真宗僧侶のあるべきようは


 もともとお寺に生まれたわけでもない私が、縁あって浄土真宗の僧侶になりました。さて、真宗のお坊さんとしてどうあるべきなのか。このことが自分の腹にしっかりと据わって迷いがなくなるまでには、だいぶ時間がかかりました。

 もとよりお坊さんになった以上は、修行してさとりを開くのがその主たるつとめであることはわかっていました。ですが、自分がいただいた教えはそのような修行のかなわない者をこそ救うと誓われた阿弥陀仏のお救いに身をまかせる信心ひとつで、浄土に往生させていただき、かの土において仏のさとりをひらかせていただけるという他力の法です。そうであれば禅宗のお坊さんのように、座禅によって精神集中してさとりをめざすということは、そもそも必要のない修行ということになります。いや、一歩を進めて言えば、阿弥陀様の方で、自分の修行ではさとりを開くことのできない私と見抜かれた上での他力のお救いの法です。それを知っていながら自力の修行をするならば、それは阿弥陀様のお心を疑い、そのお救いを信じていないことになります。ですから、修行はする必要がないだけでなくて、してはいけないものになります。

 そうであれば、真宗のお坊さんは何をもってご門徒の前に僧侶としての面目を示すのか。いったいどうあることが、真宗のお坊さんのあるべき姿なのか。普通にいわれる修行して悟った立派な僧侶像は、根底から否定されています。さりとて一応僧侶である以上は、在家のご門徒様とは何かしら違う、何がしかの僧侶らしさがなくてはならないのではないか。その浄土真宗のお坊さんのあるべきようとは何なのか。これが私にはなかなかわかりませんでした。  (2014.9.10.)