自力聖道門の僧侶像と他力浄土門の僧侶像


 仏教の目的は、さとりを開いて生死解脱をすることにありますが、その方法については、自ら心身を鍛錬して、自らの力で、この世でさとりを開くことを目指す自力聖道門の仏道と、私たちにはそのような自力の行では、とてもさとりを開くことなどかなわないことを私自身が気がつくより先に、そのことをお見抜きになった仏さまが、そのままを救いとって、命終わった後に彼の土である浄土に往生せしめて仏にしてくださる他力の本願力による他力浄土門の仏道がある。

 私が歩んでいる仏道は、後のほうの他力の道です。この仏道における僧侶のあり方に悩んだわけです。つまり、自力の道であれば、文字通り真剣に自分が努力して、さとりを開こうと求めるわけですから、そこにはおのずから厳しい修行と、自己を律していく持戒的な生活が伴うのですね。そして、それがそのまま先に述べた理想的な僧侶像、一般世間の人々の求めている僧侶像とも重なりますので、真面目に求道することがそのまま立派な僧侶としての世間の評価にもつながり、人々の敬意を受けることもできる。だから、そこに悩みもなく、迷いも生じないのです。(さとりを得られるかどうかは別として、仏道としての求道の過程に僧侶のあるべき理想像と合致しています。)                                     (2014.10.5.更新)

自力聖道門の僧侶像と他力浄土門の僧侶像 ②

 それに対して、他力浄土門のお坊さんには、いわゆるさとりを開くためにする自力の行道がありません。その限りでは、最初から、一般の人たちに尊敬されるような僧侶像や僧侶の理想的あり方が否定されているのが、浄土門のお坊さんなのです。

 さとりを開くための行、いわゆる修行なるものがないお坊さんの世界において、浄土真宗の僧侶は何をするのか、何をもってご門徒の皆さんの信頼と尊敬を勝ち得るのか、いかなるところに真宗僧侶のあるべき姿があるのだろうかと、私はお坊さんになった直後から真剣にこのことに悩んだのでした。

 実際、世間でいう、いわゆる仏道修行というものがありません。よく「お寺さんは、厳しい修行があって大変ですね」などといわれたりしますと、返事に窮してしまいます。「そういう修行はないのです」と答えますと、「そんなことはないでしょう」と、真面目にとりあってくれません。世間の人にとって、お坊さんと修行は切っても切れないものであって、修行をしないお坊さんなんて考えられない。いやいや、そもそも修行をしないお坊さんなん

てお坊さんの名に値しないと、思われてるのではないでしょうか。(2014.10.12.更新)

自力聖道門の僧侶像と他力浄土門の僧侶像 ③ 

 

 いわゆるさとりを開くための修行がないのですから、生活はまことに普通の家庭の生活と何ら変わるところがありません。お寺に居るからお坊さんなんだろうと思われているだけで、住んでいる家が普通の家であってもなんら差し支えのない暮らしぶりです。車に乗り、エアコンのある部屋に住み、酒を飲み、刺身を食べ、タバコをのみ、ゴルフをして、いったいその生活のどこにお坊さんらしさがあるのかしらと、改めて考えてみますと、せいぜい朝夕に本堂でお勤め(お経をあげる)することくらいでしょうか。もちろん、本堂や境内地の掃除などもしますが、掃除は、どこの家でもなさるでしょうから、僧侶の特別の仕事ということはありません。そうでありましたら、浄土真宗の僧侶はいかなるありかたをして、僧侶たることを示すのか、何が浄土真宗の僧侶を僧侶たらしめることになるのでしょうか。実際修行をしないお坊さんのどこにお坊さんらしさがあるのか。修行しないようなお坊さんを世間の皆さんが尊敬してくださるものかどうか、随分と私は考えこんでしまいました。

(2014.10.18.更新)