなりません。ひたすらその仏の仰せを仰ぎ、その仏の願いに随順することこそ、仏心にこたえることのできる唯一の道と領解したからです。そしてそういう態度こそ、かえって絶対者を絶対者たらしめる態度ということができるのでしょう。

 

親鸞聖人 一本の白道 42 (2018.3.2.更新)

8.仏にはからわれて―他力回向の宗教ー

 祈りの否定

 けれどもこのことは、「いのり」という言葉が、親鸞聖人の著述の中にないということではありません。聖人が晩年に、弟子たちに送った手紙の中には、「念仏を御こころにいれて、つねにまふして、念仏そしらんひとびと、この世、のちの世までのことを、いのりあはせたまふべくさふらふ」というような言葉が散見されます。しかし、親鸞聖人の用いる祈りという言葉は、「世の中安穏なれ、仏法弘まれかし」というような祈りではあっても、自我拡張、欲望追求のために神仏に祈るというような祈りではありません。むしろ聖人はそのような現世の福徳を得るための祈りを強く否定されました。

 「仏号むねと修すれども  現世をいのる行者をば

  これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる」(高僧和讃)

という和讃にそれが示されています。

   けれども一般には、祈りを否定することは、神仏を無視するもののようにきこえるかも知れません。しかしよく考えてみれば、祈ることこそかえって神仏を無視し冒涜することになるのではないでしょうか。何となれば、人間の祈りはほとんど我執に基づく欲望の追求であるといってよいでしょう。それを神仏に祈願するということは、結局神仏によって利己的な願望を満足しようとするものです。そうであれば、それは神仏を欲望満足の手段とするものに外ならないことになるのではないでしょうか。それこそ神仏を冒涜するものです。

 またかりに人間の願望に応ずるそのような神仏が存在するとしたならば、それは祈るものと祈らぬものとを区別する神仏であって、平等であるべき絶対者としての性格を失うことになるのではないでしょうか。

 

親鸞聖人 一本の白道 41 (2018.2.5.更新)

8.仏にはからわれて―他力回向の宗教ー

 他力回向の宗教 ①

 Religionという言葉の言語には、結合という意味があるといわれるますが、およそ宗教といわれるものは、仏とか神といわれる絶対者と、相対的である人間とが結合することによって、人間が絶対の世界に到達することを目的とするものといってよいでしょう。

 この場合、その結合の仕方にはおよそ三種類の形態が考えられます。第一には人間が仏に向かって上昇していって仏の世界に到達するという方法。第二には人間も上昇していき、仏も降下してきて出会うという結合の仕方。第三には仏の方から一方的に人間のところまで降下してきて結びつくという結合の仕方。一般の宗教といわれるものは、ほとんど第一または第二の形態に属するものです。そのために人間からの祈りが絶対に必要なものとなってきます。

 けれどもこれまで述べてきたことからも明らかなように、親鸞聖人における人間とは、煩悩具足の凡夫であり、まったく成仏の可能性を失った悪人であって、ただ仏からの救いを仰ぐよりほかに、仏になる道を一切持たないものでした。仏の方から人間のところに下りて来て、仏によって捉えられる自分であることを信知するところに救済が成立すると説くのが、親鸞聖人の宗教です。ですから、その意味で聖人の宗教には祈りはありません。他力回向というのが親鸞聖人の明かしてくだされた浄土真宗という教えの著しい特色なのです。

 「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一には往相、二には還相なり」という言葉の中に、それが端的に示されています。ですから、もし祈りということばを用いるとすれば、聖人の宗教においては、「仏からの祈り」しかないのです。

 

 親鸞聖人 一本の白道 40 (2018.1.9.更新)

7.悪人なればこそー悪人正機ー

 学問上の諸問題について ②

 ここではやはり宗教的善根を積むことのできないものを悪人とし、自力によって善根を積習することができると考えて、その道を歩む人々を善人としているとしなければなりません。それは前に掲げた言葉に続いて次のような言葉が述べられているからです。

 「そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」

 善人とは自力作善の人であり、悪人とは煩悩具足の凡夫のことに外なりません。

 なお、近年「悪人もとも往生の正因なり」という言葉から、「悪人正因」ということを主張し、悪人であることが救いの理由であるかのように主張する人があるが、それは決してそうではありません。今引いた文章にも「自力のこころをひるがえして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」とあり、また「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」とあるますように、「他力をたのむ」ということ、阿弥陀仏の本願力に信順することこそが、往生の正因であるというのです。

 もし悪人であることが往生の正因であるというのであれば、本願の誓約は無視されることになります。そうなれば信仰そのものを否定する邪見に陥ることになります。

 

親鸞聖人 一本の白道 39 (2017.12.16.更新)

 7.悪人なればこそー悪人正機ー

 学問上の諸問題について

 なお、親鸞の悪人正機説について、学問的には色々な問題があります。たとえば正機とは、傍機に対する言葉ですが、悪人といわれる悪の意味を、万人に共通する普遍的な意味と解釈したならば、傍機たる善人はいなくなるのではないかという疑問があります。そしてそこから悪人正機の悪人とは、当時の権力者たちから「悪人とよばれた」農民であるとか、あるいは漁猟を事とするような下層階級の人たちであるとか、また殺生を事とした武士階級をさしているものであるなどという、さまざまな説が説かれています。けれども、仮にそういう社会階級的なある特定の身分や職業の人を指しているとしたならば、社会機構の変革や時代の変遷とともに、悪人といわれる人々の実体が変わることになります。阿弥陀仏の救済の対象が、時代や社会の変遷に伴って変わるというのは、おかしなことであると言わねばなりません。

 

親鸞聖人 一本の白道 38 (2017.11.6.更新)

 7.悪人なればこそー悪人正機ー

 悪人正機の思想がよび起すもの

 悪人正機の思想は、このような立場に立つ思想です。親鸞聖人が、阿弥陀仏の第18願に「唯、五逆と正法を誹謗するものを除く」とある言葉を、かえって仏の願心は、そのような極悪人に注がれているものとして受け取られたことは、一見すると、大胆きわまる無謀な解釈のようにも見えます。しかし、このような聖人の立場が理解されれば、そういう理解こそが、本当の仏意にかなったものであることがうなずけることでしょう。まことに親鸞聖人は、目をもって経典の文字を読んだ人ではなくて、身体をもって、文字の底に流れている仏心をつかんだ人といえます。

 そうでありますから、親鸞聖人の悪人正機説は、自己の悪を是認するもので

 もなければ、まして悪を勧める教えでもありません。廃悪修善の道に破れ、底知れぬ罪業に悲嘆するものに注がれる仏の大悲心を頂戴した人の表現に外ならないのです。したがって、この仏の心に目覚めた者は、自らの罪業を慚愧しつつも、かえって仏意に応えていこうとするたしなみの心がおのずから起こってくるはずです。道徳の限界を心得ないで、自己の善に誇る人にもまして、厳しい反省と積極的な善への追求実践が行われなければならないのですね。そこに一度は否定された倫理的行為が、今度は如来様への報恩のつとめとして蘇ってくる理由があるのです。

 このようにして悪人正機の思想は、人々を人間の真実の相に気付かしめるとともに、その深い自覚の立場から、新しい意味をもって道徳的、社会的実践をよび起す思想であるともいえるのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 37(2017.10.6.更新)

 7.悪人なればこそー 悪人正機ー

 誤解の生ずる原因は何か ②

 第三の点については、親鸞聖人が『教行信証』に引用された、

 「譬えば一人にして七子有らん、是の七子の中に病いに遇えば、父母の心は平等にならざらには非ざれども、然も病子に於いて、心則ち偏に重きが如し。…

如来も亦爾なり。諸の衆生に於いて平等ならざるに非ざれども、然も罪なる者に於いて、心則ち偏に重し。放逸の者に於いて仏則ち慈念したもう。不放逸の者は心則ち放捨す」(信巻)

 という『涅槃経』の文を読めば明らかです。慈悲はすでに道徳の心ではないのですね。道徳を超えた立場にある心です。悪人正機とは仏の慈悲の立場からの言葉です。仏からの言葉であるものを、人間からの言葉として持ち直すときに、この言葉は道徳を破壊する言葉となり、倫理を無視する言葉となってしまうのです。わたしたちは誤って人間からの言葉として用いてはならないのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 36 (2017.9.7.更新)

 7.悪人なればこそー悪人正機ー

 誤解の生ずる原因は何か ①

 では、悪人正機の教えから、このような誤解が起こる原因はどこにあるのでしょうか。その理由は次の三点に要約することができるのではないでしょうか。

 ⑴道徳の立場と宗教の立場との混同

 ⑵いわゆる悪人といわれているのが、自分自身のこととして受け止められい        るかどうかということ。

 ⑶正機とは、仏の慈悲の側からの言葉であることが理解されているかどうかということ。

 第一の点についてはすでに述べてきました。親鸞聖人の他力の信仰は、廃悪修善の道徳的宗教が破綻したところから出発していることが理解されなくてはなりません。ですから道徳の実践によって成仏という理想を実現できると考えている人々には、なかなか容認できない思想であるかもしれません。しかし、それではその人たちにとっては、悪人は永遠に救われないものなのでしょうか。

 第二の点の点についてですが、仏教はどこまでも自己自身の解脱にかかわる教えであることをに忘れてはなりません。単なる人間研究の教えではないのです。親鸞聖人は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とおっしゃっています。聖人における悪人とは、客観的にながめられた人間の姿ではなくて、聖人自身の内観の眼に映じた人間のすがたであったのです。他人を悪人と見ているのではないのですね。自己自身を悪人として慚愧しているのです。それがこの言葉なのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 35(2017.8.9.更新)

 7.悪人なればこそー悪人正機ー

 悪人正機 ①

 親鸞聖人が人間を悪人とする立場は理解されたとしても、なお、そのような悪人こそ、まず第一に救われなければならないとする悪人正機説に対する説明は十分ではありません。親鸞聖人の悪人正機の説を明確に示されているのが、つぎにあげた『歎異鈔』第三章の言葉です。

 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやと。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり云々」

 何という意外な言葉でしょうか。けれども、この思想は、決して『歎異鈔』にだけに見えるものではありません。すでに『教行信証』のはじめに、

 「権仮の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」

とあって、明らかに親鸞聖人自身の思想であることが確認されます。

 ところで種々になされた批判や誤解の中で、たぶんこの悪人正機の思想ほど多くの誤解をうけたものはないと思われます。すでに、聖人のご在世中からこの教えを曲解した人々があったことが知られています。それを造悪無碍の邪見といいますが、そのことは『歎異鈔』のつぎの言葉で知ることができます。

「そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらふ」。

 しかしこのような造悪無碍の考えが親鸞聖人の真意にもとるものであったことは、言うまでもありません。聖人はご門弟に宛てたご消息のなかで「薬あればとて毒をこのむぺからず」と厳しくこのような考えを誡めておられます。

 

親鸞聖人 一本の白道 34 (2017.7.4.更新)

 6.地獄こそすみか

 悪と愚 ②

 ところで、仏教における悪とは、すでに定義したように、第一義諦に背く行為のことであり、諸法平等の道理に背いて我愛の心にとらわれたものの行為に外ならなかったのです。親鸞聖人における悪と愚とは同意語でありました。

 愚者の行為は常に悪でしかありません。悪の行為をするものを愚者の名づけるのです。そうであれば、すべての人間は愚者であるともに悪人でもあると、明らかに見たのが親鸞聖人でありました。それはまことに徹底した人間観でした。

 このような深い人間性の洞察において、聖人がご自身のすべてを投托したのが他力の救済でありました。しばしば誤解されて用いられる他力。依存主義や頼他主義には、なお自力の可能性の意味が含まれていますが、聖人における他力とは、極重悪人の自覚において、阿弥陀仏の本願にまかせるより外に道なしと選びとられた他力でありました。親鸞聖人におけるこのような悪と愚の意味が正しく理解される場合にのみ、他力本願の意味もまた正確に理解されるものであるといえるのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 33  (2017.6.7.更新)

 6.地獄こそすみか

 悪と愚 ①

 親鸞聖人は自ら愚禿と称したのみならず、しばしば人間を愚者と呼びました。「愚鈍の衆生」「愚悪の衆生」「垢障の凡愚」などの言葉があります。愚は賢に対する言葉であり、愚者は必ずしも悪人ではありません。賢明な知識人であって罪を犯す人は決して少なくないことを現実の世相は示しています。

 けれども仏教においては、諸法は本来平等であると説き、この道理を体得することをさとりとしています。これに反して我執にとらわれたものを迷いとします。したがって迷いと悟りの区別は、この真理を明らかに見る智慧の有無によって区別されるのです。悟りとは智慧の眼の開けたもののことであります。迷いとは、この眼のないめしいたるものの別名ということにほかなりません。

智慧は光にたとえられます。また明かりにたとえられます。これに対して我執煩悩は闇にたとえられます。また無明ともいわれます。親鸞聖人が『浄土和讃』の中に阿弥陀仏を真実明とお呼びになり、私たちのことを世の盲明といわれているのは、その意味です。

 そうでありますから、親鸞聖人における愚とは、世間的知識や学問をもたないものの意味ではなくて、常に我執にとらわれ、真理への眼の閉じた盲目者であることを意味しているのです。しかも、我執にとらわれながら、なおそのことに気づいていないところに愚の愚たる意味があるのです。 

 

親鸞聖人 一本の白道 32 (2017.5.4.更新)

 世間的と出世間的立場のちがい ③

 親鸞聖人においては善悪の判断は、表面にあらわれた行動によってはじめて決定するものではありませんでした。悪心をいだいたことは、すでに悪業を犯したものに等しいものでありました。「心に色情をいだきて女人にを見るものは、すでに姦淫せるにおなじきなり」という聖書の言葉もまたこの立場を示しています。

 ここまで掘り下げた聖人においては、もはや生きているということは罪を犯していることに外ならなかったのです。殺生は明らかに罪である。しかし、誰が殺生の罪を犯さないで生きていくとができましょうか。「海川に網をひき、釣りをして世をわたるものも、野山に猪を狩り、鳥を取りて命をつなぐともがらも、商いをし、田畠を作り過ぐる人も同じこと」ではないでしょうか。そのようなものは永遠に救われないというのでしょうか。

 次に述べようとする悪人正機の思想は、このような立場が理解されなければならないのです。 

 

親鸞聖人 一本の白道 31  (2017.4.8.更新)

6.地獄こそすみか 

 世間的と出世間的立場のちがい ②

 何となれば、人間は表裏不相応であり、内外不一致であるからです。いいえ人は容易に内面の意志や感情を表面にあらわさないですし、しばしば内心と相反する動作を示し、言葉を用いるからです。ですから、表面に表れた行為が善と見えるような場合でも、裏面にひそむ我愛の心を深く反省したならば、おそらくは自分の行為を善として是認することのできるものはいないでしょう。

 善導大師が『観無量寿経』の「至誠心」を解釈して「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と説いて、真実心とはの内外共に一致して真実なる心でなくてはならないと示されたのに対して、親鸞聖人がこの言葉を『教行信証』に引用する場合に「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり」と読み替えらざる得なかったというのも、聖人のこのような立場が理解されれば、たやすく肯くことができるでしょう。だから親鸞聖人は、五逆や謗法の罪についても「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよし、ききてさふらふこそ、あさましくさふらふ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり」(『末灯抄』)と理解したのでした。

 

親鸞聖人 一本の白道 30 (2017.3.12.更新)

6.地獄こそすみか-親鸞聖人の立場 ②

 しかるにそのような人間の全体的なすがたは、人間自身の反省によっては、見出すことのできないものです。他者である仏の智慧の光によって映し出された相です。したがいまして、この立場における善悪は、絶対善である仏を基準としているということができます。仏の光の前におかれた人間の赤裸々な姿を、親鸞聖人は「極重の悪人」とよばれたのです。

 世間的と出世間的立場のちがい

   さらに仏教における善悪は、次のような観点から判断されることも注意しておく必要があります。仏教では、人間の行為について、身業、口業、意業の三種に区別します。その中、はじめの二業を思已業、後の一業を思業と分けます。言いえかえれば、思已業は身体や口に表れた行為であり、思業は表れる以前の意志行為です。世間的な立場では、善悪の判断は思已業についてするのが普通ですが、仏教においてはより根源的なものとして意業について判断を下すのです。ここでも、仏教の立場は、世間的立場に比べれば、はるかに厳密な立場に立っているということができます。

 

親鸞聖人 一本の白道 29 (2017.2.23.更新)

6.地獄こそすみかー親鸞聖人の立場 ①

 今親鸞聖人が、すべての人間を悪人とする立場は、そのような良心への懐疑と不信の立場であるといってもよいでしょう。人間的良心というようなものは、所詮は自己を是とし、他を非とする我愛我執を底に秘めているものであることを看破したのが親鸞聖人でした。仏教においては善悪の定義として

 「第一義諦に順じて起すを善といい、第一義諦に背いて起すを悪という」(菩薩瓔珞本業経)という言葉がしばしば用いられます。ここに「第一義諦に順じて起す」とは、諸法は本来平等であるという道理にしたがう行為を意味していますから、これを裏返していえば、純粋無我の行為を善ということになります。

 しかしながらすでに述べてきましたように、親鸞聖人がその修行を通して自ら到達し、自ら確認した人間の本質は、「煩悩具足の凡夫」にほかなりませんでした。我執煩悩から離れきることのできない存在なのでした。すなわち純粋

無我なる行為は人間には望むことのできないものでした。ここに人間の行為は雑毒の善か、悪でしかなく、人間はすべて悪人であるとする聖人の立場が見いだされるのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 28 (2017.2.3.更新)

6.地獄こそすみか―善悪の基準-②

 このような法律や道徳律を基準として、善悪の価値判断を下してゆく立場を世間的立場と呼ぶのであれば、この立場においては親鸞聖人といえども、人間の中に善人と悪人のいることを否定するものではないでしょう。正信偈には、「一切善悪の凡夫人」とあります。

 しかし、法律はもちろんのこと、道徳律といえども絶対的なものではありません。何となれば、道徳もまた時代によって変遷があり、国家によって一定していないからです。それだけではありません。私たちの日常におけるさまざまなことにおいてもそうです。同じ時、同じ場所において発生した同一の事件においても、対立する二人の人が、どちらもが良心的発言であると主張しながら、お互いに激しくその主張をぶつけ合って相剋しているすかだを見ることがあります。そのような時には、そもそも彼らが言うところの良心というものの絶対性を疑わざるをえません。

 つまるところ良心といっても、結局はその人個人の良心であって、国家全体とか、人類全体とか、歴史全体に一貫して通用するような良心などはありえないのです。良心にもまた限界があると言わざるえないといえると思います。

 

親鸞聖人 一本の白道 27  (2017.1.19.更新)

6. 地獄こそすみか―善悪の基準ー

 およそわれわれが普通用いる善悪の基準には二つのものがある。それは法律と道徳律である。まず、国法とか、それに準ずる法律を基準として、善悪を定める立場がある。法律が人間社会の秩序を維持してゆくために設けられている以上、これを基準として善悪を規定することは当然認めなくてはならないし、守られなければならないことは当然である。

 しかし、法律という尺度が完全なものでないことは、「例外のない法律はない」という言葉があることからも、明らかである。また法律が人間の手によって作られたものであるかぎりは、これを用いる人間の解釈いかんによって、いかに曖昧なものであるかも、いまさら説明を要しないであろう。

 法律に比べれば、道徳律はより厳しいものを基準とする立場に立っていると言うことができよう。「法的責任は免れても、道義的責任はまぬがれない」という言葉が使われるように、ここでは人間の外側の法をもって善悪を決めるのではなくて、人間の内面的な良心をもって規定するだけに、その基準はより厳密なものということができる。

 

親鸞聖人 一本の白道 26  (2016.12.19.更新)

6.地獄こそすみかー人間性の本質ー

 親鸞の人間観

 弥陀の本願に身を投じた親鸞聖人の人間観ほど徹底したものはない。聖人は人間を悪人といった。それもただの悪人ではなくて、極重の悪人であり、罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫であると言い切られた。しかもそれは現在の状態についてだけいったのではなくて、無始以来、未来永遠に変わることのない人間の本質であるといった。「地獄は一定住家ぞかし」というのがそれである。全く人間の価値を無視するかのような言葉である。このような親鸞聖人の人間観がしばしば誤解されるのもゆえなしとはしない。しかし、その誤解はおそらく親鸞聖人の主張する立場が正確に理解されていないことが原因であると思われる。それでは聖人の立場とはいかなる立場なのであろうか。 

 

親鸞聖人 一本の白道 25  (2016.11.15.更新)

 仏の願心にふれた喜び 

 親鸞聖人が法然聖人の言葉を通してふれたものは、この仏の切々たる願心であったのである。ながい間、煩悩を除くための修行を続けたけれども、煩悩とは人間の内奥にひそむ何ものかではなく、煩悩こそ人間の正体であったことに気づいたのであった。人間それ自体が煩悩であるとすれば、その煩悩はもはや人間自身の手によって除かれようはずはなかった。それはあたかも手についた墨を墨汁をもって洗い落そうとするにひとしい。それが徒労におわることは明らかであった。

 今や親鸞聖人がその矛盾に気づき、絶望の断崖に立った時、法然聖人から聞かされたのが、この仏の本願であったのである。そのような罪深きもののために、すでに用意せられていた仏の願い、はじめてそれを聞かされた時の親鸞聖人の感激はいかばかりであったであろうか。その昔、師の法然聖人が、この仏の本願にめぐりおうた時の模様を、弟子の聖覚は、つぎのように記している。

 「歓喜の余りに聞く人なかりしかども、予が如き下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをやと、高声に唱えて、感悦髄に徹り、落涙千行なりき(十六門記)」

 この時の親鸞聖人の感激も、またまさにその通りであったであろう。

 

親鸞聖人 一本の白道 24 (2016.10.15.更新)

 かぎりなく智慧と慈悲の仏となる ②

 なぜ、このような方法が考案されたのか。すべてのものを残らず救うためには、罪深く愚かな最低のものが問題にされなければならない。そのためには、人間の側からの善根や修行をまったく必要としない方法でなければならない。そこで、阿弥陀仏はその願いと智慧と慈悲とのすべてを「南無阿弥陀仏」というみ名にあらわし、その意義を聞信せしめることによって、一切衆生を救わんとおぼしめされたのである。すなわち人々はこの名号にあらわされる仏のまことを信じることによって、阿弥陀仏の浄土に生まれることができるのである。

 では、南無阿弥陀仏とは、どういう意味であるのか。南無とは梵語のナマスの音訳で、信順とか帰敬と訳される。阿弥陀仏とはアミタ-バ、アミタ―ユスの音訳で、無量光、無量寿と訳される。しかも光明は智慧、寿命は慈悲をあらわすものであるから、智慧と慈悲円満の仏であることをあらわすものが、この名号である。

 また無量光とは空間的無限を、無量寿とは時間的無限をあらわすから、いつでもどこでも常に作用しつづけている仏であることを、阿弥陀仏という名は示している。そうであれば、「南無阿弥陀仏」とは、「信順せよとよびかけてやまぬ智慧・慈悲かぎなきみ仏」という意味になる。

 

親鸞聖人 一本の白道 23(H.28.9.6.更新)

  法蔵菩薩の願い(前回の続き)

 この法蔵の願いを総括して表明したものこそ、第18番目の願いであった。その願とはつぎのように誓われている。

「たとい我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生まれんと欲し、乃至十念せん。若し生れずんば正覚を取らじ。」

 生きとし生きるもの一人のこらず、わが真実なるさとりの国に生まれさせることができないならば、このわたしは決して仏とはならない、という自利利他一体の誓いてである。この誓願こそ、菩薩の根本の願いであってこれを「本願」というのである。このような勝れた願は、いまだかつて例を見ないものであることから、これを超世の本願ともいう。

 

 限りなき智慧と慈悲の仏となる 

 世自在王仏にその決意を述べた法蔵菩薩は、師仏の激励を受け、その目的を達成するために精進を重ねた。それは無限にもひとしい長い時間であったという。そしてその結果ついにその目的をに達した。つまり自らは、正覚の阿弥陀仏となり、西方には極楽浄土を建立し、その浄土に人々を生まれさせる方法として南無阿弥陀仏という名号を成就した。

 

親鸞聖人 一本の白道 22  (H.28.8.5.更新)

 法蔵菩薩の願い

 法蔵菩薩は、人の世が苦しみと悲しみに満ち満ちていること、そしてその中に生きる人間の苦しみにあえぐ姿を見て、私たちをその苦しみから救い、真実の安楽を与えてあげたいという願いをおこされた。

 それでその決意を師仏である世自在王仏に訴えるとともに、十方の仏たちの浄土を観察させていただきたいと願った。世自在王仏はその法蔵菩薩の願いを聞き入れて、法蔵菩薩の眼前に無数の仏国土を現前せしめた。それらの仏国土を詳細に観察した法蔵菩薩は、それらの浄土の中から粗悪なものは選び捨て、すぐれたものだけを選び取った。そして、自分がこれから建設しようとする理想的な浄土の構想を立て、合わせてその浄土に苦悩する一切の生きとし生けるものが生まれることができる方法についても思案を重ねた。その方法は、誰でもが浄土に生まれることのできる優れた方法であると同時に、誰でもができる易しい方法でなくてはならない。

 法蔵菩薩は、この願いが完成されないならば、自分は決して正覚の仏とはなるまいと誓いを立てた。その誓願を具体的に示したものが四十八願である。この四十八の誓願は、その内容によっておおむねつぎの三種類に分類される。

 ⑴法蔵菩薩自身が、自ら理想とする仏身に関する誓願

 ⑵法蔵菩薩が建設したいと願う理想の浄土に関する誓願

 ⑶一切衆生を救わんとする、救いに関する誓願

 

 

親鸞聖人 一本の白道 21 (H.28.7.15.更新)

 出世本懐の経典

 さて、『無量寿経』は、王舎城外の霊鷲山で説かれた経典であるが、その日のお釈迦様の姿は、いつもとは全く違っていた。常にお釈迦様のおそばにあってつかえていたお弟子にして、これまで一度も見たこともないほどに気高いご様子であられた。そのあまりの崇高なご様子に驚いた阿難がその理由を尋ねることが機縁となって、お説法が始まるのである。阿難の質問に対するお釈迦様の答えは、「私がこの世界に出現したのは、実にこのことを説くためであった」というものであった。そして以下のような物語をおときあそばされた。

 遠い遠い過去のこと、世自在王仏という仏が世に出られて説法をされたことがあったが、その時に一人の国王があった。その国王は、その説法を聴いて深く感動し、菩提の心をおこして、ついに王位を捨てて修行者となり、法蔵と名乗った。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑳ (H.28.6.4.更新)

 経典の表現②

 やがて梵天の勧請によって説法されることを決意したが、そこに言葉はにできない世界を言葉にする難しさがあった。つまり相対分別のこの世の言葉を用いて、絶対無分別の世界のあり方を表現することはそもそもが不可能なことなのである。その上それを人とびとに伝えなくてはならない。その不可能なことを人間の言葉で伝えようとしたら、どうしてもそれは比喩的、象徴的表現を使わざるえないのである。経典にそのような比喩や象徴的表現が多いのはそれがためである。

 『無量寿経』の説法についても、仏陀釈尊が自ら体得された真実の法を、いかにしてわたしたちに伝えようとして説かれたものであるかという、仏意の存するところを見失ったならば、それは非科学的な戯画のように思われるかもしれない。

 経典を読むものにとって大切なのは、そこに語られている言葉それ自信よりもその言葉をもって語られようとしている仏意に触れることである。それをしなかったならば、本当の意味で経を読んだことにはならないのである。

 

  親鸞聖人 一本の白道 ⑲ (H.28.5.6.更新)

 お釈迦様のお説法は、直接的には当時の佛弟子たちに向かってなされたものだが、それは同時に今日の私たちまでも含むものであった。経典の終わり部分に流通分という一段があるのがそれを示している。経典は私と無関係な、誰かに説かれたものではない。それは常にこの私に向かって語りかけ、それによってこの私がいかなるものであるかがこの私に明らかになるように働きかけてくるものであることを忘れてはならないのである。

 

経典の表現

 仏教における悟りとは、智慧の眼を開くということである。三十五歳で仏陀となったお釈迦様の智慧の眼に写った世界はいかなるものであったのか。それはおそらく今まで当たりまえに見ていた世界とはまるで別世界のような世界であった。十二月八日、暁の明星の輝く頃に、悟りを開かれた釈尊は、その智慧の眼でみた世界の光景に恍惚とした後、この自分が見たこの世界の相を人々に説くべきかどうか悩まれたという。なぜなら、釈尊自身が見た世界は智慧の眼で見た世界であるが、人々はいまだ曇った眼を通した世界の中にいる。その人々に対してその同じ世界の言葉でこの悟りの世界の光景を説くことができるか、よしんばできたとして人々は正確にそれを理解できるであろうかと悩まれたのである。説けば誤解が生じる可能性が極めて高いことを考えられたのである。  

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑱ (H.28.4.4.更新)

弥陀の本願

 阿弥陀仏のご本願とは何か。それに懇ろにお説きあそばされたのが『仏説無量寿経』である。私たちは、この経典の説くころにしたがって、弥陀の本願を学ばなくてならない。

 だが、それに先立ってまず大切なことは、いかなる態度で経典に接していくのかということである。なぜなら、いかに経典の教えが正しい答えであったとしても、私たちの問い方が間違っていたならば、その答えの正しさを証明することはできないからである。経典の説かれた立場、私たちはどのような態度で経典に接すべきか、このことが最初に明らかにならなくてはならないのである。

 経典とは、釈尊の説かれたものである。釈尊というとき、それはもう人間としての釈迦ではなくて、悟りを開かれた仏陀としての釈尊のことである。その釈尊の説法がすなわち経典である。経典の経名に仏説とあるのはそのことを示している。また本文は、如是我聞という言葉で始まるが、これは仏弟子が、この説法は、仏陀の説かれたものであり、いささかも私見を入れることなく記述したものであることを示すものである。そこに仏陀釈尊に対する尊敬と信純の気持ちが見られる。この仏弟子の姿勢こそ、私たちが経典に接する場合の第一条件としなくてはならない。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑰ (H.28.3.5.更新)

 親鸞聖人の受け止め方

 全く予想外のしかたで出遇った法然上人との邂逅を、親鸞聖人は単なる偶然の出来事と見ることはできなかった。長い間求めて得られなかった解答が、法然上人との邂逅によって与えられた。それは親鸞聖人にとって起死回生の出来事であった。聖人はそこに、自分を救わずんばおかずと働いている大いなる意志を信じずにはおられなかった。親鸞聖人は法然上人の言葉を、人間法然の言葉としてではなく、大いなる意志が法然上人という人格を媒介として、自分に語りかけ、働きかけているものと受け止めたのである。聖人が『顕浄土真実教行証文類』の序文の中に、「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と述べているのも、そういう思いがあったからであろう。

 その大いなる意志こそが、親鸞聖人にとっては阿弥陀仏の本願だったのである。そしてその本願を聖人に伝えてくださった法然上人こそは、まこと、阿弥陀仏の化身であったのである。そのことを親鸞聖人はつぎのような和讃で表明しておられる。

 智慧光のちからより 本師源空あらはれて

 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ

 

 曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき

 本師源空いまさずば  このたびむなしくすぎなまし 

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑯ (H.28.2.4.更新)

 

 偶然と必然

 いま、無因有果を意味すると思われる偶然という事態は、仏教の立場から考えれば、決して無因有果ではない。因に加わる縁が無数にあって、因果関係があまりに複雑にからみあっているために、私たちの予想を超えた結果が生じたにすぎない。私たちの常識でいう必然というのは、因果関係が単純明確で、私たちの知識で理解できる範囲のことを言っているのである。偶然とは、その因果関係が私たちの思考能力を超えた場合のことを言っているのである。つまり、仏教においては、いかなることがらであっても、そこには、かならずそのような結果をもたらす直接の原因たる因があり、その因がかかる結果をもたらすにいたった

縁があって、この結果が生じたのであると、深く因果の道理を信じるのである。したがって、偶然ということは認めない。

  しかし、同じ一つの出来事を、必然と受け止めるか、偶然と理解するかの違いは、その人の人生観としては、決して小さな相違ではないだろう。自分に拘わるすべての出来事を、因果の道理の必然として受け取る人は、過去に向かっても、未来に向かっても、すべてを自分自身が担うべき責任として受けることであろう。けれども、反対に何事も、すべては偶然であったと受け取る人は、そこに自身の責任を感ずることはないであろう。そうであれば、そこにある人生的態度は、人生はすべて偶然のなせるものとして前向きな人生建設の意欲に欠けた、虚無的態度になるか、結局はすべて偶然の産物なのだから、少しでも今を楽しまなくては損であるからと享楽的な人生に埋没してしまうのではなであろうか。

 

 親鸞聖人 一本の白道 ⑮ (H.28.1.6.更新)

 邂逅ということ

 親鸞聖人と法然上人との出会いを思うとき、そこに邂逅という言葉の意味を改めて想起させられます。わたしたちの人生は、しばしば偶然的なものによって、その方向を決定されているように感じます。そもそも人間に産まれたことも、さまざまな人との出会いも、いろいろの出来事に遭遇することも、そのきっかけを思うとき、偶然的でないものは、ないように感じます。そして、その偶然的に思われる邂逅によって、わたしたちの人生がいかなる方向に進むのか、決定していくのであるといっても言い過ぎではないようです。

  しかし、邂逅とは、それを偶然の出来事とはしないで、不思議の因縁としていただくところに仏教の人生観があるのです。仏教の根本の思想は縁起ですが、縁起とは因縁生起ということです。因縁生起とは、この世のいかなる出来事も、すべて因と縁によって生起しているという意味です。自業自得,因果応報であって、偶然や運命を認めないのが、仏教です。

  けれども、実際の日常生活の中では、これは偶然としか思えない経験をしばしばいたします。このような時に、仏教ではどう考えるのでしょうか。この時重要となるのが、縁ということです。縁とは、因が直接の原因であるのに対していえば、縁は、間接的な条件というものです。そして仏教では、前述したとおり、この因と縁の和合によって果が生ずると説くわけです。そして、そこから因と和合すべき縁が不足すれば、必ずしも予想した結果は生まれないとします。

 たとえば、大学受験で考えてみますと、受けるべき希望の大学があったら、合格できるというわけではありませんね。当然のことながら、合格するに必要な学力がなければだめです。しかし、それでは、学力さえあれば、合格できるかというと、もしその日に体調が悪かったら、その実力を発揮できないので合格できないでしょう。また、朝受験会場に行くのに大雪が降って車が動かなくなって、会場に遅刻したら試験を受けることもできません。また、隣り合わせた受験生が、貧乏ゆすりをしたり、歯ぎしりを頻繁にして、集中して問題に取り組むことができなかったら、これも実力どおりにはいかないかもしれません。このように見てくると、大学受験で合格という結果を一つ手に入れるだけでも、学力だけではない、さまざまな条件がそろわないと、その努力の結果身に着けた学力を活かすことができない。結局不合格ということにもなるのです。まさに、自分自身の努力だけではない、さまざまな無数の条件が整って初めて自分の目的とするところの果を手にすることができるのです。

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑭ (H.27.12.3.更新)

 考えられる理由は二つあります。一つは、叡山の天台の教えを捨てた法然上人に対して、好感をいだくことはなかったでしょうし、念仏往生の教えは、山でご修行していた当時の親鸞聖人には、邪教のように思われたということです。二つには、もしそれを超えて法然上人の教えに帰依するというのであれば、それはこれまでの二十年におよぶ自らの修行をすてべて無に帰することですから、そのような決断をすることは容易でなかったのではないかということです。

 ですが、今親鸞聖人はそのような迷い心を振り捨てて、決然として法然上人のもとを訪ねたのです。そして、それによって目的を達することができたのです。

 このことから知られるのは、信仰とは決断であり、学問的知性や道徳的理性を超えたものであるということです。ただ、ここで忘れてはならないのは、親鸞聖人の比叡山での二十年にわたる自力の修行とは、無意味なものではなくて、今こうして法然上人の導きによって浄土教に入るための重要な契機となったものであるということです。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑬ (H.27.11.2.更新)

 

 親鸞聖人は、法然上人とお出会いすることによって、新天地を発見されました。しかし、このお二人の出会いを考えるとき、ひとつの疑問がおこります。それは、親鸞聖人は、それまでに法然様のお名前を聞かれたことはなかったのだろうかということです。しかし、それはあり得ないことでしょう。なぜなら、法然上人はかつて叡山で智慧第一の法然房といわれた方です。そして四十三歳の時には、善導大師の「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざるもの、是を正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるがゆえに」という言葉によって、決然と山の修行を捨て、京都の吉水に庵を開いて念仏往生の教えを説かれはじめたのです。そして、この時すでに二十余年の月日が過ぎていました。しかも、たびかさなる戦や、飢饉のために、苦しみの中をさまようように生きていた民衆に、弥陀の本願のお救いの法を説かれ、都の人々がこぞってその教えにあいたいと群れ集っていたのてす。その噂が比叡山の親鸞聖人の耳に届いていないはずはありません。そうであったならば、なぜ親鸞聖人は、それまで吉水の法然様をお訪ねにならなかったのでしょうか。   

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑫ (H.27.10.2.更新)

 

  親鸞聖人を絶望の淵から救い上げた法然上人こそは、親鸞聖人にとってかけがえのない先達でした。親鸞聖人の法然上人に対する帰依は、絶対的なものでした。『歎異抄』という、晩年の親鸞聖人の語録を採取したご本には、

 「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候」と述懐なさっています。

 また、後に聖人の奥方となられた恵信尼様のお手紙には、

 「上人のわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせ給べしと申とも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまいらする身なればと、様々に人の申候し時も仰せ候しなり」

と、記されてあります。聖人がいかに法然上人を敬い敬慕されていたかがわかります。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑪ (H27.9.1.更新)

  進退窮まって、最後の決断をゆだねた聖徳太子の夢のお告げを受けて親鸞聖人は吉水で阿弥陀様の南無阿弥陀仏のお念仏の救いを説いていた法然房源空を訪ねることになりました。法然上人は、同じ生死解脱の道を求めて親鸞聖人より十年長い三十年の間比叡山でご修行されながら、やはり叡山での自力修行によってはさとりを開くことができずに、山の修行を捨てて下山した方であります。その法然様からお聞かせいただいた阿弥陀様の大悲の法によって、積年の苦悩を解いていただくことになったのです。

 その時の様子を、親鸞聖人のひ孫にあたる第三代の本願寺のご門主となられた覚如上人は、親鸞聖人のご一代記の『親鸞伝絵』につぎのように記しておられます。

「真宗紹隆の大祖上人(法然)ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり」。

 また、親鸞聖人自身もご自身の著作である『教行信証』の化身土の巻に「愚禿釋の鸞、建仁辛酉の暦雑行を棄てて本願に帰す」と記されています。まさにこの年こそが、親鸞聖人の廻心の年でありました。それは聖人の新しい人生、他力浄土門の僧侶としての歩みの始まる記念すべき年であったのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑩ (H27.7.31.更新)

  聖徳太子の示現の文によって親鸞聖人は法然上人を訪ねました。今回は親鸞聖人の生涯の師となった法然上人についてお話しします。

 法然上人は1133年に岡山県の美作に生まれました。九つのときに、父親が非業の死を遂げたのが機縁師という人の書物を読んでいて、末代の凡夫の救われる道は、念仏の教え以外にはないことに気づきました。そこで法然上人は比叡の山を下り、京都の吉水というところで教えを説き始めました。

 その頃、都は戦乱が続き、天災地変も相次いで起こり、人々は深い無常感に襲われていました。そこへ「出家であろうと、在家であろうと、男であろうと、女であろうと、念仏を称えるものは、みんな浄土へ生まれることができる」と説かれたのですから、吉水の法然上人の草庵には人々が群集していました。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑨ (H27.7.1.更新)

 比叡山で思いがけない破局を迎えた範宴(後の親鸞聖人)は、深い苦悶と焦燥の果てに、初めて日本に仏教を取り入れられた聖徳太子の本地とされる救世観音に最後の決断を仰ぐ決心をしました。

 範宴は百日の間、雨の日も風の日も、六角堂へ参籠しました。そして、九十五日目の夜明け、ついに太子から示現の文を感得したのです。その文の内容ははっきりしませんが、とにかくその言葉に導かれて範宴が吉水の法然上人を訪ねてことは、間違いありません。  

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑧ (H27.6.4.更新)

  範宴(後の親鸞聖人)は、我執を離れ悟りを開くために、比叡山で言語に絶する修行を二十年間も続けましたが、この壁はどうしても破ることができませんでした。

 この時の範宴の心境を存覚上人(本願寺第三世宗主覚如上人の長男)は次のように描いています。

 「比叡山の頂きから琵琶湖を眺めてみれば、湖面は鏡のように静まって、天上の月は美しい月影を宿している。それなのに、自分の心はどれほど鎮めようとしても、煩悩の波風が立ち騒いで、真如の月影は宿ってこない。もし、いま、このまま息が止まったならば、永遠に奈落の底に沈んでいかばならぬ」

 二十年間努力してみたが、「お先真っ暗」ということです。九歳のとき、あの山こそ、と期待をいだいて登山し、青春のいのちを燃やして挑んだ努力も、ついに何も実らなかったのです。これが青春時代をかけた範宴が、苦闘の末に迎えた結末だったのです。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑦ (H27.5.3.更新)

 仏教では我執を離れる行の代表的なものとして六波羅蜜ということが説かれます。その第一が布施の行です。布施というのは、広く施すという意味で、わたしたちは貪欲の心を持ち続けていますから、その煩悩を退治するために、人に施しをせよと教えられるわけです。ところが、布施が本当の行としての価値をもつためには、三輪清浄でなければならぬと説かれます。三輪清浄というのは、施す人も、施しを受ける人も、施されるものも、三つのものがいずれも清浄で、濁りがまじってはいけないというのです。このように考えてみますと、自己を忘れ、利己主義を離れた布施などというものは滅多にできるものではありません。布施の一行をとっても我執を離れるということが、どんなに困難なことであるかが想像できることと思います。まして、一時的でなく、常にそういう心を持ち続けて生活するということは、人間にとってほとんど不可能といってよいのではないでしょうか。

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑥ (H.27.4.2.更新)

 常行堂で行われていた常行三昧というのは、九十日の間、一日一時の休みもなく、心に仏を念じ、身に仏を礼拝し、口に仏の名を唱えながら、仏像の周囲を回り続けるという修行で、この行を続けていればついには目のあたりに生身の仏の相を観ることができるというものです。常行堂の堂僧であった範宴(若き日の親鸞聖人)は、きっとそのような激しい修行を試みたに違いありません。

 では、なぜ宗祖はこのような厳しい修行をなさったのでしょうか。それは一口でいえば「断惑証理」のためでした。お釈迦様は人間の世界は苦であると達観され、そのよってくる原因は煩悩にあると見抜かれました。したがって、苦しみのないさとりを開くためには、正しい生活をして真理を見る智慧の目を開かねばならないと説きました。煩悩を断ち切って、真理を証ることを説くのが仏教であり、そのためににいろいろな厳しい修行が要求されるわけです。この煩悩の根本は無明にあると説かれます。無明とは、智慧のないことであり、それは我執ー自己中心性によるといわれます。

 仏教では諸法無我と説くように、あらゆるものは因と縁とによって生じており、仮に和合したものにすぎませんから、固執すべき実体はありません。それなのに、私たちは「俺が、俺が」という自己への執着から離れることのできない生活を続けています。この我執を取り除くことが、とりもなおさず断惑であり証理の道なのです。仏教で行ということを厳しく説くのはこのためです。 

 

親鸞聖人 一本の白道 ⑤ (H.27.3.1.更新)

  九歳で比叡山に登られた範宴(親鸞聖人)でしたが、その当時の比叡山の状況はどうだったのでしょうか。

 当時の山上の僧侶の身分には、三種のものがありました。学生(がくしょう)と堂衆と堂僧とです。学生というのは、もともと貴族の出身で、勉学と修行に専念するエリートであり、堂衆というのは、かつては貴族に仕えていた武士が出家した人達であり、堂僧は常行堂にこもって不断念仏を修する僧のことです。

 ところが、そのころの比叡山は、かつては主従の関係にあった学生と堂衆とが、互いに武力をもって抗争し、そのたために堂舎はこわれ、仏事はすたれ、地上と少しもかわらぬ権力争いの場となっていたのです。

 山上での親鸞聖人のお身分は堂僧でした。そのことは、『恵信尼文書』の中の言葉によって明らかにされたものですが、そうだったとすれば、親鸞聖人はその抗争の場から離れて、かえって修行に励むことのできる状態におかれていたのではないかと想像されます。

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ④ (H.27.1.28.更新)

 親鸞聖人は得度して範宴と名のった九歳の時に比叡山に登りました。比叡山はそれよりおよそ四百年の昔、伝教大師最澄によって開かれた仏道修行の聖地でありました。

 大師はこの山に登るもののために、厳しい規制を設けました。たとえばこの山に登ったものは、十二年間、山から下りることを許されませんでした。論・湿・寒・貧という言葉が今も残っていますが、寒さが強く、湿気が多くて、貧しくて、それでいて論議に明け暮れするという、肉体的にも精神的にも極めて厳しい条件の中で、修行を続けなければならないのです。もちろん女人禁制です。

 ですから、少年範宴がその時にいだいた期待と不安は、わたくしたちの想像以上のものがあったと思われます。期待というよりも不安、希望というよりも恐ろしさにおののきながら登山して行った孤独な少年の切ない思いを忘れたならば、「生死出づべき道」を求めることの厳しさも、吹っ飛んでしまいます。(次回は2月の末頃に更新します) 

 

 親鸞聖人 一本の白道 ③  (H.27.1.1.更新)

  一体「生死出づべき道」とは、どんな道なのでしょうか。生死とは、常識的には、「生まれたものは死ぬ」という意味に理解されます。あるいは「生まれかわり、死にかわる」という意味にとれます。そういう解釈に異議をさしはさむつもりはありませんが、ただ注意したいことは、仏教では生死一如といって、生と死とを別のものとは考えません。   

 わたくしが、生まれてきたということ、死を背負って生まれたきたということです。生まれたその時から、わたしたちの背中に、死はぴったりとくっついているのです。死と共にある生なのです。ですから、生と死とは、一枚の紙の裏と表のようなものです。

 しかも、生も苦であり、死も苦であります。その生死の苦を脱出し超克する道こそ、生死出づべき道なのです。言い換えれば、生死を出るとは、生と死の束縛から解脱して、自在人となることであり、仏のさとりを開くことに他なりません。

 したがって、生死出づべき道とは、生の依るところ、死の帰するところ、すなわち生死の帰依処を得ることであるということもできましょう。それに依って生き、そこに帰るがごとく死んでいける道を明らかにすることであります。

 親鸞聖人の探求したのは、実にその問題であり、その問題があらゆる人々に共通する問題であるかぎり、聖人が明らかにしたその教えは、すべての人が学ばなければならない教えであるとともに、それによって人々は真に人間に生まれたことの意義を知ることができると思います。

(次回の更新は2月1日頃を予定しています)

 

 

親鸞聖人 一本の白道 ②

 九歳で得度した親鸞聖人は、その後比叡山へ登り二十年間にわたる厳しい修行の年月を過ごすことになります。  

 九歳の親鸞聖人の出家の動機がなんであったかは、はっきりわかっておりません。ただ、平安時代の末期で、平家と源氏の血で血を洗う政権争いのなかに人間の醜さを見て、また天災地変にあってただ為すすべもなく死んでいく民衆の姿を見つめた聖人の心には、次のような思いが目覚めていたのではないでしょうか。「人の世はなぜにこのようであるのか。人はこの世をいかに生きたらよいのであろうか。」

 このことは、後年において恵信尼様(親鸞聖人の奥様)のお手紙の中に、親鸞聖人が法然上人から「生死いづべき道」をただひと筋に聞かれたことが記されていることからも知られるところです。

 九歳の親鸞聖人の出家の動機が直接になんであったのかは、確定できません。しかし、その後に二十年間におよぶ求道は、正にこの「生死いづべき道」にあったことは間違いありません。(次回は来年1月の初めに更新します)  

 

親鸞聖人 一本の白道 ① 

  最初はやはり親鸞聖人の人となりについてお話します。聖人がどのような時代にどこでお生まれになられたのか、どのようなお身分で、一体何を求められ、どのようなご一生を生きられたのか。そういう宗祖についてのご事跡を知らない方も多いのではないでしょうか。

 ですが、聖人の教えに導かれる門弟の一人として、宗祖親鸞聖人のご苦労を知っておくことは大切なことです。

 親鸞聖人は今から約840年昔、承元三年(1173年)京都は日野の里にお生まれになられました。藤原氏の支流である日野家で、父を日野有範といいます。

 聖人のお生まれになったのは、平安時代の末期で、都は京都にあって平家と源氏が激しく

政権を争っていた時代でした。そのような騒然とした世情の中にお生まれになりました。幼くしてご両親と別れた親鸞聖人(幼名は松若丸など)は、養和元年9歳のときに、叔父の範綱に連れられて青蓮院をたずね、慈鎮和尚によって得度の式を受けました。得度というのは在家の人が髪を剃って出家となる儀式です。

 伝説によると、その日はすでに夜が遅かったので、慈鎮和尚が「明日にしたら」と言われると、9歳の幼い少年は「明日ありと思う心のあだ桜夜半にあらしの吹かぬものかは」と歌って、ついにその夜、剃髪をしたといわれています。

(2014.11.2.  次回は12月のはじめ頃に更新します。)