第5回 「世の中にはどうしてさまざまな宗教が存在するのか。ゆきつくところはみな同じではないのか。」(2014.11.1.更新)

<素朴な疑問>    

 今回いただいたご質問は、もっともな疑問であると思いました。実は私も以前にこのことを不思議に思い、考えてみたことがあります。

 今回は特に仏教について考えみたいと思います。同じ仏教といいながら、奈良仏教の三論宗や華厳宗、法相宗があり、平安仏教の天台宗・真言宗があります。また鎌倉仏教には、新仏教といわれた浄土宗、浄土真宗、禅の曹洞宗や臨済宗もあり、また題目の日蓮宗もあります。同じ仏の真理を仰ぎながら、このようにいくつもの宗派が興ったというのは不思議なことであります。

<お釈迦様の説法>

 その理由の一つは、対機説法といわれるお釈迦様の法の説き方にありました。これはどういうことかというと、要するに一人ひとりの性格や気性、能力に応じて法を説かれたために、八万四千という膨大な数の経典が後に残されることになったのだといわれています。それがために、後世にいくつもの宗派が興る素地が作られました。

それと、二つ目の理由としては、仏教の真理が数学や物理学の公式のように固定した真理としてあるのではなく、生きた人間のその生死の上で現実に働く血の通った真理としてあるということです。これは、どういうことかというと、それぞれの時代相と、そこに生きる人間の機に応じて真理としての法が自由自在に形を変えて働くということです。

<仏教の真理>

 しかし、本来真理というものは、時代とか場所とかに関係なく働くから真理というのではないか、絶対的なものであるからこそ真理というのではないか、そういう疑問が起こりそうです。しかし、前述したこどく、仏教の真理は科学的な真理としてあるのではなく、生きた人間の苦悩を滅して覚醒させるという働きの上に見出されるものです。ですから、その衆生救済というお釈迦様の説かれた真理の根幹は、お釈迦様の時代からいささかも揺らぐことなく、時代と機(私たちのこと)に相応した教えに形をかえて今日の私たちにまで伝えられ、働いているのです。むしろそういう自由自在に形をかえて働くところにこそ、仏教の真理の面目があるというべきでしょう。

<波間に映る月>

  先に挙げた日本の仏教の各宗派も、実はそれぞれの宗派の宗祖方が八万四千といわれる広大な法蔵の中から、それぞれの時代の相と、その時代を生きる衆生の機にもっとも相応しいものを選びとってきたところに一宗が建てられたのです。同じ仏法を仰ぎながら、それぞれ

の祖師方の機と、その生きられた時代の相に応じて働いたからだといえるでしょう。それは、ちょうど闇夜を照らす月(真理としての法)はひとつであっても、波間に映る月影が一つひとつ形を変えて宿るようなものです。しかし、波間に映る千差万別の月影からひとたび夜空に目を転じてみれば、そこには曇りなく輝きわたるただ一つの月があるのです。ですから、仏教にいくつも宗派があっても、それは、もとをたどってゆけば同じ法に行き着くのです。

<「選び」ということ>

  それでは、行き着くところは、一緒なのだから仏教だったら何を信じても構わないか、そういわれると、やはり、簡単にそうだとは肯定できません。というのは、それぞれの宗派はそれぞれの衆生の機に応じて、その宗祖方が選びとられたものだからです。やはり自分の機と時代の相に応じた宗派・教えを選ぶことが肝要です。