仏事あれこれ

 ご 門徒さんとお話していると、仏教の教えや浄土真宗の教えは、どうも敬遠されがちで、もっと身近な、お仏壇のことや、お墓のこと、お布施のことなど仏事に関するさまざまなことに強い関心をお持ちなのを感

じます。それでこのコーナーでは、そういうご門徒さんのちょっとした疑問や悩みについて考えてまいりたいと思います。

 ここでは本願寺出版社から発行されています末本弘然先生の『仏事のイロハ』を参考にしながら毎月1回くらいのペースで「仏事のあれこれ」をお話してまいります。

 

第67回 初詣には是非ともお寺におまいりしよう。(2018.11.28.更新) 最終回

 ながく連載してきました「仏事あれこれ」も今回が最終回です。来月からは、同じ末本先生のご著書から『くらしの仏教語豆辞典』からの記事をご紹介してまいります。

 さて、それで最終回の今回の仏事あれこれは、少し気が早いですが、お正月の過ごし方について、ちょっと考えてみたいと思います。

 初詣というと、やはり誰でもが、お宮さんにお参りすることを連想すると思います。年頭に当たって、新しい年の夢や希望が叶いますようにと神社にお参りして神さまに願ごとをするのが初詣であるように思われています。そしてお参りして、一年の運をおみくじで占ってもらったりするのでしょうね。

 それはそれで庶民の幸せをもとめるささやかな宗教行為として私は決して悪いことだとは思っていません。日頃宗教と縁のない生活をしている日本人が、年のはじめに自己を超えた存在に手を合わせるのはひとつの助縁になるのではないと思っています。ただしっかりとした信仰をもっている人であれば、ご門徒の方などは、それは好ましいことではありません。やはり迷います。

 私のお寺では、大晦日に除夜の鐘を撞きおえると、新しい年を迎えていますので、すぐに修正会という新年最初のお勤めをしています。それぞれのお寺さんで、元旦の朝とか、2日、3日などに修正会をつとめていますので、初参りは、ご自分の信ずる阿弥陀様に一年のご挨拶をして始めるのがいちばんすがすがしい初詣になると思っています。

 阿弥陀様は、こちらがお願いをしないでも、いつでも私にいちばんよいこと、正しいことを叶えてくれます。それは私たちの欲望をなんでも叶えてくれるというのではくて、そのような欲望をこえて真実に導いてくれるはたらきをいただきます。いつでもどこでもどんな状態に私があろうとも決して見捨てることなく見守り続けてくださるのが阿弥陀様ですので、私たちはそのご恩にお礼をいうだけです。

 初詣は、ご自分の菩提寺にまいりましょう。

 

 

第66回 水子供養について (2018.10.20.更新)

 私のお寺では、お願いされたことはないのですが、以前にある人から水子供養を専門にしているお寺さんの話を聞いたことがあります。水子というのは、生後間もなく亡くなってしまわれた赤ちゃんや、死産で生まれたきた赤ちゃん、あるいは事情で産んであげることなく亡くなっていった幼い命のことなど、流産や堕胎などで産まれることのできなかった赤ちゃんのことをいうようです。

 今でこそ赤ちゃんは産まれたら育つのが当たり前のようになりましたが、古い過去帳などを見ていると赤ちゃんがたくさん亡くなっているのがわかります。そのような場合、私のお寺では、普通にお葬式をして、お墓に納めていただきます。地蔵尊を建てたりして、特別の供養をするようなことはありません。しかし、前述の水子供養を専門にするというお寺さんは、やはり何か特別の供養をするのでしょうか。いろいろのいきさつから堕胎する場合がありますが、きっとそのことで何かばちが当たる、幼い命のたたりをうけるとか、そう考えて、それから逃れようとして、おはらいするがごとくに、お勤めしてもらうのかもしれません。

 せっかく人間のいのちをいただきながら、人間として産まれ、育つことのできなかったこと、そして親の側からすれば、そうしてあげられなかったことは、無念であり、悲しいことであり、申し訳ないことです。けれども、そのことを通して、私たちが教えられることは、無常ということであり、今こうして生きていることが当たり前でなかったこと、当たり前でない命をいただいていたという事実にあらためて気づかせていただくのです。

 そして、それと同時にそのような世界で生きている私たちに常に阿弥陀様のお慈悲がかけられていることを偲ばせていただきます。幼くして終えた命や、流産してこの世に生まれ出ることのできなかった命は、いずれ私たちが帰っていく仏様の世界に先立ってかえり、後からいく私たちの導き手となってくださっていると、浄土真宗では味わいます。けっして、うらみを結んだり、たたりを与えたりすることはありません。ですから、特別に地蔵尊を立ててお墓がわりにすることはいりません。当たり前に、お葬式をして、お骨があれば、わが家のお墓に納めてあげたらいいのです。

 

第65回 法事は何回までつとめるの? (2018.9.17.更新)

  ご門徒様から時々受ける質問があります。一つは、法事の年回はどうやって決まったのですか、というものです。1周忌、3周忌、7周忌、13周忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌と年忌はつとまります。これがどのようにして決まったのか、はっきりわかりません。私も昔調べたことがあるのですが、中国の儒教の影響から生まれたのでないかというのがせいぜいでした。ただ、いつも思いますのは、実によくできているなということです。本当にちょうどよい塩梅に配当されているのを感じます。

 また次に受ける質問に、法事はいつまでつとめるのかという質問があります。これについては、一応50回忌を

目安にお答えしています。それは、50回忌を終えますと、つぎは遠忌法要といって50年ごとにつとめることになるからです。その人一代で仏事をしようと思えば、せいぜい50回忌が限度だと考えているからです。

 しかし、それでは50回忌を過ぎたらもういいのかというと、そうですとはいえません。何となれば、亡き方のご恩をしのべばこれでもう十分ということはありませんからね。実際、親鸞聖人のご命日の報恩講などは、毎年盛大におつとめいたしますし、50年ごとの遠忌法要もすでに750回忌をつとめました。ですから、仏事については、お気持ちで50回忌がすぎても、その後は毎年ご命日につとめても少しも問題はありません。お気持ちがあればそうされたらいいのです。ただ、反対にそうしなくていけないとまでは言えません。

 亡き方のご恩を偲んで、その方の仏さまとしてのお導きによってお念仏に出遇えたことを喜ぶ仏事ですから、50回忌はひとつの区切りではありますが、それまでしたらもうしないで済んだといって面倒なつとめが終わったように考えるのは、ちょっと仏事の趣旨にそれているかもしれませんね。

 

 

 第64回 いまさらですが、お焼香の作法について (2018.8.28.更新)す

 最近は私のような田舎のお寺でも、葬儀は会館葬が普通になってきました。いろいろの事情からそうなってきたので、会館葬を選ぶご門徒様をとがめることはできないと感じていますが、少し寂しくはあります。

 葬儀を会館でするだけでなく、お通夜なども前日から会館ですることが増えています。そんな時には、私はよく法話の最後にお焼香の作法についてお話します。それはご門徒様の遠い親戚の方の若い人や、仕事関係で通夜に参った方などに仏縁を結ぶよい機会だと思うからです。お話すると皆さん真剣に聞いてくれます。普段そんな焼香の作法を聞くことがないからかもしれません。

 同じ仏教であっても宗派によって、作法はまちまちであることをお断りして、ここでお話するのは、浄土真宗本願寺派の作法ですと言って始めます。焼香台に進んできたら、ご本尊様に軽く頭を下げます。つぎにお焼香の抹香は押し頂くことはしませんといい、焼香も一回であることを実演してみせます。そしてお焼香した後に合掌しますが、その合掌の作法もお話します。念珠の輪に両手を通してかけること、みぞおちのあたり四十五度くらいが一番美しく見えること。それから必ずご本尊を見ながら声に出してお念仏を称えることをお話します。短いですが、そののお念仏は阿弥陀様からのくださりものであることや、いただき心は感謝と報恩の気持ちで称えることなどもお話しします。黙祷するようなお念仏はしないこともはっきりと伝えています。

 ですが、さあ、それではどうぞお焼香してくださいと、皆さんに勧めてみますが、最後の称名念仏がなかなか唱えられる人が少ないですね。余宗の人の場合もあるかもしれませんが、なかなかご縁がないと念仏するのはハードルが高いのかしらと思いながら、皆さんの様子を拝見しております。

 

 

 第63回 今年もお盆のお参りが近づいてきました。(2018.7.17.更新)

 ご門徒の多いお寺様では、もうお盆参りを始めているところもあるかもしれません。また反対にうちではお盆参りはしませんというお寺さんもあります。

 拙寺では、例年㋇の1日からお盆まいりをしています。一軒一軒のご門徒さんを訪ねて歩きます。そして、初盆のお宅は、大体13日から15日にお参りするようにしています。世間では、お盆は、あの世からご先祖様が帰ってくる時のように説明されているようですが、浄土真宗の教えの上からは、ちょっと違います。ましてや、この時にだけ地獄の窯の蓋が開いてその間にご先祖がこの世に帰ってくるのだというような考えはしません。

 生前に阿弥陀様の本願念仏をいただかれた方は、すでに浄土往生の身の上に定まっておるのですから、この世のいのちが尽きると同時に浄土に往生してさとりの仏になるのです。そして、仏様に成ったら、今度は仏さまになったしるしに、迷っている者、すなわち私たちを正しい道に導くために、始終浄土からこの娑婆に還って来て、また浄土に還っていく。その繰り返しを遊ぶがごとき楽しみとしてなさるのです。ですから、お盆の3日間だけかえってくるというような忙しいことはないのです。ましてや、地獄の窯から抜け出してくるなどもってのほかのことです。

 ですから、真宗の教えのうえからは、世間通ずのお盆の考えは当てはまらないのです。それならなぜお盆参りをするのかといえば、その世間の考えをいただいて、その時期に改めて亡き方のご恩を偲び、私たちがその方の導きをいただいて、先だっていった人のまつ浄土へ思いをはせる尊い仏縁にさせていただいているのです。文字通り、亡き方、ご先祖様を縁として、その方々への報恩と感謝の思いを新たにする仏縁を喜ばせていただくのです。それが浄土真宗的なお盆の味わいであり、おつとめの心持ちです。同じようにご先祖への報恩感謝と気持ちでお盆をつとめていても、余宗でいうような先祖供養ではないのですね。私がご先祖にお育てをいただく機会としていただくところが大きく違います。

 

第62回 一緒にお勤めしましょう。(2018.6.21.更新)

 前住職の法事のときには、三部経の中からそれぞれの回忌に応じてお経を読んでおりました。ご法事にお参りした方々は、一時間半くらいの間、じっと前住職の読経をお聴聞されていました。

 私が住職となって法事で変わったことは、お勤めを一緒にするようになったことだと思います。大抵は、お正信偈をいただきますが、阿弥陀経もよくいただきます。それと、本山で出された法事用にアレンジされた聖人のご和讃とお念仏が入った三部経も時々いただきます。

 そうするようにした理由ですが、やはり今日の人にとって、じっと一時間半もお経を聞いているのが苦痛であることが感じられたからです。席を立つ人、後ろでひそひそと雑談を始める人など、読経の間ざわざわするようになったのを私は感じていました。それで、前住職のやり方を改めて、みなさんと一緒にお勤めすることにしました。最初は、聖典を配っても、なかなか一緒に声を出してお勤めしてくださる人はいませんでしが、これも習慣がないことだから仕方がないと、焦ることなく続けていましたら、この頃はそれが当たり前になってきてくれて、法事では住職と一緒にお経を読むものだとなってきてくれました。

 おかけでお通夜の時でも、また葬儀の還骨や初七日のお勤めでも、皆さんがご一緒に読経をしてくれるようになりました。住職といえども、阿弥陀様の前では、お救いに預かるしかない凡夫であります。他の宗派のお坊さんと違いますので、亡き方がくだされた仏としてのお働きを一緒にいただく。これができるのがやはり浄土真宗の有り難いところだと私は感じています。

 前住職は丁寧にお経をあげる法事をつとめました。私は時間は少し短くなりましたが、私はだいたい一時間で終わるようにしていますが、皆さんと一緒にお勤めした後に、法話をしご文章の拝読の後に、領解文をいただき、最後に恩徳讃を歌って終わるようにしています。その後にお焼香をしていだいています。法事を勤行を中心としてミニ法座のようにつとめています。普段お寺の法座に参られない方が、亡き方をご縁としてその御家でご法縁に会い、ともどもに仏徳を讃嘆する、そういうご縁にしたいと念じています。

 

第61回 法事は誰のため (2018.5.24.更新)

 住職としてご門徒さんの法事にお参りして気付くことは、気持ちのいい法事とどうもしっくりこない法事があるということです。同じ法事に気持ちのいいのとそうでないのがあるのは、なぜかをある時考えたことがあります。気持ちのいい法事は、施主さんを中心に家族や親族の皆さんが、故人のことを本当に懐かしみ親しんで集まって勤めているように感じました。今日は亡くなった○○さんの導きでみんなが尊い仏事に合わせていただいたと、皆がその胸のうちに感じている。そんな法事はやはり住職としてお勤めしていて気持ちいいですね。法事にお参りしている人に、お客さん意識があまりないのでしょうね。

 それに対してどうも居心地の悪い、しっくりとこない法事は、施主さんもお参りの方も、しかたなしに勤めているような法事があります。施主さんは、施主として法事をするのは、義務だからする、お参りの方は、案内を受けたから仕方なしに、義理を果たしに来た。こういう感じの漂う法事はやはりどうもお勤めしていても落ち着きません。たぶん、そこには法事をつとめながら、その法事をご用意くださった故人が、不在になっているからではないかと感じています。年忌は故人のご命日を縁としてつとめるのに、そこに故人を偲ぶ思いがないと、やはり故人が結んでくれた尊い仏縁でしたと、自分のために故人がくれた仏事という報恩や感謝の思いがないのでしょうね。そのために法事らしいしめやかや落ち着きがないのかもしれません。

 法事をつとめることは、施主さんも、お参りの方々にも、時間的に、経済的にご負担もあることかもしれません。しかし、そのような負担を負担と思わないで、亡き方が仏様となって自分を導き、正しい教えに合わせてくださる尊いご縁と喜ばせていただく、それが本当に気持ちのよい法事をつとめ、法事に参った心持ちではないかと、私は考えています。

 義務感から仕方なしに法事をする、法事に参る、それは決して見上げた心もちとはいえませんが、しかし、それでもしないよりははるかにましです。そしてそもそもそのような気持ちであっても、そのような私たちに法事をつとめさせてくださったその働きこそ、故人の大きなご催促なのだといただくこともできるのだと私は感じています。

 

第60回 法名と戒名(2018.4.19.更新)

 テレビのドラマなどでは盛んに戒名という言葉がつかわれるせいか、ご門徒さんの中には、それにつられて戒名をつけていただきたいと、故人が生前に帰敬式を受けられていないとわかると、そうご依頼をいただくことがあります。

 帰敬式とは、生前に仏様の佛弟子になったしるしに法名を授かる儀式で、毎日ご本山では午前・午後の二回行っています。それでは、戒名と法名はどう違うのかということですが、基本的にはどちらも仏弟子となったしるしにいただく名前です。ただ、大きな違いがあります。戒名は、自分の力で修行を成し遂げて、この身この世でさとりを開く佛道の方が用いる名前です。修行のはかをあげるためには、心と生活を整えることが求められますが、そのために定められた生活の規則・規律が戒律です。その戒律を守って悟りを開く仏道を歩むお弟子なので、戒名というのです。

 それに対して私たちは法名をいただくといいます。私たちは末法という法の廃った時代に生きている者で、この時代には自分の力で悟りを開くことは不可能な時代であると教えられています。その末法の時代に、悟りを開くことのできる唯一の仏道が、阿弥陀様の本願力という仏力にまかせて浄土に往生して仏になるという他力の教えです。それで私たちはもとより戒律のない時代にいきておりますので、戒律を守ってさとりをひらくわけではありませんので、戒名という言葉は用いず、阿弥陀様の他力の救いをお説き遊ばされたお釈迦様のお勧めに素直に信順する仏弟子として、お釈迦様の釈迦の釈の一字をいただいて、釋〇〇という二字の法名をいただくのです。

 法名は死んでからいただくものではありません。生きている今、阿弥陀様の教えをよりどころとして生きる仏弟子の証にいただくものですので、ご本山を参拝したときには、帰敬式を受けて法名をいただことをお勧めいたします。

 ちなみに私の法名は釋幸佛です。

 

第59回 お彼岸はお墓参りの期間ではありません (2018.3.14.更新)

 もうじき春の彼岸の時期ですが、ご門徒さんの中には、お彼岸は亡きご先祖様のご恩を偲んでお墓参りをする期間であると思っている方が少なくありません。もちろんお墓参りをして少しも悪くはないのですが、お彼岸はそのためだけに一週間の期間を設けてあるのではありません。

 でも、今日ではテレビのニュースなどでもお彼岸というと、かならず全国各地での墓参りの様子を映し出しますので、お彼岸とはすなわち墓参りの日と考えられても無理はありません。また、考えようによっては、日頃亡き父や母、ご先祖方のご恩を忘れて生きている現代人がせめて春と秋の二回だけでも、お墓に参って亡き方のご恩に思いをめぐらせて手を合わせるのは悪いことではないとは思います。

 お彼岸は彼の岸辺と書きますから、これは私たちの住むこちらの世界から仰ぎ見た世界のことです。私たちの世界は私たち自身の煩悩に汚されて苦しみ多い迷いの世界ですので、これを穢土とも娑婆ともいいます。それに対して、こちら岸辺から仰ぎ見る世界は、そのような穢土で苦悩する私たちが心のそこから願った安穏の世界です。それは、私たちの願いをわが願いとして建立してくださった真実に安らげる清らかな世界、悟りの世界です。これを浄土というのです。テレビのニュースではほとんど耳にしませんが、お彼岸とは、お浄土のことです。

 お彼岸は先だって阿弥陀様のお浄土に往生された懐かしい方々を縁として、私自身が浄土往生の身の上になるための仏道修行の期間としてあるのです。この修行を六波羅蜜といいます。ただ、浄土真宗の仏道は、自分が六波羅蜜の修行をすのではなくて、そのような修行によく耐えることのできない私たちのために如来様が差し向けてくだされたお救いのはたらきに身を任せるひとつですので、その身をまかせるとは、如来さまのお心をいただく信心ひとつの救いということになります。ですから、浄土真宗の彼岸は、そのお慈悲をお聞かせいただく聴聞の機会としていただきます。

 お彼岸は亡き方のご恩を偲ぶと同時に、仏となられたご先祖様に導かれ、必ずお浄土に帰っておいでよという願いを私自身が聞かせていただき、そのご先祖の願いにこたえて、報恩としていく仏事が浄土真宗の彼岸の過ごし方になるのですね。

 

第58回 お骨の縄張り争い (2018.2.12.更新)

 お寺にいて、時々受ける質問の一つに、お骨のことがあります。家を出て、独身の兄弟が亡くなったが、自分の家の墓に納めていいかどうかとか、結婚して家を出たが、その後に離婚して暮らしていた娘が事故で亡くったが、結婚して姓が変わってしまったので、家の墓にはいれてあげられないが、どうしたらいいか、などです。中には、仲の悪かったお母さんが亡くなった後に、息子さんが、わしは、あの墓には入りたくないといったこも聞いたことがあります。

 浄土真宗の教えからいえば、まったく心配する必要のない悩みですが、みなさんにとっては、一大事のようです。ですが、これこそ迷信です。まるでなくなった後まで、お骨の縄張り争いをしているようです。きっとこのような考えがでてくるというのも、人は死んだら骨になって生き続けているとでも思っているからなのでしょうね。それで、家を出たものはだめとか、離婚して姓がかわったらいけないとか、仲の悪いものが同じ墓に入るのをいやがるとかの問題が起るのでしょうね。 

 私たちは、死んだら骨になるのではありません。この肉体は物質ですから、火葬されれば、骨と灰が残るだけです。しかし、この肉体にやどったいのちそのものは、死によって終わることはありません。私たちのいのちは、自分の業によって新たないのちの世界に生まれていくのです。お念仏をいただく私たちは、阿弥陀様の本願力によって真実清浄なる浄土に往生して仏になるのですから、後にのこったお骨は、この娑婆にありしときの人間のいのちの残りえにしとでもいうものです。ですから、お骨が原因で何か不幸をもたらすというような考えは、もとより迷いであり、迷信でしかありません。さまざまないきさつがあって家を離れた人であろうと、生前にどんなに仲が悪かろうと、そんなことはなにも気になさらずに、お墓にお納めしてあげたらいいのです。何の問題もありません。

 

 第57回 中陰中の灯明は (2018.1.27.更新)

 あるお寺でのご縁の折に、お同行の方に受けたお尋ねがあります。それは中陰中は、灯明を決して消してはならないのですか、というのです。私は最初意味がよくわかりませんでしたので、改めてどういう意味の質問なのか聞き返しましたら、なんでもその人は親戚のおばさんから、中陰の間は、灯明とお香を欠かしてはならないと聞いたというのです。それで、その理由は、灯明が消えてしまうと、故人が迷ってしまうというのだそうです。

 私はこれは迷信だなとすぐに思いましたが、ひょっとしてよその宗派では、そんな行儀があるのかしらと思って、その方に宗旨をきいてみました。すると浄土真宗だとのこと、それならと思って、私ははっきりそれは私どもでは言わないことですと申しました。

 そもそも、お念仏の人はこの世の命終わったときに往生即成仏させていただくのです。満中陰をまって、後生が決まるというご法義ではありません。まして、往生即成仏の仏果をいただく因は、灯明のあるなしではありません。どこまでも阿弥陀様のお救いにまかせる他力の信心ひとつが正因です。

 それにお灯明もお香も阿弥陀様の智慧と慈悲をしのぶよすがとしてお供えするもので、故人の遺骨を荘厳して用いているわけではありません。それですから、中陰の間四六時中灯明をともしつづけたり、お香を焚き続ける必要はありません。勤行の折に、灯明をともし、お香をたいて、終われば消してもらって差し支えありません。そう申しましたら、その方はそれで安心しました。そうでないと、もしわが家で中陰をつとめる時には、夜寝ずの番をしなくてはなりませんと、おっしゃって笑っていました。

 ただ、お灯明は息をふきかけて消すことはしないでくださいねと、私は付け加えてお話を終わりました。

 

第56回 満中陰(49日)の後のこと (2017.12.26.更新)

 満中陰を区切りに納骨をいたしますが、その後のことについて少し気になっていることがあります。

 まず、納骨は絶対に満中陰の日でなくてはならないということはありません。そもそもお墓のない方もありますし、ご遺族の気持ちの整理のこともありますが、ただ一年以上も放置しておくというのは好ましくありません。お骨を納めるところがない場合には、お手次のお寺さんにご相談されるとよいと思います。今は宝林寺にも納骨堂ができましたので、納骨壇をお求めにならない時には、地下の合同墓に納めることを勧めていますが、以前はご本山の大谷本廟への納骨を勧めていました。納骨の時期は、何かの節目、それが満中陰ではあるのですが、をえらんでされるとよいでしょう。日の善し悪しはありませんから、ご住職の都合を聞いて日を決めるとよいと思います。   

 納骨が済みましたら、中陰壇は撤去します。拙寺では、白木の位牌は、納骨のときにお墓にもっていき、しばらく置いておいて朽ちてきたら、焼却処分するようにお話しています。ただ、ご門徒さんの中には、位牌を焼く事にためらいがあるようで、お寺で処分をまかされることもあります。白木の位牌は、亡き方ではありません。焼いたから、罰が当たるとか、何か悪いことが降りかかるというような心配は全く無用です。

 またご遺影は、仏壇の上に飾るのは、避けます。仏壇のおかれた位置にもよりますが、普通は仏壇に近いほうの出入り口の壁に掛けるのがいいように思います。

 それと、これは決まりではありませんが、お骨の一部を分骨して、京都の大谷本廟に納めるのも、京都参りの大義ができ、宗祖親鸞聖人とご本山が近しく感じられるので、一度考えてみてはどうでしょうか。宝林寺では、前住職の時に大谷本廟の納骨壇に加入したので、ほぼ毎年分骨を納めるために京都に参りますが、その時にご門徒さんの多くが帰敬式を受けてくださり、愛山護法のよい機会となっています。前住はよい習慣を残してくれたと私は感謝しています。

   

 第55回 中陰のお勤めはお仏壇の前でします。(2017.11.22.更新)

   お葬式が済んでからは、満中陰までは中陰の法要をお勤めします。今ごろはお葬式の日に還骨の勤行が終わると、合わせて初七日のお勤めまでお願いしますと、いわれるのが当たり前になりました。すぐに一週間がたつからでしょうか。参詣の方への配慮からかもしれませんが、最近はほとんど初七日の中陰法要を葬式の日に勤めるようになりました。そして、七日七日のお勤めが始まります。

 だいたい私のお寺のご門徒様はお仏壇をもっていらっしゃるので、お仏壇の横に業者の方が簡易の中陰壇をこさえてくれます。そして、満中陰の納骨までの間は、その中陰壇の上にお骨や野位牌が安置されます。また、そこには蝋燭や香炉などもおいてありますので、みなさんはそこで手を合わせているようです。ですから、私が中陰の法要で、お勤めをするときに、仏壇のまえに座ってお勤めしますと、あれれといった顔をなさったりします。

 よその宗派では、中陰は亡くなった方に追善供養にお経を読んでその功徳を廻向して少しでもよいところに生まれてくれますようと願ってお勤めするのが普通のようです。それであれば、やはりお骨を安置してある中陰壇の前でのお勤めとなるのかもしれません。

 しかし、これまでも何度も書いてまいりましたが、浄土真宗のお救いは、満中陰を待つまで、つぎの生が何になるかわからないということはありません。生きているときに、阿弥陀様のお心にまかせて、お念仏ひとつと信心がさだまれば、もうそのときに浄土に生まれて仏になる身にさだまりつくのですから、この世の命が尽きたらその時すぐに浄土往生即成仏です。もう仏さまになられているのです。ですから、経を読んであげて功徳を振り向ける必要はないのです。

 それならなぜ中陰の法要をするのか、必要ないではないかという疑問があると思います。教えの筋から言えば、中陰も満中陰も取り立てて意味のあるものではありません。ただ、私たちは、この法要を、仏様になられた故人がくださった大切なご縁といただいて勤めます。亡き方が仏様になった印に、この娑婆で迷う私たちを真実の浄土に導いてくださっていると味わいます。いわば、仏様からの功徳の廻向を受けてるのです。余宗とは反対ですね。それですから、そのご恩徳を偲び、報恩のまことを捧げるためにご本尊の阿弥陀様の前で、つまりお仏壇の前に座って仏徳讃嘆にお経を読み、報恩感謝の称名念仏をもって故人のご恩を偲ぶのです。

 故人はお骨になって中陰壇の骨壺のなかにじっとしているわけではありません。お浄土に往生して仏になったのですから、そのお浄土の阿弥陀様のましますお仏壇の前でおつとめいたします。

 

 第54回 「死」は悪いこと?(2017.10.19.更新)

 「死」は悪いことなのか?なんか変なタイトルですが、今もときどきお葬式の会葬御礼の品に清め塩などが入っていることがあります。「死」を穢れとみる感じは、まだまだ根強く残っているのを感じます。

 それぞれの宗教によって、死の受け止めかたは違うかもしれませんが、仏教では、死を悪いとはいいません。生まれたからには死ぬ。それは単純な因果でありまさに自然なことなのです。ただ、そのことを死にゆく当人が、苦とし、その人に関わる周囲の人々が受け入れられないと、それが愛別離苦という苦しみとなります。その苦があるので、死は善いことではなくて、悪なのだと、こういわれるのかもしれません。そのために死を忌み嫌い、死にまつわること、場合によっては、死んだ人に対しても、冷たい仕打ちがなされることがあります。たとえばそのひとが生前に用いていた茶碗を割ってしまったり、お棺の蓋を釘で打ち付けて開けられないようにするなど。もうこちらに帰ってきてはだめですよということです。やはりこれらの風習は、死を忌み、死を遠ざけていたいという思いがあるのでしょうね。その限りでは、死は悪いことなのでしょう。

 けれども、浄土真宗にとっては、死は当人にとって死苦であり、周囲の人たちにとって、大切な人との別れは悲しみであり、苦しみではありますが、死そのものは、悪とはいいませんし、穢れと忌避することもありません。お念仏の人にとって、死は晴れて阿弥陀様の浄土に往生を果たすことのできる喜びの日であります。そして、その浄土に往生することはそのまま仏としてのさとりを開かせていただける最もめでたいできごとでもあるのです。そして、ひとたび仏になったら、今度は死におびえ、死に悲しみ、死を悪といって忌避している迷い心をもつ人々を仏さまの教えに導くこのができるのです。ですから、死は悪いどころか、まさに人間に生まれた本懐を遂げさせていただく尊いご縁であるのです。ただ、私たちは、凡夫の情として、やはり死ぬのは怖いし、まだ見たことのない浄土にいくより、長年すみくらしてきたこの娑婆にいたいのですね。まして、頭でわかっていても、やはり大事な人と死に別れることはつらくてやれない気持ちを無くすこともできません。

 阿弥陀様はそれらすべての私たちの心持ちを承知した上で、摂取して捨てずと、永遠のいのちを与え、また会える世界としての浄土をご用意してくださっているのです。

 死は寂しいことだけれど、悪いことではありません。

 

 第53回 お勤めはお仏壇の前で (2017.9.22.更新)

   ちょっと意味不明なタイトルになりましたが、これは臨終の勤行のことです。普段のお勤めをお仏壇の前でするのは、当たり前のこととして理解しているご門徒さんでも、私たちが臨終の勤行にお参りしたときに、ご遺体の前ではなく、お仏壇の前に座ってお勤めすると、時々怪訝な顔をされることがあります。たぶん、ご遺体のまえに三具足がそなえらているので、当然ご遺体の前でご遺体に向かってお勤めすると考えていらっしゃるのでしょうね。

 宗派によっては、臨終にお坊さんに来てもらいお経をあげてもらうのは、亡くなった方への追善供養のためだと教えていらっしゃるところもあるようです。それで、そのような考え方で浄土真宗の臨終も同じように考えたのかもしれません。しかし、これは全く違うのですね。前にも述べたと思いますが、このお勤めは、まだご本人が往生なさる前に、つまり臨終のときに、一生お育てをいただいた阿弥陀如来様に対してお礼の仏徳讃嘆のお勤めをしているのです。今では、生前にする例はほとんどなくなりましたが、その方の代わりとなってお手次のご住職をお招きして、如来さまにお礼をするのです。ですから、浄土真宗では、当然のことお仏壇の前で、お経を読ませていただきます。

 私のお寺のご門徒では、今まで経験したことはないのですが、いつだっかよそのご住職様から、臨終のときにお仏壇をしめる者がおると、嘆いていられたのを聞いたことがあります。

 臨終は悲しみではありますが、またその方がようやくに迷いの世界から悟りの世界の浄土へ往生しさとりの仏となられた尊い時でもあります。まさに往生の素懐を遂げられたのですが、悲しみ一辺倒ではありません。亡き方の往生を阿弥陀さまに感謝し、お礼すると同時に、仏となって早速に私たちに仏縁をつけてくださるのですから、その意味でも感謝のおもいをもって如来さまを拝み、お念仏してそのご恩に報いていくのが、浄土真宗の臨終勤行です。


第1回 お仏壇は人が死んだら迎えるの? (2014.11.2.)

  昔ある人からお仏壇を迎えると死者がでるといわれたことがありますが、これは迷信です。そもそもお仏壇を迎えようと迎えまいと人は生まれたからには死ぬのですから。

 ですが、一般の方の理解は、やはりお仏壇は死者や先祖をおまつりするところと思われているようです。たしかにそう言って話す宗派もあるようですが、浄土真宗のお仏壇は文字通りご本尊である阿弥陀仏様をご安置する壇のことです。

 些細なことで悩み、自分を忘れがちな日日の暮らしの中で、しっかりと私たちを支えて、なにがあっても捨てないと見守り抱いてくださる仏様が阿弥陀様です。その阿弥陀様がまします壇がお仏壇です。浄土真宗のお仏壇はそのような仏様をわが家にお迎えして心のよりどころとなっていただくためにお迎えするものです。

 毎日忙しい忙しいと言いながら、こころを滅ぼして生きている私たちが、阿弥陀様の前に一日一度でも座って手を合わせてお念仏するときに、生かされていた、願われていたと、そのことを忘れて一日生きていたなと、反省し自分に帰る場所がお仏壇です。

 ですから、お仏壇は、誰も死ななくても、浄土真宗の教えに帰依したら、その帰依の対象たる阿弥陀仏様をいつでもお迎えして、私自身の、家族みんなの精神的支柱になっていただくためにお迎えするものです。

 もちろんお仏壇の前にすわって阿弥陀様のお浄土をしのび、先立って往生した懐かしい父母をしのび、その恩を念ずることも大切なことです。(次回は11月15日頃に更新します)