尊敬を失ったお坊さん  ① (2014.10.25.更新)

  私自身、僧侶になる前は、仏教の教えやお寺というものは、もう現代には必要のない過去の遺物だと思っていました。したがってそこに住まいする住職といわれるお坊さんも、今を生きる自分にとっては何の関係も、影響もない人であると考えていました。仏教というものは、人が死ぬために葬式という儀式をするために必要なのであって、しかたなしに存在しているものであると認識していました。ですから、とりたてて僧侶というものに関心をもつことも、ことさらな尊敬の念を抱くということも皆無でした。要するに僧侶なるものは、私にとって全く関係のない人でした。

 僧侶になった私にして、そのような感じで仏教やお寺やお坊さんを見ていたのですから、おそらく普通一般の人もだいたいそんな感じで見ているのではないでしょうか。

 一口で言って、今日では僧侶というものは、一般の人の尊敬をすっかり失ってしまったのではないかという気がしています。それはななぜかということです。思いますのは、まずお坊さんの姿を普段の生活の中で見ることが少ないですね。僧侶というと、葬式の時にだけご用のある存在で、現在を生きている私たちに対して、あまりお役に立つところを見せていないように思います。平たく言って、人様や社会のために汗を流す姿を見せることがなくなったのではないかと思います。そうしてむしろ社会における富裕層の仲間入りをしているのではないでしょうか。大きな庫裏という家に住み、自動車も何台も所有していて、一般の人の暮らしぶりからすると、だいぶ贅沢に生活しているのではないでしょうか。私自身、そう感じることがあります。お坊さんが、一般のご門徒さんよりも豊かになり、贅沢な暮らしをするようになったら、貧しい人たちの気持ちを理解することもできないでしょうし、もとよりそのような貧しい暮らし向きの方々にとっては、お坊さんに対しての敬愛の心を起こすことは難しいのではないでしょうか。



尊敬を失ったお坊さん ② (2014.11.1.更新)

    それと、お坊さんが人々のために汗を流している姿というのも、見ることが少ないように思います。むしろ、苦しみ、困っている人のために一生懸命やっているのは、一般の方々のように思います。いわゆるボランティアの活動というのでしょうか。NGOというような活動で広い意味での社会活動に精を出しているのは、お坊さんより一般の方のほうが熱心なのではないでしょうか。もちろんお坊さんの中には、そういうことに本気で取り組んで方もたくさんありますし、教団として取り組んでいる宗派もあるようです。しかし、全体としてみると、やはりそのような社会奉仕活動に精を出しているお坊さんは少ないのではないかと思います。大抵はお寺にこもって、本堂や境内地を掃除をし、法事とお葬式、それにお寺の年間の法要などをこなすのに精一杯というのが現実ではないかと思います。その限りでは、門徒さんには顔が見えても、一般の方々には、その姿が見えないものになっているように感じます。それで結局皆さんの前にその姿を現すのは、いきおいお葬式と法事の時くらいになって、結果、お寺やお坊さんは、生きている私たちのためには何もしてくれない、その教えは葬式仏教だという、情けない烙印を押されてしまうようなことになっているのだと、こう思います。

 とにかくこうしてお坊さんは一般の人からの尊敬を失ってしまい、そのお坊さんが説く仏教の教えまでも、なにか胡散くさい話のように思われるようになってしまった。まことにお坊さんは罪が深いと思います。