浄土真宗の僧侶のあるべきようは ① (2014.11.30.更新)

  それはどういうことか、ということですが、まず浄土真宗のお坊さんは、自分が人を救えるなどは考えないのです。迷える衆生を救うなんてことは、自分さえ、よく救えないこの自分には、とてもそんな大それたことはできないと最初からそういう考えをもたないのですね。

 しかし、それでは苦しむ衆生を救うという慈悲行をこそ菩薩の使命としている、それを否定してしまうことになるのではないかと思われるかもしれません。浄土真宗の僧侶は、それを否定しているのではないのです。それは、私の仕事ではなくて、阿弥陀様の仕事なんだといただくのです。ですから、人を救うのは阿弥陀様の仕事だから、自分は人を救うなんてことは考えない。しかし、こんな愚かな自分でも阿弥陀様はお救いくださるのだから、どうかあなたも阿弥陀様におまかせして、この人生苦から解脱させてもらいなさいと、その阿弥陀如来様のお救いの法を皆さんに勧めていく。これが私たちにできるたった一つの末通った慈悲の行であるといただきます。私にはあなたを救えるような力はありません。なんとなれば、この自分ですらよく救えないような愚かな私が、どうして他の人々を救えましょうか。しかし、有難いことには、こんな愚かな私であっても、いえ、このような愚かな私であったればこそ、必ず救い遂げると誓い、現にその誓いを成就された仏様がおられます。それが智慧と慈悲の限りない仏の阿弥陀様です。その仏様は、こんな私であっても救ってくださるお慈悲の仏様ですから、どうぞあなたも、もし何を信じていいのか、何を頼ったらいいのか、わからないで迷っているのであったら、私と一緒に阿弥陀様のお慈悲にお任せいたしましょう。その仏様のお徳を誉め讃えて、一人でも多くの人にこの仏様のお救いのご縁にあっていただくように努めること、これが浄土真宗のお坊さんが、人を救うためにする伝道のすべてなのですね。

 

浄土真宗の僧侶のあるべきようは ② (2014.12.6.更新) 

  ですから、浄土真宗の僧侶のすべきことは、とにかく一人でも多くの人にお寺に参っていただき、阿弥陀様のお慈悲にあっていただく、そのためのご縁を結んでいくことに腐心することになります。その中で、常にお寺が皆さんにとってお参りしやすく、そしてお聴聞しやすい環境であるようにと心を配ったり、法座の案内を作ったり、ポスターを貼ったり、有線放送で法座の開催をお知らせしたり、寺の新聞を作ったりと、様々な地道な活動をするのです。

 もちろんその間には、お葬式や法事がありますが、その時でも、自分が皆さんを救おうというのではないのです。亡くなられてお浄土に往生され、仏様になられた方のお徳をいただきながら、その仏様のお導きでこのようなご法縁に遇わせていただいたことを、皆さんと一緒に喜び、このような愚かな私たちを必ず浄土に往生せしめて仏にしてくださるという阿弥陀様の尊いご本願があったればこそと、そのおおもとにいらっしゃる阿弥陀様の功徳を一緒になってお経を読んでほめ讃えていく。やはりここでも私たちは、すごい仏様ですね、この仏様におまかせしていくのが一番ですと、お念仏を勧めるのです。その限りでは、浄土真宗の伝道は、徹頭徹尾、ご讃嘆なんです。

 仏様のお徳を誉め讃えて、それを伝えて、ひとりでも多くの人に如来様のお救いに遇うご縁を結んでいただく。その誉め讃える行いの一番が何かというと、それが称名念仏、お念仏を称えることになるのです。ですから、普段真宗のお坊さんは何をしているのかというと、お念仏を称えているのです。

 

浄土真宗の僧侶のあるべきようは ③ (2014.12.11.更新)

   こういう自分で人を救うことを放棄して、自分が救ってもらった仏様を一筋に讃嘆して、その仏様に救ってもらうようにしむけるという真宗のお坊さんのあり方は、直接に人を助けることをしませんので、やはり何か手ぬるいというか、自分だけ苦労しない、まさに汗をかかない、そういう自分だけがきれないところにいるようにも見えると思うのですね。それで、いよいよ真宗のお坊さんは何をしているんだということになるのだと思うのです。

 私が救うのだ、助けてやるのだと懸命になっているお坊さんと、私にはそんな力はないけれども、こんな非力でたよりない愚かな私であっても救ってくださる仏様がおいでだから、その仏様に任せたらいいのだと、助けてくださる仏を懸命に勧めるお坊さん。目的は同じなのです。苦しみ悩む人を救う。仏にすることです。

 やはりはた目に見ると、自分で人を救おうと汗を流している人のほうが立派であるように見えるのではないでしょうか。自分ではとても人を救うなんて、そんな立派なことはできません。だから、そのような立派なことは何もしないで、ただ仏力を勧めることに僧侶としてのすべての努力を傾ける。直接的な汗かきがない分、どこかきれいづくのような感じが離れないのではないでしょうか。ここが一番、真宗僧侶の誤解される点ではないかと思うのです。