「親様の呼び声」

 晦日の今日、やっとお荘厳が整い、除夜会の準備もできました。明日は皆さんのお越しを待ちながらおせち料理を作ります

 

 予定していた仏様の餅つきが急遽変更になりましたが、何とかつくことができました。年末の23日に母が入院、28日に手術を受けました。今年1月に骨折した大腿骨の手術です。市川家の今年は母の手術に始まり手術で終わりそうです。

 

 一度術後の痛みを乗り越え、やっと杖で歩けるようになり、家の中ではその杖にも頼らないで歩こうとしていた矢先の事です。母以上に私の方が落胆してしまいました。

でも、この痛みを除くには再度手術するしかありません。コロナで大変な時受け入れて下さる病院が見つかったのも幸いでした。今回は4時間の手術プラス麻酔科ら目覚めるまで6時間くらいのものでした。87歳の母の体が耐えられるか、一番の心配はそこでした。

 でも、先生が終わったことを告げに来て下さったときは安堵で力が抜けそうなくらいでした。

 まだ麻酔から覚めやらない時、私の名を呼び「お家へ帰ろう」と言いました。私は「お婆ちゃん(母に対してこう呼んでいます)帰ろうね」と大きな声で言うと、母は安心したように私の名を呼び続けました。

 

 ありがとうという代わりに名を呼んでくれたのです。

お念仏は仏様のお名前を、念仏を称えることで有り難うと仏様のご恩に報いていることが、なんとなく体感できたできごとでした。いつの時も母は私の善知識様です。(12.30)

 

「 師走のお寺 」

 今年もあと一週間足らずとなりました。昨日の雪がうそのような晴天、この間に買い物をして、除夜会やお正月の準備です。

 

 明日住職のお取り越し参りを終えると、報恩講のお参りが概ね終わります。

今年はウイズコロナに伴い、これまで中止の報恩講様が各お寺様で勤められました。住職のお説教で寺を空けることが多かった12月は、私が法事を勤めさせて頂きました。

 私は住職のようにお話が上手にできません。ですからせめて大きな声で、皆さんに届くように読経することを心がけています。

普段の私は、省エネ…ぼそぼそと話しているようです。母からも何度も聞き返されます。

 そんな私ですから、特別大きな声で、お腹からMaxの状態で声を出します。勤め終わった日はとても疲れます。

 

 ある日の法事でのこと、Tさんのご尊父様のご法事に沢山の親戚の方が見えました。二間続きの昔ながらの仏間です。

 終わって帰ろうとしたら、顔見知りの方のお顔が…ご近所のIさんです。Iさんは宝林寺の門徒ではありませんが、いつも親しくお声を掛けて頂いています。

「今日のお勤めは大きい声で良く聞こえて、有難かった」と喜んでくださいました。

 すこしでも仏様のお役に立てたのかな?この日の私はルンルン気分でした。(12.24)

 

 

「法事の話」

 今年は堰を切ったようにお寺の法座が開かれ、多忙な12月でした。住職は以前からのお約束で法座に出講でお寺を空けることが多く、その間の法務は私が勤めさせていただきました。

 

 法事のお勤めの後、簡単な法話をします。御門徒さんは優しいのでわかりづらかったり、退屈な話でも一生懸命聞いて下さいます。

 

 Nさんのお尊父様の17回忌の法事の時でした。いつものように勤行の後、短いご法話をさせていただきました。今回はお取り越しのお勤めもあったので「仏説阿弥陀経」と「正信偈」でした。阿弥陀経のお心持ちを説明しながら、ちらちらお二人の様子を見ました。奥様はうんうんと頷いて下さっていたのですが、ご主人の方はうつむいて下をむいたままでした。「やはり、退屈な話になってしまったかな…」自分の力なさを恥じていたら

「わしらのようなものを救って下さると言って下さるから、お釈迦様は親友になって下さるじゃろうねー」と、ひとこと。

 

 集落の高齢化はいづこも同じです。比較的若いNさんは皆さんから頼りにされておられます。足軽く、人のお世話を惜しみなくされておられる様子を耳にします。

仏教の難しい教義は解かっても解からなくても、その行動の人つ一つに仏様の願いを受け取っておられるようなお方です。

 即座にお答えしました。

「大親友になってくださっていることは、間違いありません…」

 

 この「親友」という言葉が、何度も何度も頭の中を駆け巡りました。

温かい言葉です。(12.16)

 

 

 

 

「介護保険の仲間入り」

 先日お誕生日を迎えた住職です。御年65歳になりました。晴れて若年高齢者の仲間入りです。

 住職と結婚して37年、人並みに山あり谷ありの人生でした。でも出遇うことができたことに感謝しています。

 

 毎朝4時に起床、9時に就寝(葬儀などで例外の日もありますが…)と、ほぼ同じ日課を課し、日々を勤めています。自力修行僧のように山にこもり、何の雑念もない所で修行するのではありませんが、住職は在家の中で黙々とお勤めを果たしています。

 時には山にこもった方が楽なのではと思うくらいです。

 家族を守り、お寺を護持しながらご門徒様や周りの方に助けられながら、今日までの歩みです。

 

 すぐ傍で見ている私ですが、住職は一番の教化者で、有難い念仏者であると思います。

そんな住職が介護保険の資格を得ました…これからも住職が住職であることは変わらないと思いますが、どうぞよろしくお願いします。(12.6)

 

「 今年の報恩講さまに遇えたこと 」

 11月20日、今年の報恩講様も無事にお勤めすることができました。

 お寺の法座のなかでどの法要も大切ですが、特に報恩講様は大事に勤めてきて760年にもなります。ご講師は宇部市の浄念寺ご住職「吉見勝道先生」でした。

 先生はお説教のまくらに、

「人は二度死ぬると言われています.一度目はこの肉体が亡くなる時、もう一つの死は忘れ去られた時だそうです」とお話しくださいました。毎年聖人のご法事を勤めてこられたご先祖様の想いの中には、聖人の恩徳はもちろんのことですが、ずっと心の中に親鸞聖人が生きつづけて下さったことの証ともなります。

 そして、20年のご修行ののち自身の救われる道はこれしかないと究極の浄土の教えを聴き開いて下さいました。

 それは私が求めて救われる道ではなく、求める前からお救いの道を私のために用意に用意して下さり「あなたが救われなければ私は仏とならない」とまで、仰って下さっています。そのお喩を赤ちゃんにお乳をやる母親の姿として示して下さいました。

 「寒暑同味 転苦成世 時処不嫌 」と暑い時も寒い時も同じ味。いつでもどこでも時を選ばず、お腹を空かせた我が子のために飲んでくれよと、母乳は用意されているのです。如来様の願いは乳飲み子に母乳を与える母のようなものと、身近なお話で有難く頂きました。

 今年も報恩講様に遇えたことが嬉しく、かたじけないことでした。(11.21)

 

「 今年の報恩講 」

 今年もコロナ感染第8派の拡大に伴う中での報恩講様です。ただ昨年までと違うのは昨年までは、報恩講様ができるかどうかを総代会で話し合いましたが、今年は一日法座か、半日にするかの相談でした。結果、午前中のみになりましたが、お寺の法座活動も確実に動いています。

 

 お斎は無しでお弁当を持ち帰って頂くことになりました。お餅つきやお磨きのお荘厳はそれに伴い、寺族のみでいたしました。来年は皆さんと集い、お磨きやお餅つきのご報謝ができることを念じています。

 

 コツコツと計画を立てて準備をしていましたが、一昨日葬儀の電話が入り、急遽明日が葬儀になりました。明日のお餅つきは今日に変更です。

 聖人のお有名なお言葉で、御年9歳の聖人が御剃刀を頂かれる時、師から「今夜は遅くなったから明日にされたらどうか」という提案に、聖人は

 「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」とお応えされました。

 

 このお言葉が少しずつ身に染みるようになりました。いつ何時不測の事態が起こるとも限らない、いや不測の事態が起こることが人生なのだ、と思うのです。

だからこそ、急ぐべきことを後回しにしない、その急ぐべきこととは私の生死の解決です。それを聞かせていただく場を整え、準備させて頂けることが勿体ないことと思うのです。私に聞けよと、ご催促下さり、私一人のために呼び掛けて下さっています。かたじけないことです。(11.18)

 

「絵手紙教室のこと」

 寺カフェあーと第3弾は秋を感じる絵手紙教室でした。講師は福岡県から「真楽寺若院様」でした。

 若院様は、用意して下さった桜の枯れ葉をハンコを押すように形どり、その上から枯葉らしい色をかさねていくという、初心者にも描きやすい方法でご指導くださいました。最後に一人一人を講評下さり、この箇所が素晴らしい…と、自分でも気付かなかったところを褒めて下さいました。

 大人になってからあまり先生から褒められることがなくなりましたが、この日は童心にかえって、褒めてもらい大いに笑いました。

 

 他の人の作品を見て、気付いたことがあります。同じものを題材に描いているはずなのに、それぞれに違うということ。これは当たり前のようで当たり前ではありません。また見る角度や、興味の度合いによって描かれた絵は○○さんの枯葉になるのです。庭におちた沢山の枯葉には興味なくても、自分の名前が付いた枯葉は愛おしい…。

 

 仕上がった作品は額に入れて20日の報恩講様の時ロビーに展示します。やはり見てもらい褒めてもらいたい…そんなかわいい我が詰まった作品です。(11.13)

 

「 ムカデのこと 」

 今朝の事でした。スリッパをはいた足の指先にちかりと針が刺した痛みが走りました。

なんだろう?…見るとゴソゴソ小さなムカデが歩いている。

あああ…この子か!

見るからに小さな赤ちゃんムカデです。

「本当に君が刺したの?」と、念を押しながら、どうしたものかと周りを探しているうちに、赤ちゃんムカデはどこかに姿を消してしまったのです。

 周りを探すとは、勿論、むかで殺虫剤です。友好的な顔をして、あきらかにムカデを殺すことに決めていたのです。

 でも…この時は私の「どんくささ」でムカデは救われ、ホッとしました。

 小さな赤ちゃんムカデでも、時間が経つにつれ、ヒリヒリした痛みが襲ってきます。

インターネットで「ムカデが刺したら」というのを開き、まずは流水で洗いました。

2~3時間くらいで痛みは収まりました。

 

 さて、さきほどのムカデ、出てこなくてもいいのに、のこのこと私の前に、また現れました。孫に刺されたらたまらない…ここは大人しく死んでもらおうと、殺虫剤を噴射。1~2分の後、息絶えました。

 

 足の指のひりひり、それ以上に重い心の朝でした。(11.4)

 

「 この秋に…」

 今月は行事が盛り沢山で、気が付くと10月も終わろうとしています。

 去る土曜日に孫の運動会の応援に行き、今年最後の保育園運動会をおえました。年長さんは胸に金メダルをかけていただき園児たちの勲章となりました。

 新しく始まった「寺カフェあーと」第2弾は住職の友だちがお越し下さり、美しいピアノを本堂に響かせてくださいました。

 

 山口別院の研修会、宇部北組の研修会なども開催され、コロナとお付き合いしながら動き出しました。

 

 悲しいご門徒様とのお別れもありました。

 

 毎日出かけることが多くなる中、母の病院検診の付き添いなど、日々をこなしています。

 元気でせめて孫が20才をむかえるまで見届けたいと思うこの頃です。(10.27)

 

 

「  葬儀の日に 」

 今日はご門徒さんのお葬儀でした。95歳のお婆ちゃんです。住職と二人で出勤させて頂きました。

 家族だけの慎ましいお葬儀でした。

コロナ禍で葬儀場事態が家族葬しか受け付けていないそうです。

 

 長いこと施設におられたのですが、病気が見つかり病院へ。そのまま手術を経て1か月後に息をひきとられたことを喪主様が話してくださいました。

「95歳、年には不足はないのですが…」

 

 優しいお婆ちゃんでした。ご主人と仲睦まじく暮らしておられました。お参りに行くと喜んで出迎えて下さいました。仏様のお下がりを袋いっぱいに持たせてくださいました。

 勿論平均寿命を越されたお婆ちゃんですが、何年長生きしたらもう十分といえるのでしょうね。

 寂しくなります。(10.18)

 

[ 秋の夜長 ]

 寺族で3回忌を無事にすませ、力が抜けたような数日をすごしていたら、もう10月も半分ちかくなりました。

本当に光陰矢の如しです。

 

 何かに追われるように時間だけは経つのですが振り返ると何もない…ただ空しくしないために忙しく何かをしています。

 

 コロナも3年目に入り、これまで中止だった法座が半日、一日と開かれるようになりました。嬉しいことです。今はお聴聞の時だけが心の安らげる時間です。親様とご一緒だったら寂しい秋の夜長も安らぎに変わります。寂しい命を抱えながらの人生も歩き切ることができます…なんまんだぶつの親様がご一緒なればこそです。(10.10)

 

 

「 お彼岸法座 」

 26日のお彼岸最終日に市内の浄念寺様の彼岸会にお参りすることが叶いました。ちょうど拙寺住職が出講されると聞き、お願いしてお聴聞させて頂きました。

 

 お話は午前午後とありましたが、午後のみ参らせていただきました。午前中の車の多さには驚きました。コロナ禍でも普通にお参りされていて満堂でしたそうです。あり難かったです。

 毎回法座の度に、東北支援の物産展をされ今年度も続いています。坊守様のご指導の賜物と伺いました。継続して支援し続けることはなかなかできません。大坊でそれでなくてもお忙しい方です。本当に有難い坊守様です。

 

 住職の法話を聴きながら「お浄土は私のために作って下さった」ことが有難く、ただ念仏して参らせていただくのみと教えて頂きました。かたじけないことです。お彼岸の一日を穏やかにお念仏申させて頂きました。(9.28)

 

「 雀のお宿 」

 台風が去った朝

 外は急に騒がしくなった

 小鳥たちの大合唱

 お互いの無事を語り合っているのか…

 

 小鳥たちはこの台風の中

 何処に身を潜めていたのだろう

 

 山のお宿 大木の枝 

 ごおごおと風の音…

 鳥たちのお宿には 丈夫な扉はあるまいな

 頑丈なお屋根はあるまいな

 

 朝の大合唱は それだけで尊い命の讃歌

 歌え歌え 朝陽の歌を 

 そして自然の中にあることを

 人間たちにも聞かせてほしい  

 

 今日はこんな詩を書いてみました。お付き合い下さりありがとうございました。(9.21)

 

「台風14号」

 昨日からニュースで盛んに台風の動きを

報道してくれています。これまでに経験したことのない大型の台風が日本列島を縦断するらしい…これは大変!

 

 住職は秋法座で徳島に出講予定です。県内の布教が終わった足で徳島に向けて新幹線で参りました。(明日は新幹線が運休…かも)

 

 私は停電に備えて食料や雑貨の買い出しに…どたばたの日も終わろうとしています。明日の19日は敬老の日、曾孫の善幸君が私(ばーば)とフーちゃん(曾祖母)のために作品を作ってきてくれました。

台風は招かざる客人ですが、孫はいつ来ても嬉しい。

今回は沖縄経由ではなく、沖縄の友人はほっと胸をなでおろしてくれているだろうか…。

いつも、沖縄がしょっぱなの大きな雨風の被害を受けてくれるので今回は私の番、順番が回ってきました。

家で身を潜めて、台風が通り過ぎてくれることを念じるばかりです。(9.18)

 

 

「中秋の名月」

 昨夜は中秋の名月…各地で美しいお月様が拝めたことでしょう。お月様の光はお正信偈の中で

「超日月光照塵刹 一切群生蒙光照(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)」

*生きとしいくるものすべて 

 このみひかりの うちにあり

と詠われています。

 

 私達を照らして下さるお月様をお喩に用いられ、仏様のお慈悲を表して下さっています。なぜ太陽の光ではなく、お月様なのでしょうか。

 

 親鸞聖人のお書物「顕浄土真実教行証文類」の中「信巻」には王舎城の悲劇が長く引用されています。

提婆達多にそそのかされ、王位継承を急いだ息子アジャセ王子が実の父親を殺害し、自ら犯した罪に苦しむのですが、その時お釈迦様に救いを求めます。お釈迦様は月愛三昧(がつあいざんまい)に入られ清らかな月の光を放ち、アジャセ王の身を照らしその傷を癒されます。

 

 月の光は優しく穏やかに、病んだ心の人を癒してくれます。夜の闇が深ければ深いほど、その光はより明るく照らしてくれます。

 聖人が「信巻」で引用された観無量寿経の「王舎城の悲劇」は人間が救われて行くとはどういうことなのかを教えて下さっています。そして聖人の立ち位置は最も救われ難き「アジャセ王」でありました。

 

 誰もが救われる道を聞き開いて下さった親鸞聖人を想いながら昨夜のお月様を眺めたことです。(9.10)

 

「秋法座を終えて」

 9月4日の日曜日、3年ぶりに秋法座をお勤めすることができました。これまではコロナ禍にあり蔓延防止や非常事態宣言が出され、お寺の法座も自粛ムードでした。

 

 今回はそれでもコロナ第七派が収まらない中、毎日,県のコロナ患者数とにらめっこしながら、気をもんでいました。

 そこへ台風発生、沖縄に上陸し、九州地方をかすめる大型台風の予想…万事休すです。

 しかし台風の予定が遅くなり、どうやら法座後の月曜日あたりになるらしいとわかり、日曜日の青空のもと、法座を開くことができました。本当に冥加としか言いようのないお陰に助けられ、予定通りの法座を開くことができました。

 

 「思い通りにはならなくても、なるようにはなる」住職の口癖です。全てを仏様の業(わざ)とお任せしきったら、なるようになったところが一番良いことなのでしょう。仮に、高止まりのコロナ数や大型台風で法座が開けなかったとしても、そうなるようになっていたのだと受け止めることが大切なのでしょう。

 

 でもね、そう思えずじたばたしている自分を今回も見させていただきました。情けないですね…なんまんだぶ(9.8)

 

「過ぎゆく夏に」

 

 今年の夏も気が付いてみると終わりを告げるツクツクボウシの鳴き声が聞こえています・・・子供達も一週間早かった夏休みです。

 

 住職と秋法座の準備をしています。お互い年々歳を重ねていくことを実感します。

やることなすこと、一日でできていたことが3日かかります。境内の整備、草取りも少しずつ…。お磨きも夜の1時間を重ね、一つ一つ磨いていきます。

 

 お荘厳の用意、御供物のお買い物…こんなに時間がかかっていたっけ?

 

 あと何回、秋法座に遇うことができるかな…夏を惜しむセミの声を聴きながらの一日です。(8.31)

 

「初参式のこと」

 昨日、仏婦の役員会があり、新旧役員改正がきまりました。来る9月の仏婦主催の秋法座に向けての話し合いもなされました。

 今回はコロナ禍で一向に収まる気配を見せない状況を考慮して、時間短縮で開座はするものの、初参式は見送りになりました。

 すでにお申し込みを下さっていた2組3人のご家族にお詫びの電話を入れました。

「来年は必ずお参りして下さいね」・・・電話を置いたものの、どうも心がもやもやしていけません。「明日の命はわからない、今ご縁に遇うことが大切だぞ」と教えていただいてきました。その私が「来年は」と来年のお約束をしている・・・。

 

 ご門徒様の方がよほどよく領解しておられたのです。この時期だからなおさら、赤ちゃんの最初のご縁を、親御さんや祖父母様は心待ちにして下さっていたのです。

 いつ何時、どうなるか分からない命の儚さの中で、今生に何をしなければいけないのかを、教えて頂きました。そしてこうしたご門徒さんにお育て頂くばかりです。(8.21)

 

 

「 お盆参りと風鈴 」

 今年の夏は暑い…それを毎年のように口にしながらお盆参りを回らせていただいています。今年は特別のように感じます。

 

 コロナ禍ですが有難いことに「今年のお参りは見合わせます」と言われる方はほとんどありません。お仏事を大切にされてきた代々のご先祖様、そしてそれを確かに受け継いでおられるご門徒様のお陰かなと思います。

 

 今年のお参りでは、先の鐘楼落成慶讃法要で記念品としてお配りした風鈴の音を聞くことが楽しみの一つです。家の方が出迎えて下さる前に、優しい風鈴の音が聞こえてきます。

「ああ、ここのお宅も風鈴をるつして下さっているのね」と、嬉しくなります。

(中には、お寺から頂いたものだからと、仏間にお供えされておられる方もありました( ^ω^)それはそれで有難い)

 

 南部鉄の涼やかな音色は、遠くまでよく響き、風のはたらきを教えてくれます。風に乗り奏でる音を聴きながら、五感で心地よさを味わわせて頂きます。お浄土で奏でられる雅な音楽もこのようなものでしょうか。全てがお浄土に向かわせてくれるひと時の音に、心安らかです。

 今年のお盆もあと少し・・・(8.11)

 

 

「お供え物」

 今年も地元の三吉さんがスイカをお供えにお持ちくださいました。年齢8〇才のご夫妻で住んでいらっしゃいます。

 いつもご自分で作られたスイカの一番良い出来を「阿弥陀如来様へ」とお供え下さいます。今年の暑さの中、こんなに立派に作られたのかと驚きました。

 

 7月27日から一足早く、住職が御盆参りに回らせていただいております。(私は8月からお参りさせて頂きます。)

 行く先々で、お部屋を涼しくして頂き、一緒にお勤めして下さっています。

「後何年、こうして皆さんとお勤めできるかなあ」

出かけるとき住職が申す言葉です。ご門徒さんも、お勤めに伺う私達も、確実に年をとっているのですね。お勤めの一回一回が最期と思えるようになりました。

 

 今日も無事に帰ってきた住職の手には沢山のお供え物がありました。勿体ないことです。でも一番のお土産はご門徒さんのお元気な様子を住職から聞かせてもらえることです。(7.31)

 

「 お陰様 」

 鐘楼建設の工事のため、延期されていた親鸞聖人ご降誕会と門徒総会が開座されました。コロナ禍での法座でしたが、無事勤められたことを有難く思いました。60席用意したパイプ椅子が全て埋まり、ご門徒様始め、有縁の方々に感謝いたします。

 後半は鐘楼建設慶讃法要をいたし、お二人の先生方に感謝の意を伝える感謝状贈呈をいたしました。

 

 半日で盛り沢山の内容のあるご法要でした。その準備までは、住職と小さな意見の食い違いなどもありましたが、終わって見れば如来様の御加護の中、全てが善しの半日でした。

今はお参りできなかった方々のお礼状などを発送して、いよいよ夏のお盆参りが始まります。全てが「お陰様」の中です。(7.26)

 

「 花の命 」

 「花の命は短くて…」という懐かしい歌にあるくらい、お花の良い時は短いですね。特に夏場の仏華は3日も経つと枯れてしまします。

 

 私達の住まわせていただく2階にもお仏壇(お内仏)が安置されています。お内仏の花器は小ぶりなので、傍にもアレンジメントのお花をお供えしています。その中の一本がこのお花です。

 2週間くらい経つのですが、背筋がピーンとして、てっぺんに咲く花は美しく咲いています。実はグラデーションのように咲くのですが、枯れるときも下から順を追ってしぼんでいきました。

 

 しぼんだ花が健気に上の花に命を託すようにして枯れているのです。その姿は多くの事を教えてくれているようです。「無常」もまたその一つです。一本の花から老いることも見させていただきます。しかし、しぼんだとはいえ、直ぐに摘み取る気にはなれませんでした。

あまりにもしぼんだ姿も美しく思えたからです。そして最後に残った花を取り囲み、命を託しながら見守っているように思えたからです。その姿は凛として美しい…。

 

 私たちも生まれて老いていく無常の理の中で生きています。いつまでとは、お約束のない命です。そして、老いもまた生の命の中、この花の様に凛としてありたいと思いました。

しょぼくれて見向きもされなくとも仏様をお荘厳するお花に相応しいなと、感じた日でした。(7.22)

 

「親鸞聖人ご降誕会並びに門徒総会

 &鐘楼慶賛法要」

 

 今週日曜日に迫ってきましたご法要の準備が着々と進んでいます。

 今日はパネルボードを作る予定です。これまでの鐘楼の建設過程を写した写真を展示する準備をします。

 

 ホームページからは過程をアップしてきました。並べてみると、約半年のことですが、無事に工事を終えることができたことが有難いです。こんなに順調に運ぶことができたのも、すべて如来様のお働きのお陰と思います。

 

 先日はこの鐘楼のモデルとして考えさせて頂いたお寺の住職様と坊守様がお祝いに駆けつけて下さいました。一つ鐘を鳴らして下さり「いい音だなあ」と自分の事のように喜んでくださいました。有難いご住職さまです。

 

 当日何が無事に運び、皆さんでお祝いできますように…そんな気持ちです。(7.20)

 

「 熊本の今 」

 先日の7月9日に、光市のお寺様にお参りさせて頂きました。ちょうど午後から住職はお寺に居ましたのでお聴聞に行かせてもらうことができました。妹と孫とで電車を使ってのお聴聞の旅です。

 

 長楽寺さまに到着するや、孫の目に飛び込んできたのは楽しそうに遊具で遊ぶ子供たちでした。そして手作りパンのいい匂い…境内ではマルシェをされていました。

 

 孫の手を引き、本堂へ…若い方が沢山参っておられました。

講師はお二人の「漫才法話」と題して、熊本からお越しの那須弘紹先生・藤岡教顕先生でした。藤岡先生監修の一筆箋も販売していたので2冊頂きました。この一筆箋には伝道掲示板の法語がかかれている有難いものです。その収益の一部は、今も自宅に帰ることができず、仮設生活を送られている方への活動費に充てられるそうです。

 

 熊本地震、続く熊本土砂災害で、未だ十分な復興がなされていません。そのお話を伺い、もう過去のものと、あまり報道で取り上げられなくなった熊本の皆さんの苦悩を知ることができました。お話をされることで、地道に復興の活動をされています。

 

 多くの人には過去のことですが、哀しみを背負った人には今も当時のままです。

思うように助けることが出来ず、そのうち忘れていく…自分の事で精一杯です。

 

 聖道の慈悲の事を思いました。親鸞聖人が歎異抄で嘆かれたお言葉です。「思うように助けることも、持続して慈悲の実践もできない我が身である。それに対して急ぎ仏になりて、大乗の慈悲の実践こそが末通りたることと仰せです。まことその通りで、有難かったです。(7.12) 

 

 

「浄土真宗はなぜ、般若心経を頂かないのか」

 

 2年延期された夏法座をやっと開くことができました。ご講師は長門市よりお越しの「荻 隆宣先生」で午前中二席のご法話を頂きました。

 

 先生は「お釈迦様の説かれた教えの中で最も尊い教えといわれる「般若心経」を浄土真宗では頂かないのはなぜでしょうか」という問いを下さり、それについてお話しくださいました。この般若心経が説かれた背景をつぎのようにご説明下さいました。

 

 お釈迦様在世の時、お弟子さん「阿難尊者」は、お釈迦様のお説教をいただきたいと、多くの弟子たちに声を掛けられ、集められました。幾万人というお弟子様が集われ、今か今かとお釈迦様のお説教を待っています。その様子をご覧になられたお釈迦様は「今日はよしておこう」とお説教を説かれることはありません。いつまでたっても始まらないでしびれを切らした5000人のお弟子さんがその場を立ち去ります。それをご覧になって、初めてお釈迦様は「これから最高の法を説く」とお話し始められたのが「般若心経」です。

 

 さて、我が宗祖、親鸞様も20年間のご修行の上、この般若心経も目にしておられます。しかしながら、我が心のよりどころとして、この経を選ばれることはありませんでした。なぜなら、立ち去ったお弟子さんの5000人の一人こそが、我が姿とご覧になられたのです。

 

 どんなに最高の尊い教えでも、すべての人が救われなければ、この私はお救いから漏れてしまう、みんなが救われていく教えこそが、私をも救ってくださる教えであると、親鸞様のご信念は格たるものでした。「浄土三部経(大経・観経・阿弥陀経)」には「阿弥陀仏」の願いが説かれています。「全てのものが救われなかったなら私は仏にならない」と誓われた教えこそが、わたしが救われていくことができると確信されたのです。

 

 自分にはとことん厳しく嘘が付けないお方、でも、誠実で親鸞様は本当にお優しい方だなあと、思うのです。

この親鸞様の遺されたお書物を拝読させていただきながら、聖人のみあとを憶念することがあり難い事と、教えて頂いた今日のご法話でした。(7.5)

 

「寄せ植え」

 仲野静江さんがプランターのお花の寄せ植えを作ってきてくださいました。明日は夏法座です。

 境内が狭く殺風景な参道、坂道を昇ったところの両脇、それぞれふたつづ、可愛い寄せ植えが、参拝者をお迎えします。

 

 この寄せ植えは、ガーデニング上級者の方がされるお店で買ったもののようです。お花の成長を見越して、それぞれのお花の特徴を生かして、植え込まれています。美しい今も、成長する先も、見守り楽しませてくれます。

 

 「みんな違ってみんないい」金子みすゞさんの詩の世界を表しています。

それぞれの花が、相入れながら、お互いを引き立て合う…そんなことを想わさせていただきました。(7.2)

 

 

「 名もなき花 」

 藤澤信照先生のご本「親によばれて」の中に、歌うお坊さん[やなせななさん]

の「名もなき花」の歌詞が紹介されていました。

 

 世界の片隅で人知れずそっと咲く花一輪に思いを寄せて、「祝福の光を贈ろう」とやなせさんは歌っておられます。

 

 どんな小さな花、その美しさに気付かれなくても、咲いて散るその花には、種が授けられている。喜びもかなしみも糧にして、愛の実を結ぶために育つ、その命はかけがえのないもの。だけど人知れず色を失くしていく花一輪 その命を手放し土に還る。その花すべてに惜しみない祝福の光を贈ろう…というものです。

 

 何のために人は生まれ死んでいくのか…このお答えのヒントをやなせさんの歌から頂きます。

大抵の人は、名を残すでもなく人知れず死んでいきます。でも、生まれたときから小さな種が授けられている、この種を悲喜交々を糧として、実は結び、育つ。その人生に祝福の光を贈って下さる方があるといわれるのです。

 

 阿弥陀という仏様はどんな時も私を照らし続けて下さる、そしてどんな時も祝福し「我が一子よ」と愛おしみ続けて下さる。やがて命終る時に惜しみない光で今生の人生の最期を照らして下さるのです。いつでも仏様の光の中でした。(6.30)

 

[ 満中陰法要がお寺で勤まりました ]

 6月25日(土)ご門徒様の満中陰法要が勤まりました。遠くから山口県に帰省され、ご母堂様の法事を勤めて下さいました。

 

 ご往生されたお母様が、孫子や親せきの方々を呼び寄せ、お寺の本堂で手を合わせて下さいました。

 

手が合わさることは当たり前ではありません。亡き方に思われ願われて、今、私は手を合わさせていただくことができる身となりました。そのことを感謝し、共にお勤めさせて頂きました。ようこそ,お帰りなさい。(6.25)

 

 

 

 

[宇部北組仏教婦人会総会]

 6月19日(日)の午前中で組の婦人会総会とご法座が開催されました。コロナ禍で2年間できませんでしたが、やっと組での法座が開かれ、うれしいことです。

 

 宝林寺からは村田会長、山下副会長と山口さんの三名が参加して下さいました。

会所はまぐらの明山寺さまでした。

 

 総会は滞りなく終わり、ご法座2席のご講師は「下関常元寺の伯浄教先生」でした。山口さん…実は我が妹なのですが、とてもいいご縁であったと喜んでくれました。

 

 伯先生のお父様(ご往生)も布教使でいらっしゃいました。また、学部時代の私の伝道部の大々先輩でいらっしゃいました。ぜひともお聴聞したかったのですが、この日は宇部市の草刈りが行われ、役付きの関係からこちらに参加せざるをえませんでした。

 

 聞きたいからと言って、聞けるものではありません。よほどの縁が整って始めて、如来様の御前に座らせていただけることを、思いました。

   蓮如上人のお言葉です。「仏法には世間のひまをかきてきくべし」(蓮如上人御一代記聞書155) 

 *仏法は世間の用事を差し置いて聞きなさい。世間の用事を終え、暇な時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない(本願寺:蓮如上人御一代記聞書現代語版)

(6.20)

 

「山口別院永代経法要」

 去る6月9日から11日までの3日間、午後のみ永代経法要がお別院で勤まりました。今回もお寺から2人くらいとコロナ禍での人数制限がありましたが、昨日、住職とお参りさせて頂きました。

 ご講師は福岡県からご出講師くださいました松月博宣先生(福岡教区 海徳寺)でした。

 御年68歳の先生はご讃題を拝読された後、桐渓和上との思い出のご法話をされました。「ここに座っておられる方、ご自身は善人と思われるか、悪人と思われるか?」との問いから始まり、「牛にひかれて善光寺参り」のお話を下さいました。桐渓和上は龍谷大学教授で勧学であられた村上速水先生から、そのお人柄を聞かせて頂いており、懐かしく思ったことです。

 後席では「今を生きる私の上に仏法はどう働いて下さるか」とのお話でした。喩に縦糸と横糸で編まれた布を出されました。

 「この御衣は横糸のみがみえるのですが、縦糸が無ければ布にはなりません。そして布を織る時にとても大事なのはこの縦の糸だそうです」

 横の糸は例えていうならば私達の人生、右往左往しながら往ったり来たりしています。縦は糸はお経には「経」と書いて「たて」と読ませるそうです。

 

 布はこの縦糸がとても大事で、この縦糸がしっかり準備され張られると、あとの横糸は簡単に美しく織り込めるそうです。

この縦糸=経糸は、どんなに横糸が不安定でも、お浄土のあゆみをさせるようにみちびいてくれている。五劫という途方もない年月を考え準備して下さった法の経糸、私達は安心して自分の人生を歩んだらいいというお話でした。

 

 中島みゆきさんの「糸」という歌があります。私も大好きなうたです。が、出あう人が縦糸ではやはり心もとない。ご縁の中で出会う人と共に仏様のお話を頂く御同朋の横糸の中に、仏様の経糸がしっかりと導いて下さっているのでしょう(6.11)

 

 

「十方に響く仏様の呼び声」

 6月5日の日曜日、鐘の撞木を中井先生が取り付けに来て下さいました。

 6月6日の朝6時25分、待っていた鐘の音、最初の一打が鳴りました。仏様のよび声です。

 

 次の日の夕方、6時25分からの夕べの鐘に合わせて、責任総代の岡本さんご夫妻が鐘の音を聴きにお寺に上がってきてくださいました。交代で撞いて頂きました。

 鐘の音は遠くから聞かせて頂くのが有難いです。どこからでも仏様のお声が響きます。姿かたちは見えませんが、「ゴーン、ゴーン」と心の鼓動に響き合います。いつでもご一緒と

私を呼び覚まして下さる仏様のお声です。(6.8)

 

「 向日葵が笑う 

 プランターに夏のお花の植え替えをしました。現仏婦の三役さんにお手伝いをお願いして、プランターのお花の植え替えをしました(急な用事が入り、この日は副会長さんのみでした)。どのお花を植えようか…JA農協の花屋さんには様々のお花が並んでいます。

あれこれ見て回り、選ぶ作業も楽しみの一つです。

 副会長の仲野さんが「五色(ごしき)の色にしませんか」と仰って下さり、赤、青、黄、紫、緑を選びました。

 

 黄色は向日葵が直ぐに目に飛び込んできました。これにしよう!小さな背丈でプランター用に作られたのか、とても可愛いです。向日葵と言えば、今世界中の人が心を痛めているウクライナを思い出される方もあると思います。ウクライナの国旗には黄色と青色が使われているので、黄色の向日葵は国を連想させ、また実際に国花でもあります。

 

 「植え込みが終わったね」向日葵がこちらを向いてくれています。笑っているようです。

一日も早く、ウクライナの方に笑顔が戻りますように。また、戦争で傷ついた全ての人々にも穏やかな日が来ますように、そんなことを念じています。(6.4)

 

「正覚大音 響流十方」

 3月から始まった鐘楼の建て替え工事も無事終えることができました。仏様の御加護と門信徒様のお志のお陰です。本当にありがとうございました。

 

 5月30日小雨の降る中、早朝より鐘を吊るす段取りをされ、重機が到着するや500㌔もある大きな鐘を移動させ、鐘楼に金具に取り付けることができました。

本当に感無量でした。

 

 鐘楼門の解体工事から、工事の進捗状況を追い、ホームページに一部をアップしてきました。いつしか工事作業員の一員になったような気がしておりました。

 

 5月に差し掛かり暑さを感じる中、日焼けした顔から大粒の汗をかきながらの作業は大変だったと思います。皆さん気持ちのいい方ばかりでした。

 

 「あまねく正しいおみのりが、広く十方にまで届きますように」願いのこもった鐘の音が聞こえるのも間近です(5.31)

 

「インスタ友達Ýさん」

 インスタグラムで知り合ったÝさんが、宝林寺にお参りに来て下さいました。Ýさんは和歌山県にお住まいですが、仕事で山口県に時々来られているとのことです。その仕事の帰りに寄って下さいました。

 

 ちょうど住職も寺におりましたので、お参りした後、お茶を飲みながら御法義のお話で盛り上がりました。

 

 Ýさんはあることがきっかけで御剃刀(帰敬式)を頂かれた方です。幅広く親鸞聖人の本を読まれていて、大変勤勉な方です。これまで気付かなかったことも気づかせて頂くことで、とても有難い方です。

 

 和歌山県にお住まいということで、岡先生のことをお話させて頂きました。何て言うことでしょう!先生のお寺からすぐ近いところに職場があり通っておられるということでした。

先生が結んで下さったご縁なのかもしれません。真宗学から少し遠ざかり、優しい本や小説を読むことが多くなりました。Ýさんを通して、先生が教えて下さった「学ぶ姿勢」を思い起こさせて下さいました。

 

 Ýさんに中仏の通信教育をお勧めしたら、すぐ願書を取り寄せて下さいました。

私はいつでもお聖教に触れられる幸せの中にあることを、改めてÝさんから教えて頂きました。(5.23)

 

「お浄土で遇いましょうね」

 Mさんがご往生されて、一週間が過ぎました。まだ私の中では心の整理ができずにいます。

 

 Mさんは笑顔の素敵な、朗らかな向日葵のような方でした。しっかり者のイメージがありますが、とてもチャーミングでおちゃめで、若々しい可愛い方でした。

 

 丁度お寺の会計さんをして下さっていたので、役員の方の気持ちでお花のお供えをさせて頂きました。会葬は東京から帰省された長男様のお気遣いもあって、自宅で家族だけのお葬儀でした。ただ御親戚も多く、長く住まわれたお内仏の二間続きの部屋は溢れんばかりの花スタンドで一杯に埋め尽くされました。

 

 体調がお悪い時、何度かお家を尋ねさせて頂きました。すっきりとしたお部屋に、お孫さん達の家族の写真が飾られているだけでした。いつでもお迎えがあってもいいように…Mさんらしいなと感じました。その時はおやつを一緒に食べながらお孫さんのお話を聞かせて頂きました。

 

 出棺の時、こらえていた空から小さな雨が降ってきました。

通いなれた職場を車で、ゆっくり走る時、工場の前では同僚の方たちが大きく手を振って「また会おうね」と見送りされました。いつも買っておられたお店の前でも沢山の方が待っていてくださいました。お見送りしたい気持ちが伝わってきました。

 

 とても寂しいですよ…Mさん。

 もう読んでもらえないラインに最後のお手紙を書きました。お浄土から読んでくださいね(5.18)

 

「 日暮の門 」

 先日、分骨を兼ねて御本山におまいりさせていただき、美しく彩色が施された「阿弥陀堂」や「御影堂」をお参りさせて頂きました。その後「唐門」を拝見することができました。

 「唐門」は別名「日暮門」ともよばれていて、一日中眺めていても見飽きることがないとのことから、そう呼ばれています。

 確かに当時の美しい色彩は勿論の事、天人や麒麟、唐獅子などの様々な動物が描かれていて、まるでお浄土の世界を見させていただくようです。

 

 先人たちの建築技術の素晴らしさと、美的な芸術性に改めて感動します。何百年もの間、守り継がれたものの重みを感じる唐門です。(5.7)

 

 

 

「 鯉のぼり 」

 5月のこどもの日が近づくと、住職の日課に鯉のぼりを揚げることが加わります。大空の風を口いっぱいに吞み込み、悠々と泳ぐ姿を見ると、思わず私まで泳いでいる気分になります。

 

 この鯉のぼりの由来は、江戸時代の中期ころに誕生したと言われています。中国の伝説に登場する「龍」が関係していると言われ「登龍門伝説」というのがあります。

それは黄河の上流にある龍門という滝を鯉が登ると竜になるという伝説です(味岡人形より)

 

 また鯉は生命力があり、大きく丈夫できれいな川以外でも生き抜くことができるため、子供に強くたくましく育ってほしいという親の願いが込められているということです。

 何世紀も揚げ継がれている鯉のぼりです。親の願いは昔も今も、さほど変わらないということでしょうか。

 

 孫たちが帰省した時は「常盤公園」に遊びに連れていきます。サル山をメインにした動物園や植物園、広々とした湖に泳ぐ白鳥やペリカンが有名です(鳥インフルエンザの災難から白鳥たちは数えるくらいに減りました)

 この広くなった湖に、鯉が沢山泳いでいて鯉の餌も売られています。エサが投げ込まれると鯉の大群が押し寄せてきて、孫を飲み込むくらいの大口で「早く餌をくれ~」と催促します。投げ込むやいなや争奪戦です。その姿は本当にたくましいです。餌のおこぼれをもらおうと鳩たちも寄ってきます。

 

 この湖の鯉の様に逞しく生きてほしいと先人たちは願ったのでしょうか…疑問がわきました。

 生きるために奪い合う、それは自然界の中では最優先のことです。限られた湖と言う有限の世界で、競い争い、奪い合いながら、鯉の一生も終わっていくのでしょうか。

 

 限りなく広い大空で、思う存分泳げ、空気も風も無尽蔵で尽きることがないぞ…そんな声が聞こえてくるのです。

 先人たちが鯉を空に泳がせた理由、それぞれの心の中で問うてみるのもいいかもしれません。(4.28)

 

「光安寺様の御降誕会」

 今日は隣寺の光安寺さまにお参りさせて頂きました。

まだコロナに気をつけながらの午前中のみのご法話でしたが、前々からお聴聞したかった桑羽先生のお話がいただけて嬉しかったです。

 御降誕会は宗祖親鸞聖人がお生まれになったことをお祝いする法要です。実際には5月21日がお誕生ですが、この時期から全国津々浦々の浄土真実のお寺様で法要が営まれ、またお祝いのお餅やお菓子が配られたりします。

 光安寺様ではお餅のお下がりや、仏婦会員さん達の手作りのペーパー入れがをお土産として配られました。気持ちのこもったお下がりとお土産をお内仏にお供えしました。(左の写真)

 

 先生のお話で有難かったのは、ここに浄土真実のお寺様が建っているということ、そして親鸞聖人のお開き下さったみ教えを800年経た今でも聞くことができるということです。これは本当に希有なことです。

 半日ではありましたが、最後にお話しくださったことは大変有難かったです。先立たれた娘さんのお話でした。子に先立たれる親の気持ちは、悲しいけどよくわかります。その娘さんが「お浄土で遇えるね」と言われたそうです。お浄土がなかったならば、乗り越えられない愛別離苦の苦しみも、先に立たれた方に、前から後ろからと、手を引き、後ろから押してもらいながら歩ませていただくお浄土への道です。その道しるべとなって下さるお念仏を共にお称えさせていただくことができました。(4.20)

 

「六連島のお軽さん」

 妙好人と言われた方の中に山口県の六連島にお軽さんというかたがいらっしゃいます。(1801~1857)

 妙好人とは、仏教の教えによって本当の幸せになった人のことです(仏教ウェブ講座より)

 大学3年生の夏にお得度を頂き、山口へ帰省して向かった先は六連島のお軽さんを育てられた西教寺様でした。

 そこで習いたての「正信念仏偈」を上げさせていただきました。奥からお勤めを聞いて下さっていた坊守さんにいたく感心されましたのが、昨日のようです。

 

 お軽さんがお寺にご縁をもつきっかけは、夫の浮気が原因だったと言われています。嫉妬に苦しんだお軽さんは、お説教を聞かせていただくうち、また、重い病が縁となり

 「亡きあとに 軽を尋ぬる人あらば

  弥陀の浄土に 行ったと答えよ」という歌を、亡くなる数か月前にのこしておられます。コレラで56歳の生涯を全うされました。

 

 なぜ、六連島だったのか、自分でもよくわかりませんが、とにかく山口県の妙好人と言われた方をお育て下さったお寺様にご挨拶したかったのです。

 蓮仏教婦人会20周年記念に、この島を会員さん達とお尋ねしようと計画していたのですが、コロナ禍で叶いませんでした。いつかまたお尋ねしたいと思います。(4.19)

 

「 瑠璃色の地球 」

 

 歌手の松田聖子さんが、まな娘の沙也加さんを失ってから、初めてのディナーショーを再開されたようです。私達が青春時代のアイドル歌手として活躍されていましたが、今もその輝きは失われていません。大変、歌の上手な人です。

 

 その聖子さんが歌われた歌の中に「瑠璃色の地球」という歌があります。

作詞:松本隆 作曲:川原伸司さんです。

 

 初めてこの歌を聞いたとき、歌詞がすこし大仰で、大きすぎる世界観や言葉使いに、やや抵抗がありました。でも、今聞くと身につまされるような歌詞です。もう1986年にリリースされてから今日まで、息長く歌い継がれています。(高校の音楽の教科書にも取り上げられた)かれこれ36年前に、すでに作者は今のウクライナの惨状、地球上のことを憂いておられたのだろうか…。この世界が示すように、どんなに辛くかなしいときでも、地球に差し込む優しい光が、全ての人を包み込んでくれることを念じるばかりです。(4.14)

 

 

「 アイノカタチ 」

 

 去る3月18日、小野小学校の卒業式でした。今年もピアノ伴奏で式に参加させていただきました。

 入退場の選曲は任されていて、その年に話題になった曲や、思い出に届けたい曲を選んでいます。今年は「虹」「アイノカタチ」を選びました。

 

 「アイノカタチ」は歌詞に惹かれました。

 「あのね いつの間にか 気づいたんだ 

  愛にもし カタチがあって 

  それがすでに 私の胸に はまってたなら

  きっとずっと 今日よりもっと

  あなたのことしるたびに

  その形はもうあなたじゃなきゃ

  きっと隙間を作ってしまうね…」

 

というものです。この歌は最初、恋愛の気持ちを歌ったものかなと思っていました。でも自分が大切と思える人、全てに当てはまる歌詞です。

 

 「この隙間はあなたじゃなければ埋められない」、こんな隙間を心に抱え持つ人は哀しい。でもきっとそれほどに大切な人、きっと沢山の愛情を注ぎ、注がれた証だからこそ、埋めることなんて出来ないのです。そんなあなたに出遇えたことに、有り難う。そしておめでとう。(4.12)

 

 

 

 

「倒れても起き上がらない」

 

 野に咲く花は風に倒され、踏まれてもお日様に向かって起き上がるたくましいイメージがあります。でも先日ラジオで面白い話を聞きました。

 

 タンポポは倒されたら起き上がることをしない、それよりも地面に近く、低い姿勢で根を張らないそうです。

そして綿毛を飛ばして、出来るだけ遠くへ風に運んでもらうことで自分たちの種を残すような方法を選んだ、ということでした。

 

 私の中の野花のイメージが大きく崩れ、改めて感心したことです。

 そこに居続けるには、しっかりと根を張り、長い茎でお花を咲かせ、虫やお天道様から見てもらい気付いてもらい、そうして種を残す多くの花たち。

 でもタンポポは根を出来るだけ張らず、踏まれるまま、倒されるままにお花もつけ、その時期になったら白い綿毛は、風まかせに飛ばされていく。

 逆らわないこんな生き方もあるのだなと、肩の荷を一つ降ろして生きているようなタンポポの生き方もいいなと思ったことです。

 

 踏まれても歯を食いしばって生きなさい、と教えられ、それに打ち勝てない弱さを嘆きながらも頑張っている。たまにはタンポポのように倒れて、寝っ転がって生きるのもいいのかな…(4.9)

 

 

「お浄土は本当にあるのね」

 

 母(前坊守)が大腿骨折をして手術、入院してからあと1週間で3ケ月が経とうとしている。2か月の入院期間中はコロナ禍で面会もできず、洗濯物を取に行くとき、手紙で励ますくらいだった。

 

 2が月が経ち自宅に連れて帰っての数週間は忙しかった。介護関係の人の出入り、病院、リハビリ通院と…あっという間に3週間がたってしまった。

 

 家に帰ってから手術のあとの話を母から聞かされた。当の本人は3日間くらい夢うつつ状態で「痛い」とうなされ、その都度お念仏を称えていたらしい。それはとなりのお婆ちゃんや、看護師さんの間でも有名になっていて、念仏婆ちゃんの退院の日にぞろぞろお見送りに出てくださった。「お寺さんの家族」にわざわざ挨拶をしてくださったのだ。

 母曰く。

「夢うつつの間、ずーっとこれまで読んだり、聞いていた教えが出てきて下さり、ひとつに繋がったよ。それから懐かしい人が次々と出てきてくれて、美しい所から呼んでいる。でもまだ来てはいけないと追い返されているようだった。もう死ぬことは全然怖くない。お浄土にいけるね」とのこと。

 

 やはり、お浄土は美しい国、お念仏婆ちゃんの体験談ですが、とても有難かったです。(4.7)

 

「 仕事の流儀 」

 鐘楼建立が日々進み、楽しみな日々です。ご門徒様や地区の心ある方々のお陰で順調に運ぶことができています。有難いことです。

 この写真はコンクリートを流すための木枠、どっしりと細かい作業を添えて、いよいよこの空間にコンクリートが流されるのでしょう。

 作業がおわると、その日の進み具合が楽しみで住職と見に行きます。驚きました。これは下準備のための木枠、コンクリートが流され、がっしりと固まれば、取り壊され必要のない木枠です。でも私の眼には美しい建造物の様に映りました。

 専門家に言わせれば、この作業はとても大事な工程の一つだということです。

いや、これまで穴を掘り、土台を作り、鉄筋を埋め込み、木枠をこさえ…どの工程一つをとっても素晴らしいものでした。表には表れない一つ一つの作業も、美しいものでした。

 

 簡単に言えば「手を抜かない」そんな作業はどこを見ても美しく感じます。

人生と似たところがあります。人が見ていようが見ていまいが、その過程に心を尽くしていれば伝わるものがあります。

 

 新年度を迎えて、何か大切なものを教えて頂いたような気がします。

 

「 永代経法要勤まる 」

 

 去る3月27日、永代経法要をお勤めしました。ご講師は2年前からお約束を頂きながら、コロナ禍でお迎えできなかった

工藤顕樹先生(萩市 浄蓮寺)です。

 

 先生は小学生のお子を子育て中のお若い先生ですが、一座のご法縁を、大変分かりやすいお喩はなしを交えながら、今生きる私達の心に響くお話をして下さいました。

 

 「三帰依」の御文から、三つの宝とは何か、その宝を守り伝えて下さったご先祖様はじめ、祖師様、親鸞聖人様、お釈迦様、そして阿弥陀如来様に繋がっている尊いみ教えを、今、頂いていることの有難さを教えて下さいました。

 

 ご門徒様から「せっかくのご縁を短い時間で終わり、とても残念です。次は一日ゆっくりと工藤先生のご縁をいただきたい」とラインがありました。

有難いご縁、私も楽しみにお待ちしております。(4.1)

 

 

 

「地獄のこと」

 気がつけば、3月も一週間で終わろうとしています。お彼岸にはお墓に綺麗なお花が供えられました。

 

 私の三月はいろいろなことがあって、頭の中がごちゃごちゃ…今も気分がすぐれません。

 歴史の中でしか描けなかった戦争が、今生々しく伝わってきます。テレビやラジオ、SNSからの信じられない情報が、こんな田舎の私にまで届く時代なのです。ロシアによる侵略戦争で、ウクライナの市民にまで攻撃が及んでいます。小さな子供たちの命が爆撃されたガレキの下に…想像するだけでも震えます。

 

 仏教では、悟りの浄土に至るまで六道の世界を経巡ると教えてあります。「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人」この六道の争いの絶えない修羅の世界を、今、目の当たりにしています。そして道理がわからず自分の思いのままに行動する畜生の世界、もっと欲しいと際限なく欲する飢えた餓鬼のように、出口が見えず光のない地獄に苦しむ…すべて今起こっている出来事は六道輪廻の世界を見るようです。

 

 こんなことを起こした人を罰してほしいと、心の中では叫んでいます。自分の中の恐ろしい憎しみの心です。

 

 阿弥陀様はどんなに愚かな人間でも救うと浄土の門を立てて下さいました。地獄のような苦しみの戦争を始めることを決断した人も、その犠牲になった多くの人も、等しく救うと誓われました。

 

 これが不実な人間の世界、だからこそお浄土が確かなものなのですね。

すべて私の側は虚仮不実でした…なんまんだぶ (3.22)

 

 

「 世の中安穏なれ 」

 コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵略…大変な時代になりました。加えて地震災害など、混とんとした時代の中にあることを痛感します。私に何ができるのだろう…。

 

 昔、ある人から言われたことをふと、思い出しました。

毎月の寺報を送っている読者の方からのお葉書です。「今回の号より前回の号がよかった」という感想を送って下さったのです。

「坊守通信」としてわたしも感話を載せさせています。その感話に対するものでした。

 

 今回の号とは、地震直後の募金の事でした。友達が募金したと手紙をくれたので、仏様のご催促と遅ればせながら私もわずかな募金をさせて頂いたことを書いたものでした。

 

 前回の号は重い病気を患った方がお寺にまいってきてくださった。その方に美味しいお茶をおもてなしすることしかできなかった…ことを書いたものでした。

 

 その方は私の心の在りようを見透かして、こんな感想を下さったのだろうか。困っている方に対してその支援をすることは当たり前の事、それをわずかばかりしたくらいでいい気になっている自己満足の自分を見透かされたような気がしました。

 カッコよく拳を振り上げて、正論を言うことや、正しいと思うことをすることは間違ってはいない。でも…。

 このお葉書を頂いてとても恥ずかしかった自分を思い出しました。(3.7)

 

「 上の雪 さむかろな。

  つめたい月がさしていて。

  下の雪 重かろな。

  何百人ものせていて。

  中の雪 さみしかろな。

  空も地面(じべた)もみえないで 」

 

 金子みすゞさんの詩「積もった雪」です。

今年も例年以上によく雪が降りました。積もった雪を見るとこの詩を思い出します。

 

 上の雪、下の雪、ここに歌われたようにそれぞれの苦悩を想像することはできます。でも中の雪が寂しいことに思いを馳せることは、私には想像できませんでした。みすゞさんは中の雪の悲しみまでも、聞くことができたのですね。

 

 上の雪の見える寒さ、下の雪の重さはみえやすい…でも本当に悲しいのは見えない中の雪の一人ぼっちの悲しさではないでしょうか…。

「ここにわたしがいるよ」いつも私を呼び、見ていて下さる。親様ならではとかたじけなく思われます。(2.24)

 

「 5歳のきみへ 」

 

 今日は孫の誕生日です。無事5歳を迎えました。二日日早い土曜日の夕方に家族でささやかなお祝いをしました。

 じーじは、頼まれていた温度で色が変わる昆虫たちのおもちゃをプレゼントしました。私は少し早いかなと思いましたが、絵本をプレゼントしました。

 

 この絵本は前美智子皇后陛下が心のよりどころにされていた本らしいです。

「でんでんむしのかなしみ」というタイトルです。

 ある日でんでんむしは自分の殻の中いっぱいにはいっている「悲しみ」に気付かされます。だれかこの悲しみから救ってくれる友達はいないかと…知り合いのでんでんむしを片っ端から尋ね歩きます。

 どのでんでんむし持って返ってくる答えは同じでした。「わたしの殻にも悲しみがいっぱい」

そしてでんでんむしは、だれも「悲しみの殻」を背負っていることに気付かされるのです。

 

 絵本はここで終わっています。気づかされたでんでんむしは、その後どういきていくのか…読み手にゆだれられています。

 5歳の孫がお母さんに読んでもらって、どういう反応を示すにかわかりません。でも5歳の君に贈りたかったのです。これから成長していくたびに、この絵本を開いて、自分の答えをみつけてね。(2.14)

 

 

「春よ来い」

 夏に選定して頂き、気の毒なくらいさっぱりしたもくれんの木から蕾が出ています。沢山の蕾です。気が付かない内に、力を蓄え、コツコツと花を咲かせる準備をしていたのね。

 

 口を利かない植物たちが、微笑む季節はもうすぐ。寒い時期をじっと耐え

その時を待っています。偉いなあ…。

 

 こんな言葉を目にしました。

 「一生懸命だと知恵がでる/中途半端だと愚痴が出る/いいかげんだと言い訳ばかり」

お恥ずかしい私の事だわ。植物たちは愚痴も言い訳もせず、ただ黙々と環境に知恵を絞って?生きて花を咲かせる。ただ黙々と( ^ω^)・・・見習いたいです。(2.3)

 

「七草がゆの事」

 毎年、1月の7日には七草がゆを頂いていました。おせち料理のおご馳走から胃を休めるのに丁度いい頃、春の七草を御粥に入れて頂きます。

 今年はインスタで教えてもらった方法で炊飯器にお米と七草を入れ込んで「粥だき」でスイッチを入れました。

 

 夕食の時間になってもまだぐつぐつもしません。「しかたないな、今年は明日に七草がゆを食べよう」

 

 やはり、やり慣れないことはまずもって試験的に試しておくべきでした。次の朝、母は転んで病院に運ばれるし(元気ですのでご安心ください( ^ω^)・・・)結局、七草がゆを母に食べさせてあげることができませんでした。帰宅出来たら再度挑戦だ!(1.28)

 

「一月の声」

 一月からいろいろなことがあって、気付けばもう一月が終わろうとしています。本当に早い、アッという間もなかったような( ^ω^)・・・。

 日々をおろそかにしたわけではないのですが、一月さん、本当にごめんなさい。

 

 母の誕生日にプレゼントしたシクラメンの鉢…まずい、土が寒さでカチコチしている、あわててすこし温かいお部屋に移してあげる。冬は寒さゆえ、仏華が長持ちしてくれます。替えなくていいので、楽をさせてもらいます。でもお花たちは寒いよね。じっと我慢して耐えて、暖かい春を待っているのでしょうね。

 一月の声は、耳を澄ませて…か弱い声が聞こえてきます。(1.24)

 

「 お友達 」

 新年が明けて小学校の時の友だちが訪ねてくれました。彼女は今は小野を離れお孫さんの世話をしながら、仕事も頑張っているということです。

 

 お父様がご往生されたときの話を伺いました。浄土真宗のご門徒で、総代さんもされていたくらい、優しく、人のお世話を苦にしない方でした。

 そんな方がお寺様との意見の食い違いで「自分が死んだときは、近親者だけで、お勤めはしてもらわん」と言い残されたそうです。いざそうなった時、でも彼女は、お坊様に来ていただき読経していただく葬儀を選びました。「そうすることが良かったのかしら…父は怒ってないかしら…」という…。彼女は私にこのことを打ち明けたかったのだわ、と思いました。

私は間を入れず「良かった安心したよ」と申しました。

 

 葬儀は往生された方のためにあるのではありません。勿論、供養のためにある儀式ともいわれますが、浄土真宗の一番肝心は、往生された方の最期の一代説法を聞かせて頂く場と教えて頂きました。

 親しき方、ご恩深き方々のご往生を通して、限りある我が身もまた、浄土の道を歩ませていただく身であったと、改めて教えて頂く場なのです。

 

 「○○ちゃん、今は仏様となられたお父様は安心しておられるよ。人間同士の間ではいろいろなことがあっても、如来様のお慈悲に間違いはないから、安心してこのみ教えを聞かせてもらおうよ」この日はいっぱい、彼女と一緒に泣きました。(1,10)

 

「宝林寺の梵鐘」

 宝林寺の梵鐘は昭和30年に再鋳されました。戦時中に供出されたお寺の鐘は、戦争が終わっても戻ってくることはありませんでした。

 戦後10年目に総代様3名が発起人となり、「新しい鐘を」と願われ、再鋳されたのです。昭和30年といえば、私はまだこの世に存在しません。戦後の食うや食わずの時代から、市民の生活に少し光が見え始めた頃ではないかと推察します。でも、まだ貧しかったと思います。そんな中での発起でした。その後お寺は二度火事に見舞われます。小さな仮小屋の本堂に、小さな鐘楼が建てられました。毎朝、祖父が鐘を撞いていました。

 

 写真の鐘楼門は平成8年に建てられたものです。祖父の往生を縁として、父の幸雄と姉妹たちが鐘楼門を再建し寄贈してくれました。昔を偲ぶ立派なものでした。その門も劣化し、お役目を終えようとしています。

 

 この度また、あらたに、鐘楼が再建されます。

昔の戦後間もない貧しい時代に、これを取り戻そうと、鐘を再鋳されました。どんな思いであったかは想像できます。時代は戦争を機に大きく変わった、価値観も倫理観も道徳も…すべてが当てにならない頼りないものだった。だからこそ、お寺を残そう、鐘を取り戻そう、それこそが一番大切なものだから、と…ご先祖様たちは思われたのです。

コロナで経済の不安定な中ですが、門信徒一丸となっての事業です。(1.7)

 

 

 

 

「元旦の50回忌法要」

 前住職の妹(私のおばです)の50回忌法要を1月1日にお勤めしました。

 父には9人の兄妹姉妹があり、そのうちの妹、安子さんは幼い時の高熱のため、耳と口に障害が残りました。お寺では看れないとバスで乗り換え3時間くらい離れた病院の施設で36歳(行年37歳)のを生涯を全うされました。その叔母の50回忌法要です。

 

 まだ小さい頃、祖父母に連れられ施設にお見舞いに行かされました。叔母は私を見ると喜んで抱き上げ、施設の職員さんや友達の部屋中を回って私を紹介しました。結婚をしていない叔母にとっては幼い私は我が子のようだったかもしれません。自慢気に笑顔で紹介する(勿論言葉ではなく)顔が忘れられません。

 

 叔母が帰省出来る日は限られていました。お正月とお盆のお寺が落ち着いた頃です。家族が皆、笑顔になる日でした。家族が優しくなるので、子どもの頃ははしゃいで叔母を迎えたものです。そんな叔母に癌が見つかりました。もう手の施しようがなくなった時、お寺に連れて帰りました。近くの川元先生が往診に来て下さいましたが、祖母と母の看病の甲斐もなく、除夜の鐘を聴きながらお浄土に還って行きました。

 

 小学5年生の時「安子おばちゃん」という題で作文を書きました。文集に載せるものです。先生は私に鶴の折り紙を折って下さり、「ここに載せるイラストを描いてね」とその鶴を渡されました。あれからもう50年です。(1.2記)