私の善知識  岡 亮二先生

 新らしいコーナーを開きました。このコーナーでは、私に浄土真宗の教えの眼を開いてくださった岡先生の著作『親鸞聖人のみ教え』から、毎月少しづつ転載してご紹介します。(転載については、出版元の教育新潮社様のご了解をいただきました。)

 岡先生は龍谷大学の名誉教授でいらっしゃいましたが、私が今日お念仏をよろこぶことができるようになったのも、先生が私に浄土真宗に対する眼を開いてくださったからです。先生は、浄土真宗のみ教えを単なる教義として研究された方ではなく、今を生きるご自身の問題として常に親鸞聖人の教えを求め続けられたかたです。それがために、私のような浄土真宗について素養のない者の心にまで、すっとその教えが入ってきてくれたのだと思っています。

 

7 一人居て喜ばば二人と思ふべし 第22回 (2020.3.3.更新)

 ⑴ 報恩講の歌

 「一人居て喜ばば二人と思ふべし」という言葉は、親鸞聖人の『御臨末の御書』として、

  我が歳きはまりて、安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲のかたを浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同 じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし、二人居て喜ばば三人と思ふべし、その一人は親鸞なり。

 と伝えられている一文のなかから採られています。そしてこの言葉は「報恩講の歌」として、今日ほとんどそのまま「和歌の浦曲の片男波の 寄せかけよせかけ帰る如く 我れ世に繁く通い来たり み仏の慈悲つたえなまし。一人居てしも喜びなば 二人と思え二人して 喜ぶおりは三人なるぞ その一人こそ親鸞なれ。」と歌われています。

 私ごとになりますが、わたしは和歌山の生まれで、和歌の浦はしばしば訪れた思い出の地です。近代化の波にのって、和歌の浦の景観もずいぶん壊されてしまったのですが、片男波の海岸線は、かろうじて名残だけはとどめています。

 波には男波と女波があり、寄せかけて来るのが男波、引いて行くのが女波とされています。「片男波」は、男波が非常に強く、女波は弱いので、男波のみの海岸、という意味で、かく名付けられたのでしょう。自分がただ一人、今この南国の明るい太陽のもとで、藍くすみきった大海原に向かって佇んでいる。ひろびろとした浜には人影が見られず、寄せかけ寄せかけ来る波の音だけが、耳に響いている。このような光景を描いてみましょう。この世で自分はただ一人である。この自覚がなぜ今、必要なのでしょうか。

 

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第21回(2020.2.6.更新)

 ⑶ 阿弥陀仏の大悲を頂戴せよ ②

 ところで、ここに言う「阿弥陀」とは、無限の智慧と無量の慈悲という意味なのですが、さればこの仏こそ、仏の根源、法の究極だといわねばなりません。究極の法は必然的に世界の一切を包みます。すなわち世界の一切は、この法によってまさしく平等に摂取されているのです。言い換えますと、世の一切の衆生は、すべて阿弥陀仏の「一子」としてあるということなのです。だとすれば、衆生にとって最も重要なことは、私が、阿弥陀仏の一子であるという事実に、速やかに疾く目覚めることだといえます。我れ凡愚なればこそ、仏の大悲は、凡愚を救いたもうという誓願を信知し、その大悲心を、ただ頂戴せよ。ここに親鸞聖人の私に対する願があります。

ざ 

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第20回 (2020.1.6.更新)

 ⑶ 阿弥陀仏の大悲を頂戴せよ ①

 衆生の側の仏道としての、一つの善も、一つの行もない、それが末法の仏教の真の姿です。その意味からすれば、末法の仏教では、衆生の証果への道は、完全に断ち切られているといわねばなりません。けれども、その末法において、仏の教えがいまだ燦然と輝いているのはなぜでしょうか。たとえば凡愚には見えないとしても、衆生が必ず証果に至ることのできる大白道(おおいなるしんじつのみち)が、はっきりと開かれている証拠だといえましょう。愚かなる凡夫の一人一人を、必ず仏果へ至らしめようとする以外に、仏の教えの存在意義はありえないからです。というよりも、仏は迷える凡愚を救うためにのみ、ましまされるのです。そうだとしますと、釈尊が世に出られた本意は、その仏教の真実を示さんがためであったといえます。釈尊の仏教には、たとえ末法の時代が来ようとも、時代を超えて永遠に凡愚を救済しつづける仏教ーそれが阿弥陀仏の大悲の仏教なのですがーその仏教が、仏教中の唯一の真実の仏教だということになります。

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第19回 (2019.12.19.更新)

 ⑵ 自己の真実を信知せよ ②

 よく知られているように、末法時代とは、釈尊がなくなられてから、1,500年をを過ぎた時代を指し、そのころには釈尊の感化力も大きく衰退し、いまだ仏教は教えを残すものの、もはや仏道を修しえなくなる。それが末法の時代なのです。したがって、人がいかに仏になろうと願い、仏心を捜し求めたとしても、仏の心はどこにも見出させず、いわんや捉えることができない。この末法の仏教者の、悲痛な叫びが「愚禿」の自覚を生ましめたのです。それはまた、なんと厳しい自己の見つめでありましょうか。

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第18回 (2019.11.5.更新)

 ⑵ 自己の真実を信知せよ ①

 そこで重要なことは、教えの面白さなのではなくて、一体「教」が、人に、何を説いているのか、「人」は教えに何を求めているか、その内容だということになります。偽らざるところ、私たちは、自分の欲望を満たしてくれる、甘い言葉には惹かれます。それは自分の求めが、そのような世俗的な欲望を満たすことのみに、向けられているからです。いわゆる「現世と来世のご利益」の求めなのですが、そのようなところで、いかに教えと心が一致しても、そこからは、真の喜びは、何ひとつ生まれてきません。ただ、迷いの原因を作っているにすぎないのですから。では親鸞聖人は、私たちに、何を聞き、何を求めよと教えられているのでしょうか。親鸞聖人が、生涯かけて求められたことは、ただ一つであったといえます。真実の仏教とは何かということ、それはとりもなおさず、この現実において、親鸞をして、仏果(証り)に至らしめる仏道は何かということです。この求めの中で聖人は、今という時代を、すなわち現実の社会の相と、自己の本質を、極めてするどく、ごまかすことなく、見つめられました。そこで今の世が「末法」であり、ここに生きる自分は、いかんともしがたい凡愚であるということを、突きつめられたのです。

 

6. 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第17回 (2019.10.7.更新)

 ⑴ 真実の教えを聞思せよ ② 

 だが、少し考えれば、誰でもわかることなのですが、そのような人生の姿は、愚かなる凡夫が抱くはかない夢であり、幻影でしかありません。現実の自分に待ち受けているのは、孤独な老いと痛ましい病と、そして最悪な不幸に伴われたみじめな死だけなのですから。仏教は人生のこの事実を「無常」という理を通して、人々に語るとともに、その最悪の中において、人はいかにして、無限の喜びに出会いうるかを、教えようとしています。親鸞聖人は、生涯をかけて、その「喜び」を求められ、獲得されたその心を、人々に語られているのです。だとすれば、この教えは世俗の幸福論ではなく、いわんや、現世のご利益を説く教えでもありません。それらの求めの愚かさが明らかにされているのです。したがって、もし人が世俗的な「人生の幸福」を求めて、親鸞聖人の教えに耳を傾けようとするのであれば、教えが全く面白くないのは当然のことです。

 

 ⒍ 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー

 ⑴ 真実の教えを聞思せよ

 よく浄土真宗の話は面白くない、ということを聞きます。現実生活とかけ離れたことばかり話されるから、生きる糧には全く役立たないというのです。これはある意味で、的を射ており、親鸞聖人の教えの、最も重要な一面がよく捉えられております。教えを聞き求めようとする者は、必ず何らかの問題意識をもっており、それについての疑問点を聞こうと欲しています。話す方は、その求めに、まさしく答えねばなりません。両者の心がそこでぴったり一致してこそ、教えはおもしろく聞かれることになるのです。それは宗教においても同じだといえます。

 ところで人は概して、宗教にどのような教えを求めているのでしょうか。そのほとんどが、教えを通しての喜びに満ちた幸福な人生のあり方を聞こうとしているのではないかと思います。では人々にとって「幸福な人生」とは何なのでしょうか。安穏無事、愛する仲間とともに、豊かさと健康と若さに恵まれて、己が生を明るく楽しく暮らす、このような人生が実現すれば、それこそ幸福だといえるのでしょう。そこで人は、その「幸福な人生」の実現を、宗教に求めることになるのです。

 

 5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第15回 (2019.8.18.更新)

 親鸞の心 ②

 理性があり、知性豊かな人は、ともすればその知に自惚れ、おぼれるものだといにわれます。この故に、知性の中にいる私が、実は凡愚でしかないのだという恥じらいが必要なのです。でも、このことを覚知するためには、厳しく自己を律し、己が行為をどこまでも反省するという、強靭な心がなければなりません。この心は容易なことでは求められぬと言わねばなりませんが、現代人のもっとも忘れている心がこれだとすれば、私たちは、この親鸞聖人の心こそを大切に求めねばならぬのではないでしょうか。人間である以上、理性にもとずく努力を、どこまでも強調しなければなりませんが、それ故にこそ、他方において、その努力のなかで見忘れがちな「恥じらい」にも気づかねばならないのです。この全く異質の二つの心が、同一の私の心に生じるということは、まさに矛盾としかいえません。でも、この矛盾が悩みとなるのではなくて、見事に調和されるところに、念仏の世界の不思議さがあるのです。ここで念仏が問題となりますが、この点については、また改めて求めてみたく思います。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第14回 (2019.7.4.更新)

 親鸞の心 ①

 人類が他に誇りうべきものは、やはり知性だというべきでしょう。したがって、理性を抜きにした私たちの生活は考えられません。どこまでも、理性を通し良心にもとづいて生き抜くべきです。だが、人間知の極致が、きわめて不完全なものでしかないとすれば、私たちは、この理性のなかに、大いなる恥らい、謙虚なる心を抱かねばならないのではないでしょうか。親鸞は人間存在の姿を、凡愚という言葉でとらえました。それはまさしく、このような点を言ったのだとうかがえます。悪をはたらき、なまけ、他をごまかす。ただそのようなことをする人の半面を見て、凡愚だといったのではありません。真実を求め、平和を願って、懸命に働いている人間の姿、その真っただ中に、極めて愚劣なる人の心を親鸞は見出したのです。そして本来、そのような姿でしかない人間の本質を、「凡愚」という言葉で表現したのです。では凡愚とはいかなる心なのでしょうか。これが人間存在の深奥を通して導きだされ言葉だとすれば、単なる怠け心を指すのではないことは言うまでもありません。それは全く逆なのであって、人間としての道を忠実に努力して歩んでいる者にして、はじめて気づかされる心だというべきではないでしょうか。

 

⒌ 凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第13回 (2019.6.11.更新)

 反省と行動 ③

 人々は何を基準に善悪を判断しているのでしょうか。長い歴史を顧みれば誰にでも明らかなように、時代社会の相違によって、善の概念は大きく異なってきました。ある国の善は、必ずしも他の国では善ではなく、同様に、ある時代の善は、必ずしも他の時代では善とは呼ばれなかったのです。なぜでしょうか。言うまでもなく、人々はすべて自己を中心としてしか行動をとれない存在であったからです。だから自分にとって都合が良いことが、往々にして「善」と考えられたのです。これでは、その善が他人にとって、必ずしも善と呼びえないことは、当然だといわねばならないでしょう。こう見れば、私たちは良心とか理性とかを持ちながら、そのものこそが全く頼りにならないものということなるのではないでしょうか。では、私たちは何を求めて生きるべきなのでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第12回 (2019.5.5.更新)

 反省と行動 ②

 ここで今一度、公害の問題を振り返ってみましょう。あるいは人類を滅亡においやるかも知れぬといにわれておりますこの悪弊、その原点においても、はたしてそれが、人間の悪知恵を通して作れ出されたものなのでしょうか。どうもそうだとは言い切れないように思われます。否、むしろそれは逆であって、少なくともその当初では、私たちの良心、あるいは理性の結晶を通して、人類のために作り出されたものであったはずです。だがその結果はどうでしょうか。その巨大なるものによって、人類は今や人間性を喪失し、荒らされた自然のなかで、食物に、水に、空気にさえも不自由を感じだしたのです。ここに、人間の知性への疑惑が人々によって強く意識されはじめたのです。

 それはごく最近の出来事だというべきでしょうか。良心に従い、理性の粋を集めて、人類のためを思って成し遂げたことが、必ずしも人間にとって良き結果をもたらさない。知識人、ことに自然科学者によってそう思われだしたのは。そこでこのような観点にたって、私たちが考えてきた善とか良心とかを、いま少し掘り下げてみましょう。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第11回 (2019.4.5.更新)

 反省と行動

 人間とは恐ろしいものだ、ということは古来、言いふるされた言葉です。だがこの場合の恐ろしさは、人間のもつ悪知恵を指しているように思われます。確かに私たちは、良心の外に悪賢い心を持ちあわせています。他人を落とし入れたり、ごまかしたりする心です。あるいはまた、他と争い、それを征服しようとする心も、この部類に入るというべきでしょうか。したがって、このような心が強く働いた時には、世が乱れ,争いが起るといわねばなりません。このゆえに私たちは、できる限り悪心をおさえ、良心を磨かねばならぬと言い続けられてきたのです。だが、果たして、私たちの良識でもって、ただ悪心をおさえようとすることのみで、事が足りるでしょうか。良識とはそれほど頼りになるものでしょうか。どうもそう言い切れないところに、人間としての悲しみがあり、問題の深さがあるといえるのではないでしょうか。人間の歴史は、良心が悪心に打ち勝とうとする試みのなかで展開されていなが一向に成果があがらず、悪が横溢し、争いの絶え間なき世界が、私たちの現実だからです。としますと、私たち人類が最も誇りとしている良心や理性そのものに、実は問題があると考えられるのではないでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第10回 (2019.3.5.更新)

 知性への疑問 ②

 親鸞の言葉に対して、現代人は、このような反論を試みるのではないかと思われます。そしてもし、親鸞の思想が、この反論のように、単に人間の努力を否定し、理性とか良心とかいうものに目をつぶって、ただ愚かなることを嘆いているだけだとすれば、私もまたこの反論を支持しこそすれ、親鸞への追随は見合わせたく思います。だがもし、親鸞の思想が、この反論のごとき内容を意味するのではないとすればどうでしょうか。問題は全く別になってきます。とやかく私たちの知恵をさしはさむ前に、親鸞の言葉の真の響きに耳を傾けるべき必要が生じてくるからです。

 では親鸞は何に向かって、この鋭い叫びを発せられているのでしょうか。これこそ、現代人が最も得意とし自信に満ち溢れている「知性」に向かってではないかと思われるのです。ではなぜ、人間知にかかる言葉を発せねばならないのでしょうか。

 この一、二年とみに喧しく言われただしたことに、「公害」の問題があります。貧しくとも平和で楽しく暮らしていた山村に、急に奇病が発生する。澄み切っていた大空が煤煙によって汚され、いやな臭いと息苦しさに悩まされる。ヘドロの海岸、魚さえ住みえなくなった海、矢継ぎ早にこのようなことが、私たちに報道されはじめました。美しい風景がいとも簡単にこわされたり、私たちの毎日が輪禍の恐怖にさらされていることは、もう誰もが体験していることだといわねばなりません。何がこのような恐ろしく住みづらい世に作りあげたのでしょうか。

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観- 第9回 (2019.2.4.)

   知性への疑問

 このような人間世界にむかって、親鸞は次のような言葉を発せられています。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもと、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」

悩みや惑いに満たされている愚かものの私、しかも猛火に、いまにもやきつくされようとしている私の住まい、このような人の世のできごとは、すべて嘘いつわり、ごまかしで満たされていて、真実なるものはなにもありません。ただ念仏のみが私たちの世界でのまことの姿なのです。このように述べられているようにうかがえます。現代の「知性あるもの」に、この言葉はどのような響きをもつでしょうか。何かこの言葉こそ、たわごととしか聞こえないのではないでしょうか。まず、第一に、私が愚かであるという泣き言に反発を感じます。愚かならば、それを越えるべく努力すればよいのであって、その励みを通して知的に独立するところに、人間としての意義があるように思われるからです。つぎに、世の中が嘘偽りで満たされているとは、これまた何という妄言でしょうか。私たちには、良心があり良識があり、理性があります。だから私たちは、世の善悪を見分ける目を持ち得ているのです。一体、人々はなぜ精魂こめて働きつづけているのでしょうか。邪なるものを排し、正なる方向に向かって、すばらしい未来を築くためではないでしょうか。現実はまだ乱れていると言えるかも知れません。けれども、それは、私たちの努力が足りないからであって、もし理性をみがき、良心を通して、より一層世のために働くとするならば、真に豊かで平和な世界が開かれるというべきです。念仏のみが真実だとは、とんでもないたわごとだと言わねばなりません。

 

5.凡愚-親鸞聖人の人間観- 第8回 (2019.1.17.更新)

 知性あるもの ②

 このことは、人類の知性を更にのばすとともに、人間知についての限りなき自信を、人々に植えつける役目をはたしているように思われます。私たちは有史以来、無限の未知の世界にとりかこまれてきました。宇宙の空間、時間の流れ、私を育てる自然の力、そして私自身の生命の不思議さ、これは私たちにとって、何一つとして知り得ぬ世界であったのです。この故に私たちは、それらに対し、ある時はいい知れぬ畏怖を感じ、ある時はある種の敬虔さを捧げてきたのです。ところが近年にいたり、科学の発達とともに、私たちの知性が、未知の世界の謎を一つ一つ解きはじめました。神の怒りかと思われた荒れくるいたる自然、悪魔の祟りとしか思われなかった病いの恐怖、それらがあたかも悪魔の去るごとく、私たちの心から消え去りはじめたのです。と同時に、今度は逆に、こちらの力が自然を自由に駆使し、悪魔さえもてあそぶようになったのです。その勢いは、いまや私たちの世界から、不可能という言葉を取り除こうとさえしているように感ぜられます。

 現実に目を移してみましょう。世界は恐ろしいほどのスピードで、どんどん改良されているではありませんか。まず医学の進歩は、ほとんどの病いに、圧倒的な勝利をおさめつつあります。無数に出回る薬は、素人さえ簡単に病いをなおさせようとするものですから。物質の豊かさもまた、ほうの数年前に比べても、目をみはらせるものがありますし、家庭の電化、工場のオートメ化は、すごく便利な世界を作りだしたといわねばなりません。そして乗物の飛躍的発展、ほとんど足を使う必要がなくなったと同時に、地球の裏側、いやいや月の世界までも人間を無事にはこべるようになりました。しかも世の中がスムーズに動くように、情報網までが完備されだしました。豊かで、平和で、楽しい世界が、いまにも目の前に実現されそうに感じられます。これこそ、私たちの知性の勝利だというべきではないでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第7回

 知性あるもの ①

 私たち人類は、他の動物に対して、一つの大きな誇りをもっています。それが知性の相違にあることは、もうすまでもないことでしょう。しかし、その差は、現代に至って、ますます目だってきたといえるようです。いわゆる「科学時代」と呼ばれている現象が、いやがうえにも、そのような感情を私たちに抱かせるからです。人類に最も近いといわれる猿の仲間たちは、いまだ、依然として樹の上に住まいを構えているのに、人類はすでに月に立ちえたのですから。このように考えますと、私たちは知識の豊かさという点に関して、ひと昔前の人々に対しても、大きな差をつけていると言えなくはありません。ごく一部のものに限られていた教育が、大衆にまでおろされ、それが爆発的な勢いで一般に広がり、深められ、種々の手立てを通して、日々新たな知識が彼らに植え付けられているからです。とすれば現代の特徴は、各人が「知性あるもの」として存在しているところにあると言えるのではないでしょうか。いわば現代人は、自分を知識人だと自覚するとともに、その知性が、少しでも他者より多いことを自慢し、うぬぼれる、という方向に動いているように見受けられるのです。

4.そのままの姿で 第6回 (2018.11.4.更新)

 しかしながら、静かに自分を振り返ってみる時、親鸞聖人の教えに接しながらも、この自分があまりにも偽善的であることに驚かされます。人の世に住んでいる以上、偽善的な態度は捨てきれない宿命なのかも知れません。しかしそれが不可能であるとしても、この態度を、深く内省したいものであります。親鸞聖人の信心は「そのままの自分」でゆるされるのですから、世間を気にして、ことさら善人ぶることはいらぬはずです。と同時に、さほど自分を悪人とも思っていない者の、強いて悪人ぶることもいらぬはずです。私たちは、仏様にそのままでおまかせすること以外に、いかなる要求もされていません。自分を、より以上に見せる態度も、より以下に示す態度も必要ではありません。ただそのままの自分を常に深く見つめながら「そのままの姿」で自然に歩ませてもらう人生の歓びを味わいたいものです。

 私たちが、バートランド・ラッセルのいう「上品なひとびと」に接して後味の悪い嫌気を覚え、ありのままの「愚禿」の姿に、かえって、すがすがしさを感じるという点に深く考えさせられるものがあります。

 

 

4.そのままの姿で 第5回 (2018.10.5.更新)

 私たちは人間であり、人間社会の生活を営んでいる以上、悲しい人間の宿命である偽善的な態度からまぬがれる事はできません。この人間性を、誤魔化すことなく、真剣に見つめられたのが親鸞聖人でありました。人間生活において真の行為の不可能な自分に気付かされた時、その自分を誤魔化すことなく、赤裸々に愚禿の自己を告白されました。人々がベールをかぶって善人ぶっている世の中で、聖人はベールをかなぐりすてて、「そのままの姿」で、み仏の前に立たれたのであります。「このままの姿」で救われているとの確信を抱いて、自己の真相の「愚禿」に悲しみながらも、「愚禿」なるが故に仏に抱かれている自己の喜びを、顕示されたのであります。それ故に親鸞においてはいかなる善も悪も必要ではなかったのです。ただ「そのままの姿」で、自然のままに生かされている歓びのみがありました。善もいらず、悪もおそれなきところ、そこには偽善のかげがありません。「愚禿」親鸞のすがすがしさは、それによると思われます。

 

4.そのままの姿で 第4回 (2018.9.4.更新)

 親鸞聖人は、信心の世界では善悪の念は必要でないと示されました。しかし、現実の社会は、善悪の倫理がその基準となり、それによって、社会秩序が保たれていると考えられています。すると、善悪の念を無視しているかのように見える親鸞の教えは、一見、社会秩序を破壊する教えであるかのように受け取られない事もありません。しかし、そこには善悪を超越した深い宗教的な意義が味わわれるのです。そこで、もう一度、私たちの現実のすがたを反省してみましょう。

 先にも述べましたように、私たちの社会は、偽りの行為や偽善的な態度で満たされています。世の中にはつまらぬ噂が充満し、人々は他人の目を恐れます。自分は少しでも良く見られようと、常に自分自身を背のびさせています。そこに誤魔化しの人生が生まれ、他人の幸福や成功をうらやむ心が起こります。お互いがお互いに妬み合い嫉み合う。お世辞を言いながら、心ではその人を憎んでさえいます。驕り高ぶっているかと思えば、卑下し悲しんでいます。しかも、このような心の持ち主が、善人ぶった毎日を平然と過ごしている。それが私たちの社会なのです。偽善でなくてなんでありましょうか。「偽善」、そのかたまりが私たちなのです。

 親鸞聖人が深く反省された態度、その態度こそ、この「偽善」であったと思われます。偽善なる自分に目覚められたが故に「愚禿」の自覚が生まれ、そこに絶対他力の「信」が芽生えたものと伺われます。愚禿の私を救わずにはおかぬ仏のお慈悲をいただくだけで、もはや、善悪の概念など親鸞には問題ではありませんでした。そこに『歎異抄』に示されているあの言葉ーしかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず…、悪をもおそるべからず、ーがほとばしり出たのでありましょう。

 

4.そのままの姿で 第3回 (2018.8.20.更新)

  ありのままの自分を、そのままに示すのが恐ろしく、いつも自分の姿にベールをかぶせずにはおられないのです。しかも、ベールの中から、人の噂を気にしながら、互いに噂に噂をささやき合います。そのために私達は、自分自身をことさらによく見せようと、見えを張ったり、時には逆に、自分自身を自分以下に見下げたりします。そうする方が世の中を都合よく渡れ、人生を安穏に過ごすことができるように思われるからです。このような世界が私たちの世界なのですから、この世の中から偽善そのものを無くそうとすること自体が、無理な要求なのかも知れません。しかし、私たちはこのような人生に対して決して満足しているのではありません。出来ればこのような誤魔化しの人生は避けたい。偽善的な自分から逃れたいのです。でも、それがどうしても出来ないのが人間社会なのです。もし、偽善的な態度を徹底的に排して、本当に真面目な厳しい人生を送ろうと試みる人があっても、この人は、世の一般の人々からは受け入れられず、せいぜい、変人として扱われるのがおちでしょう。

 私はこのような世の中の、偽りのるつぼの中にいる自分を見つめ、自分もまた、偽善的な誤魔化しの態度しか取り得ないものである事に反省させられる時いつも私の心に思い浮かぶのは『歎異抄』の次の言葉です。

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。…中略…しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと。」

 信心の世界は、善悪を越えた世界であること、私たちを救わずにはおかない仏の慈悲の力を蒙りさえすれば、もはや人間社会の善悪に思いわずらう必要がないという親鸞聖人の教えに深く打たれます。

 

4.そのままの姿で 第2回 (2018.7.11.更新)

 いうまでもなく、偽りの行為は、誰にとっても不愉快なことです。誰だって偽善者にはなりたくありません。だから私たちはつとめてそのような行為を避けようとしています。しかしどうでしょうか。避けようとつとめていながら、かえって、ますます偽りの行為をしないでいられないのが私たちではないでしょうか。それは私たちの生活がそのような行為をしないではいられないようにできているからです。私たちは社会から「善」をするように要求せられています。それは私たちの良心の声でもあります。しかし、その実践はまことに困難なことであって、我々凡夫には容易なことではありません。でも「善を行え」という要求に答え得なければ、自己の心が安らかではありません。このなすべく要求されながら、それに答え得ない自己矛盾から生まれる態度が「偽善」なのではないかと思われます。

 しかも、皮肉なことに、私たちは偽りの行為をしりぞけ、偽善の態度を嫌悪しながらも、私たちの社会は、このような態度や行為をとらずにはおられないようにしか出来ていないのです。といいますのは、この社会では、自分以外のすべての人々から制約されているばかりではなく、自分自身にさえ気兼ねしている世の中だからです。自分は常に他人から比較され、同時に、自分もまた他人と自分を比較しています。いわば、他人と自分との比較の上に、構成されているのが私たちの社会なのです。そこで、私たちは常に私たちの周囲を気にしなければなりません。

 

⒋ そのままの姿で 第1回 (2018.6.8.更新)

 英国の哲学者、バートランド・ラッセルの随筆に「上品なひとびと」という作品があります。氏はこの論文で、上品なひとびとの、いくつかの型として「牧師」「独身で金持ちのおば」「純粋で高貴な婦人」「道徳問題などにやかましい女史」「大金持ちになり財産を慈善事業に使っている人々」などをあげ、それらの人々の上品さを論じた後、「一言にして言うならば、上品なひとびとは、下品な精神の持ち主である」と、上品なひとびとの本質を指摘して文を結んでいます。なぜそうなるのかと申しますと、結局これらの人々は、偽善的な心が特に強いと言うのが氏の言い分であるように思われます。それなら、なぜ、これらの人々は特に偽善的な心が強いのでしょうか。それは、これらの人々に対する世の中の人々の批判の目が、特に厳しいがためであると考えられます。そのために、彼らは偽善的態度をとらずにおれないのだと思われのです。

 世の中で偽りの行為ほど、愚劣で人々に不快の念を抱かせるものはありませせん。それがどれほど些細な事であっても、私たちがそのような態度に接した時は、いつも嫌な思いをさせられるものです。バートランド・ラッセルのいわゆる、上品なひとびとに接した時、私たちの心に後味の悪い、なんだかしっくりしない嫌な思いをおこさせるのも、そのためです。しかし、ここで一寸、わが身自身を振り返ってみましょう。私たち自身、しばしば、というよりむしろ、始終、そのような偽りの行為をしていないでしょうか。時には人に対して、時には自分自身に対して。

  

3.続 聞と人生 第9回 (2018.5.5.更新)

  4.獲 信 ②

 このために、すべての望み、すべての執着が打ち砕かれます。仏の世界へ向かわねばならぬはずの人間が、本来的には、仏に背を向けている存在でしかありませんでした。絶望、これこそが人間のすがただったのです。だがこの絶望に気付いた時、わたくしたちは、はじめて仏の大悲に抱かれていることに気づかされるのです。わたくしたちの耳もとに仏の御声を聞くのです。仏から離れゆく汝を救うことこそが仏のめあてだという、あの「摂取」のみ声を聞くのです。この瞬間を「獲信」(ぎゃくしん)といっていますが、これはなんという歓喜でありましょうか。これぞまことの道を歩もうと悩みぬかれた人のみが味わえる、まことの喜びではないでしょうか。

 苦悩の凡夫がそのままで救われる唯一の道、この「信」の道を教えているのが真宗の教えなのです。まことの人生に目覚めようと努力しているわたくしたちに、仏はつねに呼びかけていられます。いまこそ、心を無にしてそのみ声に耳を傾け、歓喜しつつ、念仏の教えを喜ぶ、新たな道を歩みはじめたいものです。

3.続 聞と人生 第8回 (2018.4.5.更新)

  4 獲 信 ①

  かかる絶望の闇間をさ迷った一人の求道僧に、わたしたちは親鸞のすがたを見出すことができます。親鸞は救われました。絶望のさなかに「摂取」のよぴ声を聞き、踊躍歓喜して仏のみ声に信順したのです。絶望したがゆえに、すべての望みは失われ、すべての力は尽きはてました。生けるもの、これほど打ちひしがれた哀れなすがたはないというべきでしょう。だが、すべてを失ったこの姿こそが、「己」という執着からはなれた「すがた」ではなかったでしょうか。親鸞は聞いたのです。絶望のどん底に沈み至ったとき、己の力に執着する、すべての心がときほぐされて、自然に入りくる仏のよび声を聞くことができたのです。仏に背を向け、仏から逃れようと悶えている汝をいだくものこそが、仏の大悲だという「摂取」のみ声に接したのです。ここに親鸞のめざめがありました。

 私たち凡人は、本来的に善をなすことはできません。善だと考えられていた行為すら、悪の方向をむいているのです。この自覚がなされますと、善をなしたくてなしえない自分、清浄心をもちたくても持ちえない自分、祈りたくして祈りえない自分、仏の世界へ向かいたくて向い得ない自分が見いだされてきます。

 

3.続 聞と人生 第7回 (2018.3.5.更新)

  3 絶望 ②

 私たちは、まことの世界に至りたいと願っています。だがいまや、そこに至るすべての道が断ち切られました。仏に近づこうとして、ますます遠ざかっている自分を見出した時、いかなる望みが、いかほどの喜びが私たちの心に生じるのでしょうか。すべての力、すべての希望が消え失せて、無慙にも打ちのめされた姿、絶望という言葉がありますが、この心こそ絶望でなくしてなんでありましょうか。

 私たちが人生に目覚めたとき、人間のみに与えられた人生の価値を知らされました。日々の生を、より高めるところに人生の価値があり、人としての喜びが味わえるはずだったのです。だが、心を高めようとする喜びが、いまや絶望にと変わったのです。いいかえますと、人生にめざめたもの、より深き生命を得ようと努力するものは、努力すればするほど、絶望の深淵へと沈みゆく自分を悟ることになるのです。とすれば、まことの人生とは絶望だということになるのではないでしょうか。果たして私たちは、はるかに仏の世界を望みながら、永遠に無限の闇間をさまよわねばならないのでしょうか。

 

3.続 聞と人生 第6回 (2018.2.7.更新)

  3. 絶望 ①

  人生にめざめた時、私たちは、自分を高め、まことの世界に至らなければならないと悟りました。そのために善行をつみ、心を清くたもつために不純な心を取り除くべく努めねばならなかったのです。一見、人間には純な心がもたされているかのごとく見られました。だからその心を深めるために努力がはらわれたのです。しかし、自分自身を高めるために、いやもっと純な気持ちで他人になした善行のなかにさえ、不善な心がみいだされました。人間の善は、善そのものが不善でしかなかったのです。ここに自分の力で真の世界に至る道が断たれていることに気づかされ、人は失望の深みへ突き落されたのです。だが救われえない自分が見いだされた時、救われたいという「祈り」が生じました。まことの世界へ至りたいとの願いがいっそう強く感ぜられて、ただひたすら一心に祈り、自分のこころを仏にささげようと努めたのです。けれども、この最後の救われゆく道であった祈りでさえ、その心は不純なものにしか満たされていなかったのです。表面的には、ささやかな善行ができるかのごとく感ぜられた人間、ほんの少し有るかのごとく思われた清浄心も、その奥をつきつめれば、みにくい不善以外のなにものでもなかったのです。

 

3.続 聞と人生 第5回 (2018.1.12.更新)

  2 祈り

 私たちは自分の善行に不善を認め、自分の心に不純を見出しました。だから自分の善行をすてて、仏や神の救いにすがろうとするのです。謙虚な気持ちでひれふし、ただ一心に祈る心、これこそ人間に生じうる唯一の純心ではないでしょうか。だから、このこころに最後の願いを託して、真の世界に至らしめられんことを心をこめて祈るのです。

 だが、はたして、その心はそれほど純粋なものでしょうか。たしかに祈る心は、私たちの世界とは次元を異にした世界に向けられる心です。だからそこには、人間相互に生じるような不善行は存しないというべきかもしれません。だが、祈る心そのものにはいかなる思いが込められているのでしょうか。一体何を祈っているのでしょうか。はたして純な心になりきる無心の境地がそこに見出せるでしょうか。いや、決してそうだとは言い切れません。静かに目を閉じて頭をうなだれているときでも、心は常に動いているようです。しかもその心が求めているものは、全く自分勝手な願いのみのようです。この醜い利己的な願いでかためられた心を、どうして純な心といえるでしょうか。こうみますと、これこそがと思われた「祈る心」の中にも純な心は存在していなかったと言わねばなりません。それでは、私たちには何が残されているのでしょうか。 

 

3.続 聞と人生 第4回 (2017.12.19.更新)

  1 善 行 ②

 そこで私たちは、自分の心をさらに深く見きわめるべき必要にせまられます。私は先に、人間は誰でも純粋な心をもっていると述べました。その例として、幼児を救おうとした行為をとりあげましたが、いま一度、その純心だと思われた心に注意してみましょう。幼児を救おうとした場面を思い起こしてください。なぜ、あの場面、とっさに幼児を救おうとする心が生じたのでしょうか。相手がかわいい幼児であったこと、助けるのに危険性がなかったこと、そのような心が無意識にはたらいていたのではないでしょうか。では、自分の憎むべき相手であったならば、さらにはまた、自分の身にも危険がせまるという場面であったらどうでしょうか。おそらくは、救うにしても躊躇するこころ、迷いの心が生ずるのではないでしょうか。だとしますと、これこそ純粋だと思われる心の中にも、その奥底にはやはり不純物が含まれていることになります。

 人の世に生まれた私たちは、まことの世界に至りたいとの願いをもっています。そのために善行をなすべく心血をそそいだのですが、善そのものに悪の要素が見いだされてきました。しかも、これこそ純粋だと思われた心の中にも、不純物が混じっていることに気づかされたのです。人間の心は、根本的に不純であり、その行為は、根源的に悪であったのです。私たちは、自分には善心があると思ってきました。だからその心をもって真の世界へ至ろうとしたのです。だがいまやその道は断たれたといわねばなりません。真の世界、仏の世界をのぞみながら、自己の力では至り得ないということを悟らされたからです。すべての望みはここに無慙にもうち砕かれて、私たちの心は、大いなる失望に閉ざされるのです。 

 

3.聞と人生 第3回 (2017.11.9.更新)

 1 善 

  誰もが経験されていることだと思いますが、他人のために、全く純心な気持ちでなした善行が、かえって逆に他人から怨まれる結果を招くということが時々あります。もし動機が純粋であればあるほど、これほどやりきれない気持ちにさせられることはありません。相手を八つ裂きにでもしてやりたくなるものです。このようなとき、自分を冷静に見つめよということは、少し無理な要求かも知れませんが、ここで、相手に誤解された原因を見極めたく思うのです。はたしてその行為が、相手にとっても善き行為であったろうか。本当に相手の身になって考えられた行為であったろうか。自分の独善ではなかったろうか。このように見てまいりますと、最初は純粋であったと思われた行為のなかにも、いくつかの不純物が見いだされてまいります。完全だと思われた善が、不完全でしかなかったことに気づかされてくるのです。

 ここで私たちは、自分が善いと思った行為が必ずしも善くはない。あるいは、その善のなかには悪の要素が根本的に含まれているということを、強く自覚したく思うのです。人間はだれしもよき社会を目指してします。しかし、よき社会を求めながら争いを起しているのです。一方が善で他方が悪だというのではありません。どちらもが真剣によき世界を求め、善をなしていながら争いを起しているのです。ここに人間世界の善の不完全さが認められます。私たちは常に、よき行為をしたいとの願いをもち、心を清く保って真の世界へ歩もうとしています。だから懸命に努力して善行に励んでいるのです。だが、その願いとは逆に、善行そのもののなかに悪の要素がみいだされてきたのです。これは大きな衝撃だといわねばなりません。

3.聞と人生 第2回 (2017.10.10.更新)

はじめに ②

 たとえば、野に蝶を追う幼子のすがたを思い起こしてください。ただ無心にたわむれるその児の遊びの姿に、あなたが目をうつしたとしましょう。その時あなたは、きっと微笑みを浮かべてその児を眺めることでしょう。だが、突然、あなたが児の走りゆく先に草に覆われた野井戸をみとめたとします。すると、いままでの微笑みはたちまちに消えて、不安の色が顔全体をに覆うことでしょう。あなたの心配とは無関係に、幼子は無心に蝶を求めて野井戸の方へ近づいてゆきます。自分の危険さに全く気付く気配はありません。一歩、一歩…今にも落ちそうになった時、あなたは一体どうするでしょうか。とっさに、顔色を変えて幼児のそばに駆け寄り、児をわし掴みにして後ろに引き戻すことでしょう。その時あなたの心は、ただ幼児を助けたいとの願いのほかは、いかなる雑念もないはずです。ここにわたくしたちは、すべての人に備わった純な心を見出すのです。このように誰の心の中にも、理屈を離れて、ただ善き行為をしたいと願う清らかな心が存在しています。この本来そなわった純な心が、自己をみつめる目となり、己を高めようと努力する心になるといえるでしょう。

 たしかに私たちは、ひとたび人生にめざめますと、悪を廃して善をなそうとする心をもちます。そしてこの心をもって自己を高め、よりよき世界を築こうと励みます。それではこのように善行を求めている私たちの世界に、不善や争いは存在しないのでしょうか。残念ながら現実は決してそうではありません。善を求めている社会に不善が認められ、和を求めている世界に争いが起こっているではありませんか。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。そこで、この原因を突き止めるために、私たちの「善行」そのものを、しばらく考えてみたく思います。

 

3.続 聞と人生 第1回(2017.9.10.)

 はじめに ①

 わたしはさきに「聞と人生」の題のもとで、人生のまことのすがたを求めてみました。その時私は、私たち凡人の歩むべき道は、結局、悟りの世界からのよび声に、素直に導かれてゆくより手立てがないとの結論を得ました。ところが、仏のみ声にしたがいゆくことが、なぜ私たちに残された唯一の道なのかということについては、あまり深く論ずることができませんでした。そこでこのたびは、この点を少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 先にも述べましたように、私たち人間の生命は、自己の存在に気付かされた時にはじまります。その時私たちは、自分が不可思議な存在であると同時に、苦しみと醜さにみたされたものであることを知らされます。そこで人は、この疑惑と苦醜を取り除くために努力し、矛盾の世界を離れて、まことの世界へ至ろうと願いはじめます。そのためにわたくしたちは、清らかな心を保つために不純な心を断つべく、また自己を高めるために善行をすべく努めねばなりません。それはまことに厳しく苦しい道だといわねばなりませんが、この道をただひたすら黙々と歩むところに、人道と呼ばれる尊さが輝いているのです。だが果たして、すべての人間に善行を積もうとする心、自分を高めようとする清らかな心が備わっているのといえるでしょうか。わたくしは、一概にないとは言い切れないと思うのです。周囲に目を移せば随所で人の清らかな行為が見かけられるからです。

 

 2.聞と人生 第9回 (2017.8.10.更新)

⑷悟りの世界から ③

 私たちの人生は、ともすれば自己を見失いがちです。あるいは、真の自分に気付くことを怖れているだというべきかも知れません。だが、人間である限り、真の自己を見つめてゆかねばならないのです。そのために厳しい修行が必要とされますが、この道は多くの凡夫には不可能な道だといわねばなりません。そこですべての人々が、いつでも、どこでも、そのままの姿でできる、真の自己にめざめて行く道が必要となります。結局その道は、最後に残された、悟りの世界からの声を聞くということに極まるのではないでしょうか。聞くことによって己の存在に気付かされ、聞くことによって迷える自分を見出し、さらに聞くことによって、すでに迷える自分がそのままの姿で救われていることを知らされていく世界、救いの御手の中に随喜していく生き方が真宗の教えだといえるでしょう。かくして真の人生に目覚めさせてゆくところに、真宗の教えの尊さが輝いているのだと思われます。

2.聞と人生 第8回 (2017.7.5.更新)

⑷悟りの世界から ②

 だが、ここで注意すべきことは、いったいどのような世界が、この厳しい修行を通して見いだされるかということです。一般的には、禅の修行をすれば苦や迷いがなくなるというように考えられております。しかし、決してそういうものではありません。禅の修行は結局、人間の真の凡夫性に気付かされるということではないでしょうか。そのように気づかされる瞬間を禅宗では「悟道」と呼んでいるのだと思われます。いいかえますと、苦のなくなる世界が悟りではなく、苦を苦としてそのまま認め、迷いを迷いとして認めて、己のはからいをまじえずして、その中に己を投げ入れるところに、おのずから苦や迷いを離れる世界が開かれてくるのだといえます。これを悟るまでに厳しい修行が課せられるわけですが、かくして「悟」をえた禅僧は、そこにより大きな悟りの世界に、すでに包まれていた自分の存在に気付かされるのではないでしょうか。

 真宗では、この禅の「悟道」にあたる境地を「信心をうる」といっています。鈴木大拙師がかつて、真宗の信心を得たある妙好人を見て、禅宗の悟りを得たものと同一の境地に達していると評しておられましたが、それでは真宗の「信」はいかにして得られるのでしょうか。禅宗では厳しい修行によって、自己を見つめる目を養われ、己の凡夫性に気付かされるといえますが、真宗ではこの境地を「聞」によって得られるといいます。すなわち禅僧は、大いなる悟りの世界の存在に気付くために、自己を厳しく修するわけですが、真宗の教えは、悟の世界からの声を、己を空しくして聞くところにはじまるといえるのです。

2.聞と人生 第7回 (2017.6.8.更新)

⑷悟りの世界から ①

 自分のすがたに目覚めるとき、私たちは人間のみがいだかねばならぬ、まことの苦しみを味わいはじめます。だが、この苦しみを乗り越えてこそ、はじめて人のみがあじわえる真の喜びを見出しうるのです。この苦しみを乗り越えて楽しみに至る道を教えるのが仏教だといえます。仏陀の教えを一口にして言えば、人間の本来のすがたをありのまま見るということに尽きるのではないでしょうか。どこに苦や迷いの生ずる原因があるかを見極めて、その根源を断って真の喜びを得させる教えなのです。そのためにまず、ものごとを正しく見る目を要求されます。なにが真の苦であり迷いであるか、それを見極める目なのですが、この目を得るために厳しい修行がかせられているといえます。さらに見極めた迷いを乗り越えるために、たゆまぬ努力を必要とされています。

 現在、私たちはこの仏陀の教えを如実に修している一つの尊い姿として、禅僧のすがたを見出すことができます。人間の迷いの根源である執着を断つために、己の所有物をかなぐり捨て、肌身につけた一枚の着物、居住のための一丈の間での生活、極寒でも酷暑でも真夜中から起き、ただ黙々と坐する姿、日々の生活の一つひとつがすべて修行に通じているというあの厳しい態度、ここにしてはじめて真の迷いを知り、その苦を断つ道が開かれるというべきでしょう。

2.聞と人生 第6回 (2017.5.5.更新)

⑶悟りへの道 ③

 人間にとって、ここに二つの道が用意されています。その一つは、苦しみから逃れるために、なるべく苦しみの人生を見つけることを避けようとする道であり、他の一つは、苦の人生の苦を取り除くために、人間苦と戦ってそれにうち勝とうとする道です。ではこの二つの道のいずれをわたしたちは選ぶべきでしょぅか。

 第一の道から考えてみましょう。この道は世の多くの人々が歩んでいる道だといえるのですが、たしかに人間は、現実をみつめてまことの自己の姿に気付くことを怖れています。迷い悩みつづけたあげくに、無限の闇へ去りゆく自分を見ることが怖いのです。だから、その自分を忘れるために、種々雑多な手立てをこうじはじめます。少し私たちの周囲に目をむければよくわかるのですが、自分をふり返り見つめる時間をなくするために、人はなんと空しい時を費やしていることでしょうか。むだ話、テレビ、麻雀、パチンコ、酒、数えれば限りがありません。

 でははたして、これらの逃避がまことの意味で、人間の苦しみからのがれる道になっているでしょうか。少し思案を巡らせば、誰にも理解されますように、この方法は決して人間苦を根本から抜いているとはいえないのです。なるほど、しばらくの間は苦を忘れることができるでしょう。しかし、その苦を忘れているうちに、より大きな苦しみが、その人に徐々に迫りきているというべきでしょう。だから第一の道を選ぶことは、明らかに誤っているといわねばなりません。だから、結局、苦を除くために私たちのとるべき道は、第二の道でなければならなくなります。

 自分をみつめて真の自己に気付くだけでも非常な勇気を必要といたします。まして、その苦を取り除き迷わぬわが身を得るには、いかほどの努力を必要とすることでしょうか。だがわたくしたちに残された道がこれしかない以上、この道を黙々と歩むより手立てはないのです。この苦や迷いが人間のみに与えられたものだとするならば、やはり人間のみに与えられた、苦に勝ち得てうる真の喜びもあっていいはずです。そしてこの苦しみを乗り越え、喜びの世界に至る道を、仏教では悟りへの道といっています。

2.聞と人生 第5回 (2017.4.9.更新)

⑵悟りへの道 ②

 いいかえますと、人間には他の動物にみられない、自己をみる目を有するのですが、この目が人の心に芽生えるとき、人間特有の意志やねがいも、付随的に人の心に芽生えてくるのです。自己をみる目、意志やねがい、これらは人間のみにそなわった特異性だといわねばなりませんが、これらがあるからこそ、ここにまた、人間のみに課せられた苦しみや迷いが生ずるといわねばならないのです。現実をみつめながら、わたくしたちの心は現実とは逆の方向へとむかうからです。

 生きとし生きるものはすべて、よりながき生命を願います。だがその願いとは無関係に、現実はいつもわたくしたちのねがいを断つかわかりません。肉体をもつものは健康な心身を願うことでしょう。だが、この願いに対しても、現実はつめたくたちはだかります。いつしか、病が、老いが、わたくしたちの肉体をむしばんでゆくのです。少しでも楽しく幸福な人生を、ということは、またすべてのものの願いといえるでしょう。だが自分のおもいのままになる人生が、いったいどこに存在しているといえるでしょうか。どこにも存在していないのです。これが苦でなくしてなんでありましょうか。しかもわが身をみつめれば見つめるほど、人間的な苦しみや迷いが、より多く生じてくるといわねばなりません。いったいどうすればよいのでしょうか。

2.聞と人生 第4回 (2017.3.13.更新)

⑵悟りへの道 ①

 それではこの目が備わったとき、わたくしたちは何をいったい見出すでしょうか。まず、自分の不思議な存在に、驚異の目をみひらくことでしょう。それから、未知の世界へ歩まねばならぬ不安な自分に、言い知れぬ畏怖を感ずることでしょう。そこで過去から未来へ流れゆく自分のすがたを見極めようといたします。だが、それは空しい努力だといわねばなりません。私たちには、それを探知する能力が備わっていないからです。それゆえに私たちは、やがて現実のみを注意深く見つめようとしはじめます。だが、そこに見出される現実は、私たちにとって全く冷たい存在だといわねばなりません。何一つとして私たちの意を満たしてくれないのですから。むしろ人間の意志や願いとは無関係に、厳として冷ややかな存在が現実だというべきでしょう。

 それでは、この現実に私たちは、どのような態度をとっているでしょうか。もし、現実がこのようなものだと見きわめられたならば、人は自分の意志を、現実の本来のすがたに従わせるべきでしょう。意志を現実にそわせてこそ、現実とともに自己を歩ませることができるからです。しかし、実際に私たちがとっている態度は、全くこの逆だと言わねばなりません。なぜなら、現実を私たちの意志に従わせようとしているからです。ここに執着や苦しみ、あるいは迷いの生ずる原因が見いだされます。

 

2.聞と人生 第3回 (2017.2.18.更新)

⑴人生のめざめ ③

 仏教ではある一つの物体が、突然、無から湧き出でて、それがまた無に帰するという考えを認めません。世に存在するものは、すべて、因と縁によって生ぜしめられ、また因と縁によって、何ものかに転化せしめられると教えます。

だから現在この世で人間のすがたをしている私たちも、突然、無から湧きいでたものではなくて、ある因縁が和合して、その果がいま、人のすがたにせしめられているといわねばなりません。だとすれば、現在の人間となる以前の私が、なんらかの形で存在していたはずですし、人間以後のわたくしもまた、同様に、いずこかで存在せねばならぬはずです。だからこの考えをおしすすめますと、わたくしの存在は、無限の過去より永遠の未来へと流れ行くものとなってしまいます。いったい何処からいずこへ流れ行くのでしょうか。残念ながら、私たちには過去を見る目も、また未来を見る目をも持たされておりません。だからそれらを知ることはできないのです。だが幸いにして、人間には一つのものを見る能力を持たされております。それが現在を見る目なのです。しかもこの目は、現在のみしか見えぬ目でありながら、如実に現実を見るものには、過去をも、また未来をも測知できうる目だといえます。そしてこの目こそが人間のみに与えられた尊い目なのです。だから、ふと自分に気づくときがやってきたということは、やっと現実の自分の姿を見る目がそなわったことを意味するのです。ここにまことの、人の生命のはじまるゆえんが存在するといえるわけがあるのです。

聞と人生 第2回(2017.2.4.更新)

  ⑴人生のめざめ ②

 他の動物と人間とを比較した場合、他の動物には見られない、いろいろな能力を人間はそなえています。そのなかの一つに、「自己を見る目」という能力を認めることができないでしょうか。人間以外の動物には、自分を見つめて、わが身の存在を意識することはできないようです。されば、自分をふりかえり、自分のすがたを反省するという行為は、他の動物にはみられない、きわめて著しい人間の特異性だといえそうです。そこでここに注目して、ふと自分のすがたにきづいたとき、あるいは、おのれの存在に疑惑のおもいを抱きはじめたとき、はじめて、人のひとたる生命が始まるとわたしは言いたいのです。

 この世で産声を上げてから、いく年を過ごした頃からでしょうか。ふと、おのれの存在に気づかされるときがやってきます。そのとき、現実に生きているこの不思議な自分の存在に、いい知れぬ不安と驚きのおもいが、突如、襲いかかってくるものです。いったい、この私の生命は、何処よりきたり、いずこへ去り行かねばならぬのでしょうか。だれにも解けぬ謎ですが、現在、自分がここにいる以上、このわたくしは何処からか来たものであり、同時にまた、いずこかへ去らねばならぬ存在だといわねばなりません。

 

2. 聞と人生 第1回(2017.1.14.更新)

 ⑴人生のめざめ

 いったい、わたくしたちの人間としての生命は、いつからはじまるといえるのでしょうか。だれもが直ちに、母の胎内から生まれいでたときと答えることでしょう。なるほど、見た目には親の胎内から顔をいだしたとき、わたしたちの命が鼓動しはじめるように感ぜられます。だが、はたして真の人生が、そのようなときからはじまるといえるのでしょうか。一匹の動物を考えてみたとき、その生命は、まさしく母親の胎内から生まれいでたときにはじまるといえるでしょう。しかし、一匹の動物にあてはまったことが、そのまま人間にもあてはまるでしょうか。なま身の肉体をやどすわたくしたちは、たしかに動物の一類だといわねばならないでしょう。しかしながら、他の動物と区別して、人間と呼ばれる場合には、なんらかの意味で、他の動物と異なったところがなければなりません。その違いがあるからこそ、人と呼ばれるゆえんがあるのです。だとすれば、その生命のはじまりに、もっともいちじるしい違いが見いだされてもいいはずです。そこで、人生の意義を考えるにあたって、最初に生命のはじまりを問うみたわけです。

 

 

1.親鸞聖人のみ教え 第8回(2016.12.8.更新)

 では凡夫が仏と出会うとは、具体的にどういうことなのでしょうか。仏そのものは、色もなく形もましまさず、といわれていますが、仏は本来、凡夫の目には見えないものであり、推し量ることのできぬ存在なのです。ところが、その凡夫が、口に「南無阿弥陀仏」と念仏を称えているではありませんか。この事実を指して親鸞聖人は、これが凡夫の私と出遇っている明らかな証拠だ、といわれています。彼方より私の心に至り届いた、阿弥陀仏の大悲のすがたが、念仏だというのです。したがって、私たちの救いは、この念仏を除いては存在せず、南無阿弥陀仏の名号となって、私の心に来たっている仏の大悲を、ただひたすら信じることが、念仏者にとって最も大切なこととなるのです。しかし凡夫は、この念仏こそが阿弥陀仏の大悲の相だということも、念仏していることが、仏と出遇っている証だということも、なかなか信じられません。悲しいことに、私たちは己れの浅はかな判断のもとに、仏の大悲を拒絶し、この迷いの世界に執着して、みずから苦しみ続けているのです。この故に凡夫には、ますます他力の教えが必要となるのです。念仏が本当に喜べるまで、難信といわれるこの法をくりかえしくりかえし、聞かせていただきたく思います。

1.親鸞聖人のみ教え 第7回(2016.11.2.更新)

 しかしながら、私たちがただ「悲嘆」のみの人生を送るのなら、そこからはいかなる喜びも、生きる力も生じてはまいりません。それはまことに暗く、みじめな人生だというべきでしょう。だがもし、この者が悲嘆の中において、彼を救おうとする仏の大悲に出遇うことができるとすればどうでしょうか。悲嘆はそのまま歓喜に転ずるはずですし、この人生を永遠に生き抜こうとする力強さが、彼の心底から湧き出でてくることになるはずです。彼自身の歩みは、すでに彼一人のものではなくて、仏とともにあるのだという信知の世界が、彼の中に生じているからです。

 しかしこの仏は、私たちが助けを求め懇願して得た仏でないことを、私たちは明確に知っておかねばなりません。本来「仏」とは、凡愚の勝手気ままな願いによって動かされる存在ではないのです。そうではなくて、そのような依存心を破り、迷える凡愚を、必然的に真実の世界に転ぜしめようとする大悲の力が仏陀なのです。阿弥陀仏のこの力を親鸞聖人は「他力」と呼んでいるのです。だから他力は、私たちの「甘え心」、「頼る心」を意味するのではなく、仏の力を指す言葉なのです。   ところで世間一般では、この他力の語を甚だしく誤解しています。自分が努力もしないで、何ものかによって助けてもらうことが「他力」だと考えているのですから。少し考えればわかることで、身勝手に助けを求める心こそ、まさしく醜い、エゴまるだしの自力心だというべきではありませんか。むしろこのようなエゴ的自分の醜さに気付かしめるところに、親鸞の他力思想があるのですから、この他力には自力以上の厳しさが宿されているのです。かくて他力によって、凡愚がはじめて仏と出遇うことが可能となるのです。

1.親鸞聖人のみ教え 第6回 (2016.10.8.更新)

 ところで、真の善を完成させるためには、二つの事柄が、成就されねばならないとされています。一つは、真と偽を間違いなく見極める智慧の目(大智)がそなわること、他は、その大智を通して迷える存在を限りなく救うために、無限の慈悲(大悲)もつこと。したがって、この二つの特性を有することが、真の善であり仏陀のすがただといえるのです。そして、あらゆる仏陀のなかで、ことにすぐれた大智と大悲を兼ね備えた仏こそが「南無阿弥陀仏」と呼ばれる仏さまなのです。阿弥陀仏とは、無限の光と無量の命をたもてる仏と訳されていますが、この二つの性格が、大智と大悲に他ならないからです。とすれば、阿弥陀仏とは、無限の大智と大悲をもって、あらゆる凡愚を救う仏だということになります。

 では、その凡愚とは一体誰なのでしょうか。人間が本当の意味で悪にめざめ、己が愚を覚知するのは、自分自身をどこまでも高めようとする努力の中においてでありました。そうだとすれば、完全なる善を求めつつ、その願いとは逆の方向に歩み続けている己が姿に悲嘆している愚者こそが、阿弥陀仏によって救われる凡愚だということになるのではないでしょうか。親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、この点を鋭くえぐっているといえるのです。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第5回 (2016.9.7.更新)

 他力―仏との出遇いを通してー

 このようにみれば、親鸞聖人が意味する「悪人」とは、悪事をはたらくといったこととは、およそかけはなれた内容を指していることになります。人生を怠けたり、嘘や偽りでごまかすことでもありません。その逆であって、善にあこがれ、善行を積み重ねようと努力している者が、その己が姿を、みずから深く反省して発せられた自覚の言葉であったのです。内省と向上は表裏一体をなしているといわれています。みずから深く恥じらう者こそ、より高い世界を目指す者なのであり、その向上はするどい内省をもってはじめて成り立つのです。この意味からしても、「悪人」とは尊い理想を掲げて、一心に励んでいる者が、その崇高なる理想の故に、己が無力さを悲嘆する叫びだというべきで、みずから悪を好む者には、決して悪の自覚は生じないのです。悪者はむしろ常にこれ弁護につとめ、自分の正しさ、よさを吹聴しているといえるのではないでしょうか。

 ここで仏道とは何かを考えてみたく思います。故人はこれを一言で「善を為すことだ」と言い切っています。まさしく的を射ているのですが、注意すべきは、「善を為せ」という言葉を知っていることが仏教なのではなくて、善をなしていること、それが仏教だというのです。そして、その完成者が仏陀と呼ばれるのです。だとすれば私たちは善をなそうと願いつつ、願いとは逆に悪事を重ね、迷いのただ中に落ち込んでいるのですから、迷える者、凡愚と呼ばれるのだといえましょうか。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第4回 (2016.8.6.更新)

  悪ーそれが私の姿だー③

 例えば、家庭内でよく見られる場面ですが、お互いが一心に相手のために働いていながら、その二人が全く醜い争いをおっぱじめる時があります。行為が相手のためであるならば、私たちは何よりもまず、本当の意味で、相手が何を求め欲しているのか、その心を知らねばなりません。知ったうえで、その望みに即して働いてこそ、「相手のために」という行為が可能となるからです。でも、人間には、どんなに親しい間柄でも、かの人の心を完全に知り尽くすことは不可能です。だとすれば、私たちにとってせいぜいできることは、私自身が一心に考えて、これが最善だと思うことを、相手のために為すだけだということになります。しかし、それはあくまでも、自分が自分を中心とした思考の中で求められた「善」にすぎないのであって、その善行がはたして相手のためになっているのかどうかは、実は不明なのです。あるいは相手が全く望んでいないことを、独善的に無理におしつけているかも知れないのです。

 ところで、自分が最善だと思う行為は、まさしく自分にとって正しいことであるわけですから、もし相手が自分の行為を受け入れなかったり、感謝をしなかったりすればどうでしょう。一心になされた行為であればあるほど、相手が悪く、憎く思われてくるに違いありません。そしてもし、相手もまたそれと同じことを考えているとすれば、お互いが相手のために最善を尽くしていながら、その善意と行為が、実に醜い争いの原因になりかねません。最も親しい間柄でさえそうだとすれば、もっと広い関係では、より一層のずれが生じるというべきでしょう。確かに人間は、善に憧れ、善意をもった行動をとっています。事実、そのことに喜びを感じ、生きがいを見出しています。だが、そのお互いの善意が、いたるところで、ずれをに起こし摩擦を生ぜしめていることもまた、いつわりのない事実だといわねばなりません。ここに人間の、善意や善行が、そのまま妬みや争いに転ずる、悲しい「悪」の相を見るのです。親鸞聖人はこの人間の真実の相を「悪人」という言葉でおさえ、私たちは、最善を尽くしている、そのまっただなかにおいて、「悪の自覚」をもつことが重要なのだと教えられているのです。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第3回 (2016.7.3.更新)

 悪ーそれが私の姿だー②

 偽らざるところ、私たちは、自分自身の中に善意を認め、日々よき方向に向かって進もうとしない限り、生きてゆけないのではないでしょうか。少なくとも己が人生に生き甲斐を見出さないのではないでしょうか。このような観点から自分を眺めてみますと驚くほど強い力で、善に憧れている自分に気付くはずです。人々の美しい行為には、私たちは必ず感動します。逆にきたなく他を貶めようとする行為に接しますと、心の底からの憤りを感じます。善者と悪者が並んで現れますと、私たちはきっと、善者に心を寄せるのではありませんか。これは自分自身に関しても同じことです。自分が最も喜びを感じ満足している状態を思い起こしてごらんなさい。必ずや、善意に満ちた行為を精一杯成し遂げている、その時であるはずです。充実感は、決して、さぼったり寝そべったしている時には味わえないものです。

 このように見れば、私たちはだれしも、善にあこがれ、自分を少しでも良き方向に高めようとして、日々この人生を送るべく努力しているといえなくはありません。だがこれが事実だとしますと、奇妙なことがここで生じてきます。一人一人の心は善意に満たされているというのに、それにしてはあまりにも、この世には悪が多くて、みにくい争いが横溢

しているという事実です。ここにおいて私たちは、自分にとってこれが「善」だと確信しているその心が、はたして正しいかどうか、今一度確かめる必要に迫られます。お互いが善きことをなしつつ、その行為がもし、争いの原因になっていたとすれば、お互いの「善きこと」は、まゆつばものだと考えねばならないからです。

 

1. 親鸞聖人のみ教え 第2回 (2016.6.8.更新)

 悪-それが私の姿だー

 親鸞聖人は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉を残されています。まず人生を正しく歩むためには、各々が悪の自覚をもつこと、それが最も重要だというのです。ところでこの「悪の自覚」ということは、非常に誤解をまねきやすいのです。怠けてもよいし、悪いことをしても許されるのだ。いやもっと極端にいえば、悪いことをする方がよいのだと錯覚させるようなひびきを、この語はもっているからです。だが、悪を奨励するような宗教はありません。もしあるとすれば、それは偽りの宗教だといえましょう。親鸞聖人の教えが、浄土真宗と呼ばれる以上、悪事や怠け心をすすめることなどありえないのです。では、聖人が意味する「悪の自覚」とはどのようなことなのでしょうか。

 さて、ここで私たちは自分自身をどのように眺めているか、少し考えてみましょう。おそらく誰一人として自分を「悪者」だと見ている者はいないでしょう。たとえ他人からどんなに悪人だと見られていても、彼自身は自分をそれほど悪いと思っていない。いや、むしろ色々な悪事をはたらいていたとしても、彼はそこで何らかの理由を見つけ出し、自分を正当化させて、自分の中に、よさ、美しさ、正しさのあることを確かめているといえるのではないでしょうか。たとえ口ぐせのように、自分は悪人だとか、馬鹿だとかいっている人でもやはり心の底では、自分のよさを必ず認めているものです。その証拠に、悪人だといっている人を、そのごとく扱ってみますと、きっといやな感情を彼は抱くはずだからです。

 

 

1.親鸞聖人のみ教え 第1回 (2016.5.24.更新)

 はじめに

 人生は旅路にたとえられます。私たちは、いずこからこの世に来たり、いずこかへと去りゆくものです。今その途中を歩みつづけているといえましょうか。とすれば、私たちは何をおいても、まずその行くべき方向を正しく見定めねばなりません。でなければ、とんでもないところに流されてしまう可能性があり、そうなってしまってからでは、いかに嘆いても、手遅れになってしまうからです。

 ところでこの私に、はたして明日を正しく見きわめる目がそなわっているといえましょうか。誰しも自信をもって、このことに頷くことはできないと思います。その証拠に、自分の歩みきたった跡を振り返ってみますと、いたるところで悔いを残しているからです。目の前の世界を正しく判断する能力さえ備えていない私に、どうして永遠の未来を誤りなく見通す力があるといえましょうか。この生涯のみでなく、間違いなく死をも越えて私を導くような、そのようなすばらしい知恵を、私たちは到底もちあわせていないといわねばなりません。

 かくて、この人生の旅路を誤りなく歩み行くためには、正しく私の行く末を示す道標を、各人が持たねばならないことになります。では、私にとってそれは何なのでしょうか。それが死をも越える世界を正しく指し示すものだとすれば、生死を越える道を教える、宗教的立場からの教えということにならざるをえません。私たち真宗者は、これを親鸞聖人の導きに仰ごうとしているのです。ところで、その道標を目の前に起きながら、見みしないで、自ら迷路を選び、迷いの人生を送っている真宗者のなんと多いことでしょう。ほんのしばらく立止まり、親鸞聖人の呼び声に耳を傾け、その道標の一端にふれていただきたく思うのです。