私の善知識  岡 亮二先生

 新らしいコーナーを開きました。このコーナーでは、私に浄土真宗の教えの眼を開いてくださった岡先生の著作『親鸞聖人のみ教え』から、毎月少しづつ転載してご紹介します。(転載については、出版元の教育新潮社様のご了解をいただきました。)

 岡先生は龍谷大学の名誉教授でいらっしゃいましたが、私が今日お念仏をよろこぶことができるようになったのも、先生が私に浄土真宗に対する眼を開いてくださったからです。先生は、浄土真宗のみ教えを単なる教義として研究された方ではなく、今を生きるご自身の問題として常に親鸞聖人の教えを求め続けられたかたです。それがために、私のような浄土真宗について素養のない者の心にまで、すっとその教えが入ってきてくれたのだと思っています。

 

浄土真宗の念仏の教え (2024.4.3.更新)

 親鸞聖人を迷わせた念仏 ④

 この苦悩は必然的に、親鸞聖人をして、阿弥陀仏の本願に救われようと、願わしめました。自らの力で悟りに至れないのであれば、必然的に、より大きな力にすがりつくことになるからです。そこで阿弥陀仏に救いを求め、浄土に生まれたいと一心に祈って、念仏を称え続けたのです。けれども、いかに一心に祈り名号を称えても、聖人の心には、必ず浄土に生まれるという確証は、ひとつも得られませんでした。

 自分は純粋に阿弥陀仏の本願力を信じている。心から阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願っているのだと、いかに自分に言い聞かせても、はたして確かだろうかという疑念がそのつど生じ究極的にどうすることもできない、絶望に陥ってしまったのです。絶望とは、心の中で強く仏になることを願いながら、自分自身のなかに、その可能性が完全に断ち切られてしまったことを意味します。だがこの苦悩のどん底で、聖人はたまたま法然上人に出遇うことになるのです。

浄土真宗の念仏の教え (2024.3.3.更新)

 親鸞聖人を迷わせた念仏 ③

 「三願転入」の文によれば、聖人は第十九願の念仏から第二十願の念仏に、そして第十八願の念仏に転じたと記されています。そうすると、第十九願・第二十願の念仏が、親鸞聖人をして迷いに落としめた念仏ということになります。

 その第十九願には、一心に仏道を修し清らかな心で仏を念じ浄土に生まれたいと願いなさい、臨終の時、仏はあなたを浄土から迎えます、と誓われています。

 また、第二十願には、疑いのない心で阿弥陀仏を信じ、一心に浄土に生まれさせてくださいと願って、弥陀の名号を称えなさい、と誓われています。

 そこで親鸞聖人は、まず自らの心を清らかにし、一心に阿弥陀仏を念じて、その真実清浄なる心を因として、浄土に生まれようとされたのです。けれども結局は、頭上にふりかかる火の粉を払うように、必死に努力しながら、かえってより多くの雑念が生まれ、不実なる自分が明らかになって、聖人はこの修行に挫折してしまったのです。

12 浄土真宗の念仏の教え (2024.2.3.更新)

 親鸞聖人を迷わせた念仏 ②

 29歳の時、親鸞聖人は比叡山の仏教と訣別して、法然上人のもとを尋ねられました。なぜ聖人は山を下りたのか。この事情について、聖人の妻、恵信尼が晩年、娘の覚信尼に次のような手紙を送っています。「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに…」すなわち親鸞聖人は、比叡山で「後世」の問題に非常に悩み、それを解決するために、一心に仏道に励んだのですが、求道しても求道しても、苦悩が一層深くなるばかりで、どうしても解決の道が見出せなかったのです。その解決のために、聖徳太子の夢の告げによって法然上人のもとにゆかれたのです。

 この親鸞聖人に法然上人は、ただひたすら生死出ずべき道を語られた、とその手紙に書かれています。そうすると、比叡山で修した親鸞聖人の念仏行は、聖人を悟りへ至らしめないで、逆により深い迷いに落としめたことになります。では、それはどのような念仏であったのでしょうか。

12 浄土真宗の念仏の教え (2023.1.5.更新)

 親鸞聖人を迷わせた念仏 ①

 さて、親鸞聖人の生涯において、最大の出来事は何であったでしょうか。苦悩のどん底にあった親鸞聖人が、たまたま法然上人に出遇って、弥陀の本願に生かされる獲信にあったといえます。

 親鸞聖人は生涯において、自分の生きざまをほとんど語られていないのですが、そのなかにあって、2つの事柄だけが語られています。一つは、一般に「三願転入」と呼ばれている、聖人自身どのようにして、真実の信心を獲得することができたかということであり、二つは、みずからが「慶ばしい哉」と述べている、獲信の喜びについてです。そうするとここで、親鸞聖人の生涯における関心事は、次の三点に絞られることになります。一つは、法然上人に出遇うまで、親鸞聖人はなぜ獲信することができなかったか。二つは、迷える聖人を獲信に導いた、その力とは何か。三は、獲信の瞬間、親鸞聖人の心に何が開かれたか。そこでこの三点に見られる念仏について、考えてみることにします。

 

12 浄土真宗の念仏の教え (2023.12.5.更新)

 はじめに ② 

 ある場合は、「ただ信心」といい、他の場合には「ただ念仏」という。これはまことにおかしなことです。なぜなら、「ただ」という言葉は、唯一のもの、そのもの一つであって、他のものをそこに入れない時に使う言葉だからです。したがって、「ただ信心」といわれる場合は、念仏はここでは除かれることになり、また「ただ念仏」といわれる場合は、今度は信心が除かれていることになります。

 そして親鸞聖人は、信心と念仏を並べて、「ただ信心と念仏が必要である」といわれていないのです。しかも信心と念仏を離しては、親鸞の思想は成り立ちません。これをどのように考えればよいのでしょうか。「念仏」という観点から、この問題を掘り下げてみたく思います。

12 浄土真宗の念仏の教え (2023.11.6.更新)

 はじめに ①

 親鸞聖人の思想の中心は、念仏と信心にあるといえましょう。どのように多くの言葉を費やして親鸞聖人について語ったとしても、念仏と信心の問題を、もし語らなかったとすれば、それは親鸞聖人の思想について、語ったことにはならないからです。しかもこの念仏と信心は、離れては成り立ちません。

 「信をはなれては行もなく、また行をはなれては信もない」といにわにれているように、親鸞聖人においては、両者は常に離れては考えられないのです。ところが聖人の言葉をいただいてみますと、一方では「涅槃の真因はただ信心をもってす」とか、「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし」と述べられており、他方では「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」とか、「ただ念仏のみぞまこと」といわれています。

 

11 親鸞の信と念仏 (2023.10.4.更新)

 ⑷ 親鸞の信心と念仏 ②

 ここにおいて念仏は、いかに称えるかが問題になるのではなくて、称えている念仏とはいかなる「法」であるか、その法の真実をいかに聞くかが非常に重要になるのです。私たちの常識からいえば、これは実に理解しがたい点だといわねばなりません。事実、称えられている「称名」は私の行為なのですから。そこで私たちはこの念仏を、どうしても私の「行」だと考えてしまうのです。けれども、もしその念仏行を私自身、私の「行」だと捉えるならば、その限りにおいて、私たちは「念仏」という行為性について、必ずや「はからう」心を臨終の一念まで残すのではないかと思われます。自分の称えている念仏には果たして自力心は無いであろうか。自分の信心はこれでよいであろうか。このような「はからい」が、次から次へと生じてくるからです。かかる「はからい」こそ自力そのものにほかなりません。この意味からも親鸞聖人は、衆生が称える念仏の行為性の意義を厳しく否定し、それにかわって、称えられている念仏の「法」の真実にを、一心に聞くことを強く求められたのです。そしてこの念仏の真実を、自分自身の全人格を通して真に聞き得たその瞬間が「獲信」の時であったのです。ここに親鸞聖人における真実の信心を見るのですが、この聖人の念仏と信心の構造については、別の機会に考えてみたく思います。

11 親鸞の信と念仏 (2023.9.6.更新)

 ⑷ 親鸞の信心と念仏

 親鸞聖人の念仏思想の大きな特徴は、衆生の行じ方を全く問題にしないことです。すでに明らかなように、衆生がいかに一心に念仏を称えたところで、その念仏には真実の心が有されていないことを、聖人は見抜かれていたからです。衆生の側から仏果に至る道は閉ざされている。それ故に仏がこの迷える衆生をただ一方的に摂取したもうのです。したがって聖人は、もしこの末法の世に真実の行道があるとすれば、この衆生を摂取したもう仏道ただ一つであると考えられたのです。そこでこの如来から衆生に来る仏道を、特に「大行」と呼ばれたのです。仏教一般では普通このような「はたらき」を、「行」だとはいいません。行とはあくまでも、衆生が仏果に至るために修すべき、みずからの行道を意味するからです。いわばこのような仏が衆生を摂取するような「はたらき」は、仏教では「大悲」と呼ばれ、また衆生にを仏果に至らしめるための、助けとなる縁という意味で「増上縁」と呼ばれる思想であったのです。けれども親鸞聖人は、阿弥陀仏の大悲である像上縁こそ、末法の愚かな凡夫にとっての、唯一の行だとみられたのです。

11 親鸞の信と念仏 (2023.8.8.更新)

 ⑶ 親鸞の問い ④

 これによれば、法然上人の教えとは、「真実の信心をもって念仏せよ」といわれているのではなくて、「称名せよ、汝を救う。」と弥陀は本願に誓われてる。その弥陀の本願をただ信ぜよと、教えられているのだということになります。『歎異抄』の第9条には「仏かねてしろしめして」ということばが述べられています。凡愚とは真実の心を抱きえず、ただ苦悩するのみなのです。それが凡愚だということなど、仏はとっくにお知りになっていられるのです。だからこそ阿弥陀仏はこの凡愚を救うために、みずからが行となり、信となって、凡愚の心に徹入されるのです。これが親鸞聖人によって明らかにされた、大行・大信の教えなのです。

11 親鸞の信と念仏 (2023.7.8.更新)

 ⑶ 親鸞の問い ③

 人々は弥陀の本願を「真実信心をもって念仏すれば往生する」と誓われている本願であると理解し、法然もそのごとく教えられたのだと受け止めてきました。だが、それが本願の真実だとすれば、弥陀の誓願とその本願の内容には、根本的な矛盾が横たわることになります。阿弥陀仏は「真実なき一切の凡愚を救う」という誓願をたてられました。ところでその本願に救いの条件として、もし「真実心のあるものを救う」と示されたとしたらどうでしょうか。その誓願は、凡夫は誰一人として救ってやらないぞ、と誓っていることと同じことになります。阿弥陀仏が本願にそのような矛盾を誓われるはずはありません。同様に、浄土にお還えりになられた法然上人の教えにも、そのような間違いがあろうはずはありません。だとすれば真実はただ一つ、親鸞が師の教えを間違って聞いていたということです。この求めを通して、親鸞聖人は法然上人の教えを改めて次のように聞いたのです。それは『歎異抄』第二条説かれる、

 「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり」

という聞き方であり、同時に、聖人の手紙(末灯鈔)第十二通に、

 「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。」

と示される、第十八願の解釈です。

11 親鸞の信と念仏 (2023.6.4.更新)

 ⑶ 親鸞の問い ②

 第18願には、確かに「真実の信心をもって念仏せよ。」と誓われているかのごとく窺えます。師法然もまたかく説かれたように親鸞聖人には思われました。けれども聖人にはどうしてもその一声の念仏が称えられなかったのです。真実の心で歓喜の念仏が称えられない。だとすればこの者は、師に背き、弥陀の本願に反逆する者だといわねばなりません。必然的にこの衆生は、本願の救いから除かれる者となります。ここに「唯除」の機こそ親鸞だという自覚が、聖人に生まれたのです。これは聖人にとって最大の苦悩となるのですが、それ故に聖人はここで今一度、弥陀の大悲と師法然の教えを、懸命に問いなおすことになるのです。果たして自分は本願から除かれるのであろうか。それとも自分は師の教えを、間違って聞いているのではなかろうか。そしてこの問いの中から、今まで人が全く気付きえなかった、仏教の真理に出遇うことになります。

11 親鸞の信と念仏 (2023.5.5.更新)

 ⑶ 親鸞の問い ①

 親鸞聖人の思想は、法然上人の仏教思想の帰結点より出発しているのです。法然上人によって導かれた仏道の結論は、「真実の信心にともなわれた一声の念仏によりて往生する」という道理でした。ところが親鸞聖人にはこの一点が、実は究極の問題となったのです。「はたして自分には真実の信心にともなわれた一声の念仏が称えられるのか。本当に自分は真実信心を作りうるのか。」単なる理屈ではなくて、親鸞聖人みずからの根源の問題として、この一点が問われたのです。法然浄土教には、二本の柱があるといえます。一は末法の衆生はどこまでも「凡愚」であるということ、二にはそれ故に阿弥陀仏の本願力は、この凡愚を救いたもうということを明らかにしたのです。ところで「凡愚」とはいかなる衆生をいうのでしょうか。凡愚とは、一片の真実心も無いもの、どのように努力しても、真実心を生み出しえないもの、この者が凡愚なのではないでしょうか。さればこの者には、本来的に真実の信心は無いというべく、もし、この者に真実信心をもって念仏せよといわれれば、当然この者は一声の念仏も称えることができません。

11 親鸞の信と念仏 (2023.4.3.更新)

 ⑵ 法然の信心と念仏 ③

 かくて法然浄土教の思想は、真実信心にともなわれた一声の称名によりて、一切の衆生は往生し仏果に至る、そう自覚した上で、衆生はただひたすら念仏を相続していれはよい、と捉えることができます。これはある意味で、仏教思想の集大成であり、仏道の帰結点を示す思想であるといえます。思想的にも、行道的にも、これに勝る仏教思想は他に存在しないからです。法然は第18願の「唯除」のことばを問題にしませんでした。なぜなら、念仏を相続している者は、法然にとっては、すでに阿弥陀仏を信じている者であり、阿弥陀仏に摂取されている者にほかならなかったからです。すでに弥陀の本願に抱かれている者が、どうして、本願から除かれましょうか。法然にとって「唯除五逆誹謗正法」のことばが全く問題にならなかったのは当然のことだといわねばなりません。ところが親鸞聖人にとっては、この「唯除」の文こそ問題になったのです。それはなぜなのでしょうか。

11 親鸞の信と念仏 (2023.3.4.更新)

 ⑵ 法然の信心と念仏 ②

 もし自分の心に真実信心が未だ生じていないと思われたならば、一心に称名念仏をしなさい。必ずや、真実信心があらわれるでしょう。真実信心があらわれたと思ったら、ますます念仏を相続しなさい。だんだんと信心が確固不動のものとなるでしょう。さればますます念仏に励みなさい。自然に念仏が称えられるようになるでしょう。そこに真実信心の念仏者の姿があります。このように法然は述べているのです。すなわち、いたずらに賢者ぶって、理論を並べて真実信心の有無を問うのではなくて、ただ愚にかえって称名念仏を相続しなさい。そこに真実信心があるのでよ、といっているように窺われます。

11 親鸞の信と念仏 (2023.2.6.更新)

⑵ 法然の信心と念仏 ①

 ところで私にとって「真実の信心」とは何なのでしょうか。まず第一にそれは「場」的におさえどころの無いものだといわねばなりません。私自身の全体をいかに細かく切り刻んだとしてしも、真実信心がここにある、とその場をおさえることはできないのです。またそれは形とか状態で表せるものでもありません。自然に現れるものではあっても、意識的に作ろうとすれば、それはすでに嘘になっているからです。これを裏からいえば、自然に現れたその心の状態を、時間的に留めたり固定したりすることはできないのです。

 真宗では「一念覚知」を厳しく否定しています。一念覚知がなぜ間違いかといえば、本来的に表現てきない「心」を無理に作り出そうとしているからなのです。実際の問題として、自分自身の心に真実の信心があるとは、自覚的に捉えがたいのです。けれども真実の信心が「往生の要因」であるならば、やはり私は、私自身のなかで明確に、真実の信心を捉えなければなりません。どうはればよいのでしょうか。これは法然教学の、一つの根本問題であったと思われます。そこで法然は、信心と念仏の関係をつぎのように論じています。

11 親鸞の信と念仏

⑴ 法然の念仏思想 ③

 もし法然の第十八願観を一言であらわすとすれば、「真実の信心にともなわれた、一言の称名によって一切の衆生は往生する」と解釈したと捉えられるのではないかと思います。ではなぜ、「一声の称名念仏」のみで往生できると、法然は言い切ることができたのでしょうか。この真理は善導によって明らかにされたのですが、一声の称名「南無阿弥陀仏」に、往生のために必要な「願と行」が完全に具足されているという真理を、法然自身、彼の全人格を通して信知することができたからです。しかもこの南無阿弥陀仏には、阿弥陀仏の功徳の一切が有にせられているという「勝徳性」と、誰もが、いつでも、どこでも行ずることができるという「易行性」のあることを見出すことができたのです。いわは「一声の称名」に仏道の完成を見たのです。ただしその一声の称名は、すでに願行が具足されているのですから、口に南無阿弥陀仏と一声する以上は、みずからが阿弥陀仏に対して、かの浄土へ生まれたいとの願いを、一心に表白していることになっています。それなら当然のこととして、心もまたそのごとくならなければなりません。でなければ、その念仏は単なる口先だけの行為となってしまい、口と心は一致しなくなります。そのような心と行為が完全に一致しない仏道は仏道ではありません。その意味からしてもこの称名には、真実の信心がともなわれていなければならないのです。

11 親鸞の信と念仏

⑴ 法然の念仏思想 ②

 この親鸞聖人の信心と念仏の思想の特徴を知るには、法然上人の第18願観との対比を試みると非常によくわかるのではないかと思います。それは法然が『選択集』で明らかにしている信心と念仏と、親鸞聖人が『教行信証』のなかで問うている信心と念仏についての、思想の差を見ることなのですが、その差のなかに親鸞思想の独自性が窺われるからです。この場合、いくつかの視点が考えられますが、私は「第18願」に誓われている「唯除五逆誹謗正法」ということばに焦点を当ててみたく思います。

 法然上人は『選択集』でこのことばを問題にしないのですが、それに対して親鸞聖人はこの語を『教行信証』で非常に重視しているのです。それは何を意味するのでしょうか。

11 親鸞の信と念仏 

⑴ 法然の念仏思想 ①

 「親鸞の信と念仏」という題が与えられました。私はここで、親鸞聖人が『無量寿経』の「第18願」の信心と念仏(三心と十念)の教えをどのように受け止めていたかを考えてみたく思います。よく知られているように、この「第18願」には、真実の信心と念仏によって、すべての衆生は往生すると、衆生の往因が誓われています。そこで浄土教徒は、この教えを非常に重視したのですが、願の内容が、「至心信楽欲生我国・乃至十念・唯除五逆誹謗正法」とあまりにも簡略であるために、人々はその真意をなかなか理解することができなかったのです。曇鸞・道綽・善導といった祖師たちが、懸命にその真意を求められたのはそのためで、この祖師たちの導きによって、第18願の真意は少しづつ明らかにされてきたのです。ところで私たち真宗者は、この第18願の究極の真意は、親鸞聖人によって開かれたのだと確信しています。親鸞の第18願観には、他の浄土教の祖師にも見られない独自性があり、それを超える思想はいまだ見いだされていないからです。

 

10 真宗の教えのかなめ 第53回 (2022.10.4.更新)

⑷ 獲信ということ ③ 

 ではなぜ親鸞聖人はこの時、法然聖人のほんの一言で、阿弥陀仏からの音声を、そのごとく聞くことができたのであろうか。親鸞聖人にとって絶望の奥底で、ただひとつ明らかになっていたことがある。それは自分とは、どうしようもない愚悪なる凡夫であって、仏果に至るための力は、己の側には何一つとして存在しない。しかもその自分がなお、自分の力に執着して、念仏をわが善根として、その念仏を通して、仏果を願い続けているということである。

 この絶対的自己矛盾が、愚かなる親鸞をして、自らを絶望の極致まで落としめたのだ。いわばこの場合の親鸞聖人は、自己自身が愚鈍の極みであることを熟知しつつ、しかもこの親鸞こそを、そのままの姿で摂取したもう弥陀の大悲を、いまだ真実信知しえなかったのである。この親鸞聖人に対して、法然聖人は一言「弥陀は汝の愚かさをとっくにお知りになって、親鸞一人を救うために、真如より念仏となって汝の心に至っているのである。」といわれた。この善知識の言葉によって、親鸞聖人は、念仏の真実を獲信したのである。

10 真宗の教えのかなめ 第52回 (2022.9.5.更新)

⑷ 獲信ということ ②

 第20願的念仏にしか出会いえていなかった親鸞聖人が、法然上人の導きによって、まさしく第18願の念仏に出遇いえたからにほかならない。では、第18願の念仏とは、いかなる教えであるか。宇宙の根源である仏・真如が、迷える衆生その人を救うために「南無阿弥陀仏」の名号となって、この者の心に至り来たる。それが第18願の真理である。とすればこの私が、南無阿弥陀仏の念仏を称えている、まさしくその事態が、私の阿弥陀仏に摂取されている「すがた」だといわねばならない。

 法然上人に出遇うまでの親鸞聖人は、懸命に念仏を称えつつ、しかもその自分が「すでに」阿弥陀仏に摂取されていることを知らずして、あくまで自分の外に阿弥陀仏を眺め、その阿弥陀仏の我を救わんことを、願い求めたのである。したがって、すでに弥陀の大悲に摂取されているにもかかわらず、その自分を「いまだ」救くわれていないと錯覚しているのであるから、その錯覚が、彼自身の全体で、まさしく錯覚であったと自覚しないかぎり、この者には、救いはありえない。親鸞聖人は絶望のどん底で、「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」という言葉こそ、阿弥陀仏の汝を摂取するとの、大悲心より出で来った音声であることをに、法然上人より教えられたのである。かくてはじめて、いままでの錯覚がその根底より打ち破られて、その瞬間、弥陀の真実信心を獲信することができたのである。 

 

10 真宗の教えのかなめ 第51回 (2022.8.9.更新)

⑷ 獲信ということ ①

 一体、法然上人は絶望にあえぐ親鸞聖人に対して、何を語られたのであろうか。釈尊から法然まで、違うことなく受け継がれ、伝えられてきた「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」という教法を繰り返し繰り返し語ったにすぎない。だが、その一言で親鸞聖人はまさしく、阿弥陀仏の大悲の一切「南無阿弥陀仏」の名号の真実を、ただちに信知して、ここに獲信するに至るのである。

 確かに親鸞聖人は、法然上人に出遇う以前にも、「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」という言葉を耳にしていた。だからこそ聖人はまさに身命を顧みず一心に、念仏を称えて阿弥陀仏に救われんことをこい願ったのであった。ところがこの念仏行は、親鸞聖人をして絶望に落としめている。ところが法然上人の一言は、親鸞聖人を獲信へと導いたのである。何が親鸞聖人の心を覚醒せしめたのであるか。

 

10 真宗の教えのかなめ 第50回 (2022.7.8.更新)

 ⑶ 念仏という行為 ④

 自らが手にしている最大の功徳とは、口に称えている阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」をおいて他にはない。第20願はかかる道を示している。この故に親鸞聖人は次に、第20願の教えに従って、一心にこの本願の教えを信じ、ただひたすら称名念仏を阿弥陀仏に廻向して、かの浄土に往生することを求め願ったのである。

 だが悲しいことに、親鸞聖人はこの念仏を通しても、自分は阿弥陀仏に救われて、必ず往生するのだという確証は、何一つとして得られなかったのである。このような私が、果たして救われるであろうかという不安は、限りなく生じても、念仏して救われたという心からの歓喜は、全く生じなかったからである。この念仏は、親鸞をしてただ絶望に落としめるのみであったのである。だが、親鸞はかかる絶望に堕したが故に、師法然上人と出遇い得たのであった。

 

10 真宗の教えのかなめ 第49回 (2022.6.3.更新)

 ⑶ 念仏という行為 ③

 自らのすべてをなげうって、心を清浄にし、仏体と一つになろうと念仏を修すれば修するほど、かえって逆に醜い妄念が心の奥底から限りなく湧き出てきたというのであるが、けれどもこの姿の中にこそ、実は、愚かなる凡夫の、偽らざる真実相があるといえるのではなかろうか。そこで親鸞聖人はまず第十九願の教えに従って、念仏行を修したのであるが、残念ながらこの行道に完成を見ず、ほどなく大きな挫折を生むに至るのである。

 もし自ら一心に念仏を修して、しかもここにどうしても、心の清浄性が見られず、永遠に仏果への道が断ち切られたとすれば、彼はこの挫折の中で、何を求めだすであろうか。自分自身の力においては、もはや絶対に仏果には至りえない。とすればここに必然的に生じる心は、自らの力のすべてを棄て去って、我を救うべき仏の力を、一心にこいねがうことになるのではなかろうか。ではこの場合、彼はいかなる心で、仏の救いを求めるであろうか。自らが手にしている、最も大きな功徳を一心に仏に捧げ、その功徳の力によって救われることを願うと言わねばならない。

10 真宗の教えのかなめ 第48回 (2022.5.7.更新)

 ⑶ 念仏という行為 ② 

 常識的な立場からすれば、身命をかえりみず、ただ一心に、口に名号を称え心にその仏心を念じつづけるならば、当然のこととして、自ずから心は静寂清浄になり、智慧が磨かれて、目の当たりに仏身を見、仏体と一つになって、この私が仏に成るのだと考えられる。そこで阿弥陀仏は、この衆生の心を見通して、まず第一に、かかる念仏を通して心が清浄になるならば、その衆生を救うであろうと述べられるのである。

 阿弥陀仏の第19願にこの教えが誓われている。当然、親鸞聖人もまた、この念仏道から、仏道の第一歩を踏み出されることになった。ところでこの時の親鸞聖人の一心の行道の状態を、後世、存覚上人が『嘆徳文』で「定水をこらすといえども、識浪しきりにうごき、心月を観ずといえども妄雲なおおおう。」と描写している。

 

10 真宗の教えのかなめ 第47回 (2022.4.8.更新)

 ⑶ 念仏という行為 ①

 釈尊は、南無阿弥陀仏を念じ称して弥陀に救われよ、という一言を遺してこの世を去られた。言い換えれば、釈尊は凡夫に対し、成仏の行道として、ただ念仏せよと言い続けられたことになる。では、この釈尊の教法を私たち凡愚は、いかに受け止めればよいのであろうか。

 迷える衆生が仏になる道を歩むとして、まず考えられることは、自分自身が努力して、己の心を鎮め清浄にし智慧を磨くということである。したがってこの立場より、衆生が「南無阿弥陀仏」と関わろうとするならば、南無阿弥陀仏を一心に口に称え、心に念じて、まさしくこの仏の根源と私が、一体になるべく念仏を相続しなければならない。

 

 

10 真宗の教えのかなめ 第46回 (2022.3.4.更新)

 ⑵ 真実と方便 ④

 ただし、宇宙のこの根源的原理は、十方各種の国土にあっては、それぞれの国土における諸仏の、出現を待たねば明らかにならない。わが娑婆国土にあっては、釈尊の出世を待たなければならなかったのである。これを逆にして言えば、諸仏はこの「南無阿弥陀仏」の真理を、その国土の衆生に教え伝えるために、出現されることになるのである。ここにおいて阿弥陀仏は、一切の凡愚を救うために、十方の諸仏を通して、彼の名号「南無阿弥陀仏」を、凡愚の心に至らしめ、しかして諸仏は、それぞれの国土において、ことに愚かなる凡夫に対して、ただひたすら「南無阿弥陀仏を念じて、阿弥陀仏に救われよ」と説かれ続けられているのである。

 では愚かなる凡夫は、この宇宙の真理にいかにして出遇居うるであろうか。釈尊の「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」という言葉を、どのようにすれば、真にそのごとく我が心に頂戴することができるのであろうか。

 

10 真宗の教えのかなめ 第45回 (2022.2.7.更新)

 ⑵ 真実と方便 ③

 無限の智慧と慈悲、限りない光と命を有する真如の仏が、愚かなる衆生の前に出現し、彼のものを救うためには、その功徳のごとく成就された、仏の名号として現れるしかない。ことにそれが凡夫(人間)であるならば、その凡愚の心に響く音声として、彼の心に至り届かなければならないのである。この真如が凡夫を救うために「すがた」を示して躍動する働き、すなわち真如が動くその意志を「方便」という。そしてその意志の、凡夫を救おうとする誓願の言葉が「南無」なのである。かくて「阿弥陀」と呼ばれる真如は、「南無阿弥陀仏」という名号となって、衆生の心に徹入し、その衆生をただ一方的に救うべく働きつづけられるのである。

 

10 真宗の教えのかなめ 第44回 (2022.1.8.更新)

 ⑵ 真実と方便 ②

 さて、親鸞聖人は真実の「証」である仏そのものを「無上涅槃・畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真如」であるとし、だからこそ阿弥陀仏は、「如」より来生して、報応化という種々の身を示現したもうのであると言われている。「宇宙の一切を包みその根源である仏」とは本来的には「すがたも、かたちも」ましまさない「空」そのものであるが、この清浄にして真実なる「真如」が、迷える衆生を救うためには、何をおいても、まず仏みずからがその衆生の前に「すがた」を現さねばならない。仏自身の真実性をそのごとく保ちながら、しかも迷える衆生が、その「真如」に導かれゆくように、衆生の前に仏が「すがた」を示さねばならないのである。

 

10 真宗の教えのかなめ 第43回 (2021.12.5.更新)

 ⑵ 真実と方便 ①

 ではなぜ宇宙の一切を包みその根源である仏が、「阿弥陀」と呼ばれるのであろうか。「阿弥陀」とは、古代インド語の「ア・ミタ―・ユス」「ア・ミタ―・バ」という言葉の音を、中国でそのまま漢字に写したもので、「阿・弥・陀」という漢字には意味はない。そこでその原意をたずねると、「ア」は否定の「無」、「ミタ―」は「量」を示す言葉であるから、「ア・ミタ―」は「無量」という意味になり、「ユス」は「寿命」を、「バ」は「光明」を意味するから、これより「阿弥陀」と呼ばれる仏は「無量の寿命と無限の光明」を有する仏となる。この故に「阿弥陀経」では「この仏は光明無量にして十方を照らし障碍することなく、また寿命無量にして限りなきがゆえに阿弥陀と号す」と述べられるのである。

 

10 真宗の教えのかなめ 第42回 (2021.11.4.更新)

 ⑴ 阿弥陀仏と衆生 ④

 では完全なる智慧と慈悲とは何か。「完全」と呼ばれる以上は、その智慧と慈悲は一切の場に至り、しかもそれが無限の時間、宇宙の一切を照らし輝かして、闇を破り続ける仏が、真の仏陀だということになる。この仏を「阿弥陀」と呼ぶが、かくて阿弥陀仏と愚かなる凡夫との関係が、真宗教義の最大の問題点の一つとなるのである。

 

10 真宗の教えのかなめ 第41回 (2021.10.5.更新) 

 ⑴ 阿弥陀仏と衆生 ③

 ところで釈尊はいかにして「仏陀」になられたのであろうか。迷いの根源を断ち切るための、完全なる智慧を完成させたからである。では完全なる智慧とは何か。いうまでもなく、清浄で静寂な心を通して、真実と虚偽、何が善であり、何が悪であるかの一切を見る目を持ったことを意味するが、ただ単にかく見分ける目のみであるならば、それは完全なる智慧ということはできない。虚偽に悩み、悪に苦しむ者を見て、楽しむ智慧など存在しないからである。それ故に、完全なる智慧には、その悩み苦しむ者を見て、彼らを真実にして善なる方向に導く働きが備わっていなければならない。智慧が完全であるということは、そのままそこに完全なる慈悲が備わっていることを意味するのである。

 かくて智慧と慈悲を完成させる道が仏道であり、完全なる智慧と慈悲の成就者が仏陀だということになる。すなわち「仏の性」とは、完全なる智慧と慈悲が、常に同時に有せられていなければならないのである。

 

10 真宗の教えのかなめ 第40回 (2021.9.5,更新)

 ⑴ 阿弥陀仏と衆生 ②

 仏教の特徴は自証教であると言った。自らが己の迷いを破って証(さとり)に至る道を求めるのである。とすれば仏教で最も重要なことは、「迷い」の原因を知るということと、「悟り」に至る道を歩むということであると言わねばならない。迷いの原因は、自分が道に迷っている状態を考えればよいのであって、これよれ見れば、正しい方向が分からない「無知」が、迷いの根本原因となり、無知を破るための「智慧」を磨く行為が、悟りへの道の歩みだといえる。ところがここに困ったことが一つ生じる。

 愚かなる凡夫が智慧を磨くとどうなるか。なるほど少しは広くものを見る目を持ちうることになるが、その目は同時に自らの心をも、より深く見つめることとなるのである。そしてそこにどうにもならない極悪愚鈍の自分を見出す。さらに汚い自分が、磨く奥から顔を出すからで、悟りへの道を求めながら、より一層、苦悩し迷い続けねばならない自分が、ここに顕になる。ではこの者にとっての悟りの可能性は、果たしてあるといえるだろうか。

10  真宗の教えのかなめ 第39回 (2021.8.6.更新)

 ⑴ 阿弥陀仏と衆生

 世界宗教を問題にするとき、私たちはまったく性質を異にする二種の宗教に出会う。一つはキリスト教に代表される「救済教」としての宗教であり、他は仏教にみられる「自証教」としての宗教である。いずれもこの現実で、迷い苦しみ悩んでいる人々に、無限の慶びを与えようとしているのであるが、前者は、神が迷える人間を救うという方向で、後者は、迷えるもの自らが自己の心を破るという方向で、「慶び」が見いだされるところに、両者の教えの根本的ともいうべき違いがある。

 ところがその仏教の中に、救済教的性格の非常に強い仏教がある。それが浄土教で、その頂点に、親鸞聖人が明らかにした「浄土真宗」の教えが見られる。それはどのような仏教なのであろうか。

 

9 真宗は大乗の至極なり 第38回 (2021.7.4.更新)

 ⑶ 大乗菩薩道 ②

 さてここで、親鸞聖人の仏道に目を向けてみたく思います。それは法然上人もまた同じ道を歩まれているのですか、「真宗」の念仏者として、お二人はどのような仏道を歩まれたのでしょうか。「ただ念仏して阿弥陀仏に救われなさい」という説法のみの、ご一生であったとうかがえます。そこには何のはからいも、力みも見られません。たんたんと人々に念仏を勧められている、ただそれのみです。

 人生の苦悩にうちひしがれた多くの人々が、この教えに導かれて、心から喜び、生きる光を得て、各々が、念仏者としての仏道を歩んでいるのではありませんか。とすれば法然も親鸞も、愚かなる凡夫道のただ中にありながら、まさしく智慧と慈悲に輝く大乗菩薩道を、邁進されているといえます。これこそ「真宗は大乗の至極なり」といわれる、念仏の大道です。

9 真宗は大乗の至極なり 第37回 (2021.6.4.更新)

 ⑶ 大乗菩薩道 ①

 仏教者の願いもただ一つだといわねばなりません。それは自らが無上仏になることです。この願いは仏道者である限り同じであって、菩薩は言うにおよばず、いかなる凡愚も無上仏になることを願うのです。ところでいま無上仏が「南無阿弥陀仏」という言葉になって、私の心に聞こえてきたのです。その声は無上仏の、私を無上仏にせしめるための願いです。「南無阿弥陀仏」をたのめ、汝を無上仏にせしめるぞという仏の呼び声が、私の心に響いているのですね。しかも私自身も心から無上仏になることを願っています。とすれば私もまた「南無阿弥陀仏」と称えつつ、南無阿弥陀仏に一切をまかせる以外に、私の仏道はありえなくなります。この仏からの「南無阿弥陀仏を称えよ」という願いが、阿弥陀仏の大信心であり、信楽なのです。そして仏道とは「南無阿弥陀仏」のみだと私が信知する時が、私の獲信の瞬間であり、まさに仏果の定まる時なのです。

9 真宗は大乗の至極なり 第36回 (2021.5.6.更新)

 ⑵ 一声の念仏 ③

 では無限に輝く無上仏の功徳とは何か。空間的には「光明無量」、時間的には「寿命無量」となりますから、これを一言で表現すれば「阿弥陀」という仏の名号がここに出現します。しかもこの仏の、衆生を救う発願が、「南無」と発音されるのです。

 この故に、一声の「南無阿弥陀仏」が無上仏の、私を摂取したもう「大行」になるのです。

9 真宗は大乗の至極なり 第35回 (2021.4.5.更新)

 ⑵ 一声の念仏 ②

 最高の仏が無上佛です。この仏には本来「すがた・かたち」はありません。真如と呼ばれ、完全なる智慧と慈悲によって、宇宙の全体、一切の時間と空間を覆い尽くしているとみることができます。

 では、この仏の願いとは何か。仏の願いはただ一つであって、迷える一切の衆生を救いつづけること、これ以外に仏の願いはありません。だからこそ仏は、この願いを実現させるために、一切の空間と時間を覆い尽くしている宇宙の根源から、無限の功徳をもって衆生を救うという意志と行為を、その衆生の前に出現させるのです。

 では、具体的にそれは何でしょうか。真如からの言葉、仏の功徳の一切を具する「名号」なのです。

9 真宗は大乗の至極なり 第34回 (2021.3.4.更新)

 ⑵ 一声の念仏 ①

 親鸞聖人はこの末法の世において、一声「南無阿弥陀仏」を称えること、その称名を、一切の衆生が仏果に至る唯一の仏道であり、「易行の至極」だと捉えられます。愚かな凡夫ばかりの社会では、もはや真の意味で、仏道は成り立ちません。愚悪なる者の仏道は、たとえどのように懸命に、善行に励んだとしても、その行為の一切が雑毒であり、虚仮の行でしかありえないからです。

 ではこの人間社会で、もし無限に輝く仏教があるとすれば、それはどのような仏の教えでしょうか。教えそのものの中に、凡愚をして仏果に至らしめる、行業と証果の功徳の一切が含まれている、そしてその「教」が大行となって、無条件で凡愚の心に来り、凡愚を直ちに仏果に至らしめる、そのような仏教だといえます。

 「南無阿弥陀仏」とは、まさにその「大行」なのです。だからこそ私たちが称える一声の念仏が、いともたやすく仏果に至る「易行の至極」になるのです。では「南無阿弥陀仏」とは一体何か。それがなぜ「大行」と呼ばれるのでしょうか。

 

 

9 真宗は大乗の至極なり 第33回 (2021.2.6.更新)

 ⑴ 智慧と慈悲 ②

 大乗仏教ではこのような仏道者を「菩薩」と呼んでいます。そしてこの大乗菩薩道の実践こそ、大乗仏教の特徴なのです。ところで今日の現実社会では、この菩薩道の実践は極めて困難だといわねばなりません。これも曇鸞大師の言葉ですが、「この世にはすでに仏がましまさず、世の中はまことに乱れている。誰一人真実を見る目を持っていないから、菩薩道そのものが成り立たない」といわれます。

 道綽禅師もまた、今の世を末法時代だとして、阿弥陀仏の浄土教しかありえないと教えられます。親鸞聖人ご自身も、「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」と、いかに菩薩道の実践が成り立たないかを悲しまれます。だが、この悲しみの中で、親鸞聖人は一心に仏道を求められ、釈尊の真意を法然上人から聞き、阿弥陀仏の「浄土真宗」のみ教えに出遇われたのです。

 

 

9 真宗は大乗の至極なり 第32回 (2021.1.9.更新)

 ⑴ 智慧と慈悲 ①

 仏教は智慧と慈悲の実践に尽きます。智慧と慈悲の実践を永遠にしつづけることが仏教に他ならないからです。では、智慧と慈悲の実践とは何か。このことについて、曇鸞大師は次のように語られています。

 真の仏道者は、智慧によって、自分自身が楽をすることを求めません。すでに我欲に貪著する心から離れているからです。智によって善を為し悪を廃します。慧によって空無我を知るのです。そこでこの実践が可能になります。また真の仏道者は、慈悲によって迷える一切の人々に対し、苦しみを抜き安らぎを与え続けます。苦しみを抜く心が慈であり、安らぎを与える心が悲なのです。かくて真の仏道者は、迷えるその人のために、あらゆる方便をもって、この者を仏道に入らしめます。この智慧と慈悲の実践の喜びが真の仏道なのです。

 では、一体、真の仏道者とは誰なのでしょうか。

 

 

 

8 アミダ様の光明 第31回 (2020.12.5.更新)

 ⑶ 聞光力のゆえなれば ②

 ところで私の心が真実信心の光で輝いているということと、私の心が真実心になるということとは意味が違います。私の心はやはり、どこまでも貪愛と瞋憎が満ち満ちている、不実心そのものでしかないからです。けれども往生のために、その煩悩を断絶する必要はありません。煩悩の雲霧がいかに信心の天を覆ったとしても、そのような障碍を全く問題にしないで、この心は仏の心光に照らされて、燦然と輝いているからです。煩悩の存在は、私たちにとっては慚愧の問題です。それ故にこそ、この凡夫を摂取するために、「聞光力」となってわが心に来たっている念仏の光を、私たちは一心に聴聞しつづけねばならないのです。

 

8 アミダ様の光明 第30回 (2020.11.11.更新)

 ⑶ 聞光力のゆえなれば

 親鸞聖人が阿弥陀仏の光明を讃嘆されている中に、「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す」という和讃がみられます。煩悩の眼では、光明の輝きは見ることはできないのですね。だからこそ、光明の輝きがそのまま名号として、愚かな凡夫に聞こえてくることになるのです。その如来は、「無量・無辺・無碍」の光明を成就されて、「尽十方無碍光如来」となられたのです。それはただ、一切の衆生を救うための本願の成就によります。それゆえに、光明が「帰命尽十方無碍光如来」という名号となって、私たちの心に響流せられるのです。この言葉をインドの発音にもどせば、「南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ」となります。南無阿弥陀仏の名号が聞こえ、念仏が私の口から称えられるということは、まさに私の心は、真実信心の輝きで満ち満ちているのです。

8 アミダ様の光明 第29回 (2020.10.13.更新)

 ⑵ 大悲は倦(ものうき)ことなく

 これもまた『正信偈』の文ですが、「我また彼の摂取の中にあれども、煩悩眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなくして常に我を照らしたもう」と、親鸞聖人は光明の功徳を嘆ぜられています。私たちの煩悩は、眼を遮っていますので、阿弥陀仏の光明を直接見ることはできません。だが、たとえ、その光明が見られなくても、阿弥陀仏の摂取の光明は、一瞬の休みもなく、この私を照らしてくださっているのです。この言葉は、源信和尚のみ教えによる光明の讃嘆なのですが、ここでもまた私たちの煩悩の眼が、弥陀の光明を直視することの不可能性を示して、その光明の輝きのすばらしさが語られているのです。

 とすれば、阿弥陀仏の光明が信知された瞬間が、一切の闇が破られる瞬間になります。けれどもその闇の破れは、直ちに煌々とした輝きに浴するのではありません。直接見ようとすれば、かえって煩悩の眼は眩んでしまいます。むしろ眼を病むものにとっては、暗闇のような雲霧の下で、その闇の破れた明るさが喜ばれるのです。なぜなら一度闇が破られて暁になった以上は、大空で燦然と輝く太陽が、この私を照らし続けるからです。

 阿弥陀仏より回向された「真実の信心」は、私の心の根源で、無限の輝きを放ちます。その輝きは、衆生のいかなる煩悩も問題にいたしません。真実の光には疑蓋がまじわることはありえないのです。あたかも大空の太陽がいかなる雲霧も問題にしないように、信心の無限の輝きは、貪愛や瞋憎の雲霧を全く問題にせず、この者を仏果に導かれるのです。

8 アミダ様の光明 第28回 (2020.9.7.更新)

 ⑴ 雲霧の下明らかにして ②

 一般的には、「夜が明ければ、たとえ墨のような雲が立ち込めて太陽を見ることができなくても、そこはすでに明らかであって、昼と夜との区別のつかないことはありえません。同じように、常に摂取の心光に護られていることを信知している念仏者の心は、どのように貪愛や瞋憎の雲霧で覆われていても、すでに闇が破られているのですから、本願を疑う闇の心とは、雲泥の差があるのです」と解されているように思われます。
 もちろん聖人のこのお言葉を、このように頂いても、十分有難いのですが、それでも「雲霧の下明らかにして」の「明らか」の意味が、どうしても理解しがたいのです。
 明らかとは、燦然と輝いているすがたであって、黒い雲に覆われて闇のごとく暗くなっている空の下を「明らか」とは言えないように思えるのです。ことに真実信心をどこまでも覆っている、貪愛と瞋憎の黒い雲霧が自覚されるならば、自分の愚かさが悲嘆されこそすれ、暗闇のような雲霧の暗さを、「明らかにして」と喜ぶ心など生じるはずはありません。そうすると、この「明らかにして」は、雲霧の暗さを讃嘆しているのではなく、自分の心は雲霧のみでも、摂取の心光はその雲霧などには全く影響されず、常に煌々と輝いてる。その光明の輝きを嘆じていることになります。

 

8 アミダ様の光明 第27回 (2020.8.18.更新)

 ⑴ 雲霧の下明らかにして

 私たちは親鸞聖人のみ教えに導かれているのですが、その教えの意味が、考えても考えても、いまひとつ理解できないことがよくあります。『正信偈』の「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり。たとえば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇なきがごとし。」も、その理解しがたい文の一つだといえます。もちろん大意はそれほどむつかしくはありません。

 「阿弥陀仏の無碍の光明は一切の衆生を、常に摂取してくださっています。したがって、真実の信心を得ている人は、その光明の輝きによって、我が心の無明の闇が、すでによく破られていることはを信知しています。だが、それにもかかわらず、我が心の貪愛と瞋憎の雲霧は、この真実信心の天を常に覆っています。けれども、日光がたとえ雲霧に覆われていても、雲霧の下は明らかであって、闇が無いのと同じように、真実信心の念仏者は、たとえ心がいかに雲霧に覆われていても、その心には、無明の闇はもはや存在しないのです。」

 『正信偈』の大意をほぼこのように理解することができるのですが、問題は「雲霧の下明らかにして闇なきがごとし」が今一つはっきりしないのです。

7 一人居て喜ばば二人と思うべし 第26回 (2020.7.3.更新)

 ⑶ 孤独で惨めな死 ②

 だが、その本人が今、突如、死に至る病にかかったのです。誰もいない病室で、医療器具におおわれて寝かされている。完全に自由を奪われ、肉体は見る影もなく衰えている。しかも血を採られ肉を削られる。全く苦痛に耐え忍ぶことができない者が、孤独で淋しく、惨めで痛ましい、言語を絶するこの苦悩を味わいつづけねばならないのです。さらに、完全看護のために、誰一人として私に近づく者はいないのです。

 なぜ今、念仏なのでしょうか。なぜ、今、浄土が問われねばならないのでしょうか。凡夫の人生は、つまるところ、喜ぶべきことを喜ばないで、結局苦の因にしかならない欲望を、追いかけつづけることしかできません。

 この愚かなる者を、無条件で救おうとされているのが、念仏となって我が心に来たっている、阿弥陀仏の大悲であるのです。この大悲の喜びを、私のそばで、常にやさしく語りつづけられているのが、親鸞聖人にほかなりません。現代人である以上、私たちは誰しも、孤独で痛ましい死を、免れることはできません。だからこそ私たちは、健全で快楽を味わっているこの時に、寄せかけ寄せかけ来たる阿弥陀仏の大悲と、親鸞聖人に導かれる喜びを、はっきり覚知することが重要になるのです。

 

7 一人居て喜ばば二人と思うべし 第25回 (2020.6.5.更新)

 ⑶ 孤独で惨めな死

 現代人は一体、どのような臨終を迎えようとしているのでしょうか。家族の一人が、死に至る重い病にかかったとします。私たちは慌てて、その病人を、最も設備の整った病院に入院させることにします。もし科学の粋を集めた病室で、完全なる看護が施されたとしたらどうでしょうか。たとえ病人が死に至ったとしても、おそらく家族は、病人のために、それだけのことを為したのですから、別れの悲しみはあっても、十分なことをしてやった、という満足感を味わっているといえるのではないかと思います。

 ところで今、この事態を入院させられる病人の側から考えてみたいのです。その病人の臨終に、天人の臨終の姿が、果たして重なってこないでしょうか。

 現代人の生きざまの特徴は、豊かさと便利さ、その快適な生活の中で、明るく楽しく、若さと健康を求めて、愉快に日々を謳歌することでした。そうすると、現代人の心は、人生の中で、もしこの逆のことが不意に起こったならば、その苦痛を耐え忍ぶことができなくなっているといわねばなりません。だからこそ人は、その苦痛がこないように、より快適な環境を作り、最終的には、自分だけは不幸に陥りませんようにと、一心に神仏に祈って、災いを「おはらい」し続けるのです。

 

7 一人居て喜ばば二人と思ふべし 第24回 (2020.5.6.更新)

 ⑵ 天国が近づいている②

 ところでこの天国を、仏教では「迷い」として捉えています。ではなぜ天国が迷いなのでしょうか。天国もまた「無常」の理のなかに置かれているからです。天国には穢れがありません。天人の生活は、清らかで美しく、快適で楽しみに満たされています。どのような苦も存在しない。ところが天人にも、死が存在するのです。死は穢れにほかなりません。されば天国の自然の道理として、死期の迫った天人は、他者の目に触れることなく、ただ独りの場に追いやられることになり、そこで清らかで美しい肉体のすべてが、突如、醜悪に化し、無残にも天国から追放されることになるのです。この時に味わう苦悩は、地獄のどん底に居る者よりも、より悲惨な苦であるが故に、天国は迷いだとされているのです。私たちの生活が、天国に近づいているということは、人間もまた、この苦渋を味わう者となったということでもあるのです。

 

7  一人居て喜ばば二人と思ふべし 第23回 (2020.4.7.更新)

 ⑵ 天国が近づいている

 現代に生きる私たちは、概してこの世をどのにように捉えているでしょうか。豊かさと便利さ、それに明るさが加わって、気の合った仲間たちと、まことに楽しくこの世を謳歌し、幸福感に浸っているといえるのではないでしょうか。

 古代や中世の人々、否、つい百年ほど前の人から見ても、まさしく天国に近づいているといえるほど、結構なことが世の中に溢れていると、言えなくはないからです。欲をいえば限りなのですが、それでも人はなお、より豊かで便利な、そして快適な生活を求めて、未来を切り開こうと躍起になっています。重い病の場合は、他人の肉体をも、利用できる限り利用して、我が身を生かそうと努めています。和を求め友を作り、老いをも突き破って、若さと健康と楽しみに満ち満ちている世を、ここに実現させようと、人々は努力しているように見受けられます。もしこのような世界が実現すれば、それは天国でなくて何でありましょうか。まさに欲望に充ちた天国が近づいているのです。

 

7 一人居て喜ばば二人と思ふべし 第22回 (2020.3.3.更新)

 ⑴ 報恩講の歌

 「一人居て喜ばば二人と思ふべし」という言葉は、親鸞聖人の『御臨末の御書』として、

  我が歳きはまりて、安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲のかたを浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同 じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし、二人居て喜ばば三人と思ふべし、その一人は親鸞なり。

 と伝えられている一文のなかから採られています。そしてこの言葉は「報恩講の歌」として、今日ほとんどそのまま「和歌の浦曲の片男波の 寄せかけよせかけ帰る如く 我れ世に繁く通い来たり み仏の慈悲つたえなまし。一人居てしも喜びなば 二人と思え二人して 喜ぶおりは三人なるぞ その一人こそ親鸞なれ。」と歌われています。

 私ごとになりますが、わたしは和歌山の生まれで、和歌の浦はしばしば訪れた思い出の地です。近代化の波にのって、和歌の浦の景観もずいぶん壊されてしまったのですが、片男波の海岸線は、かろうじて名残だけはとどめています。

 波には男波と女波があり、寄せかけて来るのが男波、引いて行くのが女波とされています。「片男波」は、男波が非常に強く、女波は弱いので、男波のみの海岸、という意味で、かく名付けられたのでしょう。自分がただ一人、今この南国の明るい太陽のもとで、藍くすみきった大海原に向かって佇んでいる。ひろびろとした浜には人影が見られず、寄せかけ寄せかけ来る波の音だけが、耳に響いている。このような光景を描いてみましょう。この世で自分はただ一人である。この自覚がなぜ今、必要なのでしょうか。

 

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第21回(2020.2.6.更新)

 ⑶ 阿弥陀仏の大悲を頂戴せよ ②

 ところで、ここに言う「阿弥陀」とは、無限の智慧と無量の慈悲という意味なのですが、さればこの仏こそ、仏の根源、法の究極だといわねばなりません。究極の法は必然的に世界の一切を包みます。すなわち世界の一切は、この法によってまさしく平等に摂取されているのです。言い換えますと、世の一切の衆生は、すべて阿弥陀仏の「一子」としてあるということなのです。だとすれば、衆生にとって最も重要なことは、私が、阿弥陀仏の一子であるという事実に、速やかに疾く目覚めることだといえます。我れ凡愚なればこそ、仏の大悲は、凡愚を救いたもうという誓願を信知し、その大悲心を、ただ頂戴せよ。ここに親鸞聖人の私に対する願があります。

ざ 

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第20回 (2020.1.6.更新)

 ⑶ 阿弥陀仏の大悲を頂戴せよ ①

 衆生の側の仏道としての、一つの善も、一つの行もない、それが末法の仏教の真の姿です。その意味からすれば、末法の仏教では、衆生の証果への道は、完全に断ち切られているといわねばなりません。けれども、その末法において、仏の教えがいまだ燦然と輝いているのはなぜでしょうか。たとえば凡愚には見えないとしても、衆生が必ず証果に至ることのできる大白道(おおいなるしんじつのみち)が、はっきりと開かれている証拠だといえましょう。愚かなる凡夫の一人一人を、必ず仏果へ至らしめようとする以外に、仏の教えの存在意義はありえないからです。というよりも、仏は迷える凡愚を救うためにのみ、ましまされるのです。そうだとしますと、釈尊が世に出られた本意は、その仏教の真実を示さんがためであったといえます。釈尊の仏教には、たとえ末法の時代が来ようとも、時代を超えて永遠に凡愚を救済しつづける仏教ーそれが阿弥陀仏の大悲の仏教なのですがーその仏教が、仏教中の唯一の真実の仏教だということになります。

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第19回 (2019.12.19.更新)

 ⑵ 自己の真実を信知せよ ②

 よく知られているように、末法時代とは、釈尊がなくなられてから、1,500年をを過ぎた時代を指し、そのころには釈尊の感化力も大きく衰退し、いまだ仏教は教えを残すものの、もはや仏道を修しえなくなる。それが末法の時代なのです。したがって、人がいかに仏になろうと願い、仏心を捜し求めたとしても、仏の心はどこにも見出させず、いわんや捉えることができない。この末法の仏教者の、悲痛な叫びが「愚禿」の自覚を生ましめたのです。それはまた、なんと厳しい自己の見つめでありましょうか。

6 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第18回 (2019.11.5.更新)

 ⑵ 自己の真実を信知せよ ①

 そこで重要なことは、教えの面白さなのではなくて、一体「教」が、人に、何を説いているのか、「人」は教えに何を求めているか、その内容だということになります。偽らざるところ、私たちは、自分の欲望を満たしてくれる、甘い言葉には惹かれます。それは自分の求めが、そのような世俗的な欲望を満たすことのみに、向けられているからです。いわゆる「現世と来世のご利益」の求めなのですが、そのようなところで、いかに教えと心が一致しても、そこからは、真の喜びは、何ひとつ生まれてきません。ただ、迷いの原因を作っているにすぎないのですから。では親鸞聖人は、私たちに、何を聞き、何を求めよと教えられているのでしょうか。親鸞聖人が、生涯かけて求められたことは、ただ一つであったといえます。真実の仏教とは何かということ、それはとりもなおさず、この現実において、親鸞をして、仏果(証り)に至らしめる仏道は何かということです。この求めの中で聖人は、今という時代を、すなわち現実の社会の相と、自己の本質を、極めてするどく、ごまかすことなく、見つめられました。そこで今の世が「末法」であり、ここに生きる自分は、いかんともしがたい凡愚であるということを、突きつめられたのです。

 

6. 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー 第17回 (2019.10.7.更新)

 ⑴ 真実の教えを聞思せよ ② 

 だが、少し考えれば、誰でもわかることなのですが、そのような人生の姿は、愚かなる凡夫が抱くはかない夢であり、幻影でしかありません。現実の自分に待ち受けているのは、孤独な老いと痛ましい病と、そして最悪な不幸に伴われたみじめな死だけなのですから。仏教は人生のこの事実を「無常」という理を通して、人々に語るとともに、その最悪の中において、人はいかにして、無限の喜びに出会いうるかを、教えようとしています。親鸞聖人は、生涯をかけて、その「喜び」を求められ、獲得されたその心を、人々に語られているのです。だとすれば、この教えは世俗の幸福論ではなく、いわんや、現世のご利益を説く教えでもありません。それらの求めの愚かさが明らかにされているのです。したがって、もし人が世俗的な「人生の幸福」を求めて、親鸞聖人の教えに耳を傾けようとするのであれば、教えが全く面白くないのは当然のことです。

 

 ⒍ 親鸞聖人の願いーそれは私にとってどういうことかー

 ⑴ 真実の教えを聞思せよ

 よく浄土真宗の話は面白くない、ということを聞きます。現実生活とかけ離れたことばかり話されるから、生きる糧には全く役立たないというのです。これはある意味で、的を射ており、親鸞聖人の教えの、最も重要な一面がよく捉えられております。教えを聞き求めようとする者は、必ず何らかの問題意識をもっており、それについての疑問点を聞こうと欲しています。話す方は、その求めに、まさしく答えねばなりません。両者の心がそこでぴったり一致してこそ、教えはおもしろく聞かれることになるのです。それは宗教においても同じだといえます。

 ところで人は概して、宗教にどのような教えを求めているのでしょうか。そのほとんどが、教えを通しての喜びに満ちた幸福な人生のあり方を聞こうとしているのではないかと思います。では人々にとって「幸福な人生」とは何なのでしょうか。安穏無事、愛する仲間とともに、豊かさと健康と若さに恵まれて、己が生を明るく楽しく暮らす、このような人生が実現すれば、それこそ幸福だといえるのでしょう。そこで人は、その「幸福な人生」の実現を、宗教に求めることになるのです。

 

 5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第15回 (2019.8.18.更新)

 親鸞の心 ②

 理性があり、知性豊かな人は、ともすればその知に自惚れ、おぼれるものだといにわれます。この故に、知性の中にいる私が、実は凡愚でしかないのだという恥じらいが必要なのです。でも、このことを覚知するためには、厳しく自己を律し、己が行為をどこまでも反省するという、強靭な心がなければなりません。この心は容易なことでは求められぬと言わねばなりませんが、現代人のもっとも忘れている心がこれだとすれば、私たちは、この親鸞聖人の心こそを大切に求めねばならぬのではないでしょうか。人間である以上、理性にもとずく努力を、どこまでも強調しなければなりませんが、それ故にこそ、他方において、その努力のなかで見忘れがちな「恥じらい」にも気づかねばならないのです。この全く異質の二つの心が、同一の私の心に生じるということは、まさに矛盾としかいえません。でも、この矛盾が悩みとなるのではなくて、見事に調和されるところに、念仏の世界の不思議さがあるのです。ここで念仏が問題となりますが、この点については、また改めて求めてみたく思います。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第14回 (2019.7.4.更新)

 親鸞の心 ①

 人類が他に誇りうべきものは、やはり知性だというべきでしょう。したがって、理性を抜きにした私たちの生活は考えられません。どこまでも、理性を通し良心にもとづいて生き抜くべきです。だが、人間知の極致が、きわめて不完全なものでしかないとすれば、私たちは、この理性のなかに、大いなる恥らい、謙虚なる心を抱かねばならないのではないでしょうか。親鸞は人間存在の姿を、凡愚という言葉でとらえました。それはまさしく、このような点を言ったのだとうかがえます。悪をはたらき、なまけ、他をごまかす。ただそのようなことをする人の半面を見て、凡愚だといったのではありません。真実を求め、平和を願って、懸命に働いている人間の姿、その真っただ中に、極めて愚劣なる人の心を親鸞は見出したのです。そして本来、そのような姿でしかない人間の本質を、「凡愚」という言葉で表現したのです。では凡愚とはいかなる心なのでしょうか。これが人間存在の深奥を通して導きだされ言葉だとすれば、単なる怠け心を指すのではないことは言うまでもありません。それは全く逆なのであって、人間としての道を忠実に努力して歩んでいる者にして、はじめて気づかされる心だというべきではないでしょうか。

 

⒌ 凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第13回 (2019.6.11.更新)

 反省と行動 ③

 人々は何を基準に善悪を判断しているのでしょうか。長い歴史を顧みれば誰にでも明らかなように、時代社会の相違によって、善の概念は大きく異なってきました。ある国の善は、必ずしも他の国では善ではなく、同様に、ある時代の善は、必ずしも他の時代では善とは呼ばれなかったのです。なぜでしょうか。言うまでもなく、人々はすべて自己を中心としてしか行動をとれない存在であったからです。だから自分にとって都合が良いことが、往々にして「善」と考えられたのです。これでは、その善が他人にとって、必ずしも善と呼びえないことは、当然だといわねばならないでしょう。こう見れば、私たちは良心とか理性とかを持ちながら、そのものこそが全く頼りにならないものということなるのではないでしょうか。では、私たちは何を求めて生きるべきなのでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第12回 (2019.5.5.更新)

 反省と行動 ②

 ここで今一度、公害の問題を振り返ってみましょう。あるいは人類を滅亡においやるかも知れぬといにわれておりますこの悪弊、その原点においても、はたしてそれが、人間の悪知恵を通して作れ出されたものなのでしょうか。どうもそうだとは言い切れないように思われます。否、むしろそれは逆であって、少なくともその当初では、私たちの良心、あるいは理性の結晶を通して、人類のために作り出されたものであったはずです。だがその結果はどうでしょうか。その巨大なるものによって、人類は今や人間性を喪失し、荒らされた自然のなかで、食物に、水に、空気にさえも不自由を感じだしたのです。ここに、人間の知性への疑惑が人々によって強く意識されはじめたのです。

 それはごく最近の出来事だというべきでしょうか。良心に従い、理性の粋を集めて、人類のためを思って成し遂げたことが、必ずしも人間にとって良き結果をもたらさない。知識人、ことに自然科学者によってそう思われだしたのは。そこでこのような観点にたって、私たちが考えてきた善とか良心とかを、いま少し掘り下げてみましょう。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第11回 (2019.4.5.更新)

 反省と行動

 人間とは恐ろしいものだ、ということは古来、言いふるされた言葉です。だがこの場合の恐ろしさは、人間のもつ悪知恵を指しているように思われます。確かに私たちは、良心の外に悪賢い心を持ちあわせています。他人を落とし入れたり、ごまかしたりする心です。あるいはまた、他と争い、それを征服しようとする心も、この部類に入るというべきでしょうか。したがって、このような心が強く働いた時には、世が乱れ,争いが起るといわねばなりません。このゆえに私たちは、できる限り悪心をおさえ、良心を磨かねばならぬと言い続けられてきたのです。だが、果たして、私たちの良識でもって、ただ悪心をおさえようとすることのみで、事が足りるでしょうか。良識とはそれほど頼りになるものでしょうか。どうもそう言い切れないところに、人間としての悲しみがあり、問題の深さがあるといえるのではないでしょうか。人間の歴史は、良心が悪心に打ち勝とうとする試みのなかで展開されていなが一向に成果があがらず、悪が横溢し、争いの絶え間なき世界が、私たちの現実だからです。としますと、私たち人類が最も誇りとしている良心や理性そのものに、実は問題があると考えられるのではないでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第10回 (2019.3.5.更新)

 知性への疑問 ②

 親鸞の言葉に対して、現代人は、このような反論を試みるのではないかと思われます。そしてもし、親鸞の思想が、この反論のように、単に人間の努力を否定し、理性とか良心とかいうものに目をつぶって、ただ愚かなることを嘆いているだけだとすれば、私もまたこの反論を支持しこそすれ、親鸞への追随は見合わせたく思います。だがもし、親鸞の思想が、この反論のごとき内容を意味するのではないとすればどうでしょうか。問題は全く別になってきます。とやかく私たちの知恵をさしはさむ前に、親鸞の言葉の真の響きに耳を傾けるべき必要が生じてくるからです。

 では親鸞は何に向かって、この鋭い叫びを発せられているのでしょうか。これこそ、現代人が最も得意とし自信に満ち溢れている「知性」に向かってではないかと思われるのです。ではなぜ、人間知にかかる言葉を発せねばならないのでしょうか。

 この一、二年とみに喧しく言われただしたことに、「公害」の問題があります。貧しくとも平和で楽しく暮らしていた山村に、急に奇病が発生する。澄み切っていた大空が煤煙によって汚され、いやな臭いと息苦しさに悩まされる。ヘドロの海岸、魚さえ住みえなくなった海、矢継ぎ早にこのようなことが、私たちに報道されはじめました。美しい風景がいとも簡単にこわされたり、私たちの毎日が輪禍の恐怖にさらされていることは、もう誰もが体験していることだといわねばなりません。何がこのような恐ろしく住みづらい世に作りあげたのでしょうか。

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観- 第9回 (2019.2.4.)

   知性への疑問

 このような人間世界にむかって、親鸞は次のような言葉を発せられています。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもと、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」

悩みや惑いに満たされている愚かものの私、しかも猛火に、いまにもやきつくされようとしている私の住まい、このような人の世のできごとは、すべて嘘いつわり、ごまかしで満たされていて、真実なるものはなにもありません。ただ念仏のみが私たちの世界でのまことの姿なのです。このように述べられているようにうかがえます。現代の「知性あるもの」に、この言葉はどのような響きをもつでしょうか。何かこの言葉こそ、たわごととしか聞こえないのではないでしょうか。まず、第一に、私が愚かであるという泣き言に反発を感じます。愚かならば、それを越えるべく努力すればよいのであって、その励みを通して知的に独立するところに、人間としての意義があるように思われるからです。つぎに、世の中が嘘偽りで満たされているとは、これまた何という妄言でしょうか。私たちには、良心があり良識があり、理性があります。だから私たちは、世の善悪を見分ける目を持ち得ているのです。一体、人々はなぜ精魂こめて働きつづけているのでしょうか。邪なるものを排し、正なる方向に向かって、すばらしい未来を築くためではないでしょうか。現実はまだ乱れていると言えるかも知れません。けれども、それは、私たちの努力が足りないからであって、もし理性をみがき、良心を通して、より一層世のために働くとするならば、真に豊かで平和な世界が開かれるというべきです。念仏のみが真実だとは、とんでもないたわごとだと言わねばなりません。

 

5.凡愚-親鸞聖人の人間観- 第8回 (2019.1.17.更新)

 知性あるもの ②

 このことは、人類の知性を更にのばすとともに、人間知についての限りなき自信を、人々に植えつける役目をはたしているように思われます。私たちは有史以来、無限の未知の世界にとりかこまれてきました。宇宙の空間、時間の流れ、私を育てる自然の力、そして私自身の生命の不思議さ、これは私たちにとって、何一つとして知り得ぬ世界であったのです。この故に私たちは、それらに対し、ある時はいい知れぬ畏怖を感じ、ある時はある種の敬虔さを捧げてきたのです。ところが近年にいたり、科学の発達とともに、私たちの知性が、未知の世界の謎を一つ一つ解きはじめました。神の怒りかと思われた荒れくるいたる自然、悪魔の祟りとしか思われなかった病いの恐怖、それらがあたかも悪魔の去るごとく、私たちの心から消え去りはじめたのです。と同時に、今度は逆に、こちらの力が自然を自由に駆使し、悪魔さえもてあそぶようになったのです。その勢いは、いまや私たちの世界から、不可能という言葉を取り除こうとさえしているように感ぜられます。

 現実に目を移してみましょう。世界は恐ろしいほどのスピードで、どんどん改良されているではありませんか。まず医学の進歩は、ほとんどの病いに、圧倒的な勝利をおさめつつあります。無数に出回る薬は、素人さえ簡単に病いをなおさせようとするものですから。物質の豊かさもまた、ほうの数年前に比べても、目をみはらせるものがありますし、家庭の電化、工場のオートメ化は、すごく便利な世界を作りだしたといわねばなりません。そして乗物の飛躍的発展、ほとんど足を使う必要がなくなったと同時に、地球の裏側、いやいや月の世界までも人間を無事にはこべるようになりました。しかも世の中がスムーズに動くように、情報網までが完備されだしました。豊かで、平和で、楽しい世界が、いまにも目の前に実現されそうに感じられます。これこそ、私たちの知性の勝利だというべきではないでしょうか。

 

5.凡愚ー親鸞聖人の人間観ー 第7回

 知性あるもの ①

 私たち人類は、他の動物に対して、一つの大きな誇りをもっています。それが知性の相違にあることは、もうすまでもないことでしょう。しかし、その差は、現代に至って、ますます目だってきたといえるようです。いわゆる「科学時代」と呼ばれている現象が、いやがうえにも、そのような感情を私たちに抱かせるからです。人類に最も近いといわれる猿の仲間たちは、いまだ、依然として樹の上に住まいを構えているのに、人類はすでに月に立ちえたのですから。このように考えますと、私たちは知識の豊かさという点に関して、ひと昔前の人々に対しても、大きな差をつけていると言えなくはありません。ごく一部のものに限られていた教育が、大衆にまでおろされ、それが爆発的な勢いで一般に広がり、深められ、種々の手立てを通して、日々新たな知識が彼らに植え付けられているからです。とすれば現代の特徴は、各人が「知性あるもの」として存在しているところにあると言えるのではないでしょうか。いわば現代人は、自分を知識人だと自覚するとともに、その知性が、少しでも他者より多いことを自慢し、うぬぼれる、という方向に動いているように見受けられるのです。

4.そのままの姿で 第6回 (2018.11.4.更新)

 しかしながら、静かに自分を振り返ってみる時、親鸞聖人の教えに接しながらも、この自分があまりにも偽善的であることに驚かされます。人の世に住んでいる以上、偽善的な態度は捨てきれない宿命なのかも知れません。しかしそれが不可能であるとしても、この態度を、深く内省したいものであります。親鸞聖人の信心は「そのままの自分」でゆるされるのですから、世間を気にして、ことさら善人ぶることはいらぬはずです。と同時に、さほど自分を悪人とも思っていない者の、強いて悪人ぶることもいらぬはずです。私たちは、仏様にそのままでおまかせすること以外に、いかなる要求もされていません。自分を、より以上に見せる態度も、より以下に示す態度も必要ではありません。ただそのままの自分を常に深く見つめながら「そのままの姿」で自然に歩ませてもらう人生の歓びを味わいたいものです。

 私たちが、バートランド・ラッセルのいう「上品なひとびと」に接して後味の悪い嫌気を覚え、ありのままの「愚禿」の姿に、かえって、すがすがしさを感じるという点に深く考えさせられるものがあります。

 

 

4.そのままの姿で 第5回 (2018.10.5.更新)

 私たちは人間であり、人間社会の生活を営んでいる以上、悲しい人間の宿命である偽善的な態度からまぬがれる事はできません。この人間性を、誤魔化すことなく、真剣に見つめられたのが親鸞聖人でありました。人間生活において真の行為の不可能な自分に気付かされた時、その自分を誤魔化すことなく、赤裸々に愚禿の自己を告白されました。人々がベールをかぶって善人ぶっている世の中で、聖人はベールをかなぐりすてて、「そのままの姿」で、み仏の前に立たれたのであります。「このままの姿」で救われているとの確信を抱いて、自己の真相の「愚禿」に悲しみながらも、「愚禿」なるが故に仏に抱かれている自己の喜びを、顕示されたのであります。それ故に親鸞においてはいかなる善も悪も必要ではなかったのです。ただ「そのままの姿」で、自然のままに生かされている歓びのみがありました。善もいらず、悪もおそれなきところ、そこには偽善のかげがありません。「愚禿」親鸞のすがすがしさは、それによると思われます。

 

4.そのままの姿で 第4回 (2018.9.4.更新)

 親鸞聖人は、信心の世界では善悪の念は必要でないと示されました。しかし、現実の社会は、善悪の倫理がその基準となり、それによって、社会秩序が保たれていると考えられています。すると、善悪の念を無視しているかのように見える親鸞の教えは、一見、社会秩序を破壊する教えであるかのように受け取られない事もありません。しかし、そこには善悪を超越した深い宗教的な意義が味わわれるのです。そこで、もう一度、私たちの現実のすがたを反省してみましょう。

 先にも述べましたように、私たちの社会は、偽りの行為や偽善的な態度で満たされています。世の中にはつまらぬ噂が充満し、人々は他人の目を恐れます。自分は少しでも良く見られようと、常に自分自身を背のびさせています。そこに誤魔化しの人生が生まれ、他人の幸福や成功をうらやむ心が起こります。お互いがお互いに妬み合い嫉み合う。お世辞を言いながら、心ではその人を憎んでさえいます。驕り高ぶっているかと思えば、卑下し悲しんでいます。しかも、このような心の持ち主が、善人ぶった毎日を平然と過ごしている。それが私たちの社会なのです。偽善でなくてなんでありましょうか。「偽善」、そのかたまりが私たちなのです。

 親鸞聖人が深く反省された態度、その態度こそ、この「偽善」であったと思われます。偽善なる自分に目覚められたが故に「愚禿」の自覚が生まれ、そこに絶対他力の「信」が芽生えたものと伺われます。愚禿の私を救わずにはおかぬ仏のお慈悲をいただくだけで、もはや、善悪の概念など親鸞には問題ではありませんでした。そこに『歎異抄』に示されているあの言葉ーしかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず…、悪をもおそるべからず、ーがほとばしり出たのでありましょう。

 

4.そのままの姿で 第3回 (2018.8.20.更新)

  ありのままの自分を、そのままに示すのが恐ろしく、いつも自分の姿にベールをかぶせずにはおられないのです。しかも、ベールの中から、人の噂を気にしながら、互いに噂に噂をささやき合います。そのために私達は、自分自身をことさらによく見せようと、見えを張ったり、時には逆に、自分自身を自分以下に見下げたりします。そうする方が世の中を都合よく渡れ、人生を安穏に過ごすことができるように思われるからです。このような世界が私たちの世界なのですから、この世の中から偽善そのものを無くそうとすること自体が、無理な要求なのかも知れません。しかし、私たちはこのような人生に対して決して満足しているのではありません。出来ればこのような誤魔化しの人生は避けたい。偽善的な自分から逃れたいのです。でも、それがどうしても出来ないのが人間社会なのです。もし、偽善的な態度を徹底的に排して、本当に真面目な厳しい人生を送ろうと試みる人があっても、この人は、世の一般の人々からは受け入れられず、せいぜい、変人として扱われるのがおちでしょう。

 私はこのような世の中の、偽りのるつぼの中にいる自分を見つめ、自分もまた、偽善的な誤魔化しの態度しか取り得ないものである事に反省させられる時いつも私の心に思い浮かぶのは『歎異抄』の次の言葉です。

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。…中略…しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと。」

 信心の世界は、善悪を越えた世界であること、私たちを救わずにはおかない仏の慈悲の力を蒙りさえすれば、もはや人間社会の善悪に思いわずらう必要がないという親鸞聖人の教えに深く打たれます。

 

4.そのままの姿で 第2回 (2018.7.11.更新)

 いうまでもなく、偽りの行為は、誰にとっても不愉快なことです。誰だって偽善者にはなりたくありません。だから私たちはつとめてそのような行為を避けようとしています。しかしどうでしょうか。避けようとつとめていながら、かえって、ますます偽りの行為をしないでいられないのが私たちではないでしょうか。それは私たちの生活がそのような行為をしないではいられないようにできているからです。私たちは社会から「善」をするように要求せられています。それは私たちの良心の声でもあります。しかし、その実践はまことに困難なことであって、我々凡夫には容易なことではありません。でも「善を行え」という要求に答え得なければ、自己の心が安らかではありません。このなすべく要求されながら、それに答え得ない自己矛盾から生まれる態度が「偽善」なのではないかと思われます。

 しかも、皮肉なことに、私たちは偽りの行為をしりぞけ、偽善の態度を嫌悪しながらも、私たちの社会は、このような態度や行為をとらずにはおられないようにしか出来ていないのです。といいますのは、この社会では、自分以外のすべての人々から制約されているばかりではなく、自分自身にさえ気兼ねしている世の中だからです。自分は常に他人から比較され、同時に、自分もまた他人と自分を比較しています。いわば、他人と自分との比較の上に、構成されているのが私たちの社会なのです。そこで、私たちは常に私たちの周囲を気にしなければなりません。

 

⒋ そのままの姿で 第1回 (2018.6.8.更新)

 英国の哲学者、バートランド・ラッセルの随筆に「上品なひとびと」という作品があります。氏はこの論文で、上品なひとびとの、いくつかの型として「牧師」「独身で金持ちのおば」「純粋で高貴な婦人」「道徳問題などにやかましい女史」「大金持ちになり財産を慈善事業に使っている人々」などをあげ、それらの人々の上品さを論じた後、「一言にして言うならば、上品なひとびとは、下品な精神の持ち主である」と、上品なひとびとの本質を指摘して文を結んでいます。なぜそうなるのかと申しますと、結局これらの人々は、偽善的な心が特に強いと言うのが氏の言い分であるように思われます。それなら、なぜ、これらの人々は特に偽善的な心が強いのでしょうか。それは、これらの人々に対する世の中の人々の批判の目が、特に厳しいがためであると考えられます。そのために、彼らは偽善的態度をとらずにおれないのだと思われのです。

 世の中で偽りの行為ほど、愚劣で人々に不快の念を抱かせるものはありませせん。それがどれほど些細な事であっても、私たちがそのような態度に接した時は、いつも嫌な思いをさせられるものです。バートランド・ラッセルのいわゆる、上品なひとびとに接した時、私たちの心に後味の悪い、なんだかしっくりしない嫌な思いをおこさせるのも、そのためです。しかし、ここで一寸、わが身自身を振り返ってみましょう。私たち自身、しばしば、というよりむしろ、始終、そのような偽りの行為をしていないでしょうか。時には人に対して、時には自分自身に対して。

  

3.続 聞と人生 第9回 (2018.5.5.更新)

  4.獲 信 ②

 このために、すべての望み、すべての執着が打ち砕かれます。仏の世界へ向かわねばならぬはずの人間が、本来的には、仏に背を向けている存在でしかありませんでした。絶望、これこそが人間のすがただったのです。だがこの絶望に気付いた時、わたくしたちは、はじめて仏の大悲に抱かれていることに気づかされるのです。わたくしたちの耳もとに仏の御声を聞くのです。仏から離れゆく汝を救うことこそが仏のめあてだという、あの「摂取」のみ声を聞くのです。この瞬間を「獲信」(ぎゃくしん)といっていますが、これはなんという歓喜でありましょうか。これぞまことの道を歩もうと悩みぬかれた人のみが味わえる、まことの喜びではないでしょうか。

 苦悩の凡夫がそのままで救われる唯一の道、この「信」の道を教えているのが真宗の教えなのです。まことの人生に目覚めようと努力しているわたくしたちに、仏はつねに呼びかけていられます。いまこそ、心を無にしてそのみ声に耳を傾け、歓喜しつつ、念仏の教えを喜ぶ、新たな道を歩みはじめたいものです。

3.続 聞と人生 第8回 (2018.4.5.更新)

  4 獲 信 ①

  かかる絶望の闇間をさ迷った一人の求道僧に、わたしたちは親鸞のすがたを見出すことができます。親鸞は救われました。絶望のさなかに「摂取」のよぴ声を聞き、踊躍歓喜して仏のみ声に信順したのです。絶望したがゆえに、すべての望みは失われ、すべての力は尽きはてました。生けるもの、これほど打ちひしがれた哀れなすがたはないというべきでしょう。だが、すべてを失ったこの姿こそが、「己」という執着からはなれた「すがた」ではなかったでしょうか。親鸞は聞いたのです。絶望のどん底に沈み至ったとき、己の力に執着する、すべての心がときほぐされて、自然に入りくる仏のよび声を聞くことができたのです。仏に背を向け、仏から逃れようと悶えている汝をいだくものこそが、仏の大悲だという「摂取」のみ声に接したのです。ここに親鸞のめざめがありました。

 私たち凡人は、本来的に善をなすことはできません。善だと考えられていた行為すら、悪の方向をむいているのです。この自覚がなされますと、善をなしたくてなしえない自分、清浄心をもちたくても持ちえない自分、祈りたくして祈りえない自分、仏の世界へ向かいたくて向い得ない自分が見いだされてきます。

 

3.続 聞と人生 第7回 (2018.3.5.更新)

  3 絶望 ②

 私たちは、まことの世界に至りたいと願っています。だがいまや、そこに至るすべての道が断ち切られました。仏に近づこうとして、ますます遠ざかっている自分を見出した時、いかなる望みが、いかほどの喜びが私たちの心に生じるのでしょうか。すべての力、すべての希望が消え失せて、無慙にも打ちのめされた姿、絶望という言葉がありますが、この心こそ絶望でなくしてなんでありましょうか。

 私たちが人生に目覚めたとき、人間のみに与えられた人生の価値を知らされました。日々の生を、より高めるところに人生の価値があり、人としての喜びが味わえるはずだったのです。だが、心を高めようとする喜びが、いまや絶望にと変わったのです。いいかえますと、人生にめざめたもの、より深き生命を得ようと努力するものは、努力すればするほど、絶望の深淵へと沈みゆく自分を悟ることになるのです。とすれば、まことの人生とは絶望だということになるのではないでしょうか。果たして私たちは、はるかに仏の世界を望みながら、永遠に無限の闇間をさまよわねばならないのでしょうか。

 

3.続 聞と人生 第6回 (2018.2.7.更新)

  3. 絶望 ①

  人生にめざめた時、私たちは、自分を高め、まことの世界に至らなければならないと悟りました。そのために善行をつみ、心を清くたもつために不純な心を取り除くべく努めねばならなかったのです。一見、人間には純な心がもたされているかのごとく見られました。だからその心を深めるために努力がはらわれたのです。しかし、自分自身を高めるために、いやもっと純な気持ちで他人になした善行のなかにさえ、不善な心がみいだされました。人間の善は、善そのものが不善でしかなかったのです。ここに自分の力で真の世界に至る道が断たれていることに気づかされ、人は失望の深みへ突き落されたのです。だが救われえない自分が見いだされた時、救われたいという「祈り」が生じました。まことの世界へ至りたいとの願いがいっそう強く感ぜられて、ただひたすら一心に祈り、自分のこころを仏にささげようと努めたのです。けれども、この最後の救われゆく道であった祈りでさえ、その心は不純なものにしか満たされていなかったのです。表面的には、ささやかな善行ができるかのごとく感ぜられた人間、ほんの少し有るかのごとく思われた清浄心も、その奥をつきつめれば、みにくい不善以外のなにものでもなかったのです。

 

3.続 聞と人生 第5回 (2018.1.12.更新)

  2 祈り

 私たちは自分の善行に不善を認め、自分の心に不純を見出しました。だから自分の善行をすてて、仏や神の救いにすがろうとするのです。謙虚な気持ちでひれふし、ただ一心に祈る心、これこそ人間に生じうる唯一の純心ではないでしょうか。だから、このこころに最後の願いを託して、真の世界に至らしめられんことを心をこめて祈るのです。

 だが、はたして、その心はそれほど純粋なものでしょうか。たしかに祈る心は、私たちの世界とは次元を異にした世界に向けられる心です。だからそこには、人間相互に生じるような不善行は存しないというべきかもしれません。だが、祈る心そのものにはいかなる思いが込められているのでしょうか。一体何を祈っているのでしょうか。はたして純な心になりきる無心の境地がそこに見出せるでしょうか。いや、決してそうだとは言い切れません。静かに目を閉じて頭をうなだれているときでも、心は常に動いているようです。しかもその心が求めているものは、全く自分勝手な願いのみのようです。この醜い利己的な願いでかためられた心を、どうして純な心といえるでしょうか。こうみますと、これこそがと思われた「祈る心」の中にも純な心は存在していなかったと言わねばなりません。それでは、私たちには何が残されているのでしょうか。 

 

3.続 聞と人生 第4回 (2017.12.19.更新)

  1 善 行 ②

 そこで私たちは、自分の心をさらに深く見きわめるべき必要にせまられます。私は先に、人間は誰でも純粋な心をもっていると述べました。その例として、幼児を救おうとした行為をとりあげましたが、いま一度、その純心だと思われた心に注意してみましょう。幼児を救おうとした場面を思い起こしてください。なぜ、あの場面、とっさに幼児を救おうとする心が生じたのでしょうか。相手がかわいい幼児であったこと、助けるのに危険性がなかったこと、そのような心が無意識にはたらいていたのではないでしょうか。では、自分の憎むべき相手であったならば、さらにはまた、自分の身にも危険がせまるという場面であったらどうでしょうか。おそらくは、救うにしても躊躇するこころ、迷いの心が生ずるのではないでしょうか。だとしますと、これこそ純粋だと思われる心の中にも、その奥底にはやはり不純物が含まれていることになります。

 人の世に生まれた私たちは、まことの世界に至りたいとの願いをもっています。そのために善行をなすべく心血をそそいだのですが、善そのものに悪の要素が見いだされてきました。しかも、これこそ純粋だと思われた心の中にも、不純物が混じっていることに気づかされたのです。人間の心は、根本的に不純であり、その行為は、根源的に悪であったのです。私たちは、自分には善心があると思ってきました。だからその心をもって真の世界へ至ろうとしたのです。だがいまやその道は断たれたといわねばなりません。真の世界、仏の世界をのぞみながら、自己の力では至り得ないということを悟らされたからです。すべての望みはここに無慙にもうち砕かれて、私たちの心は、大いなる失望に閉ざされるのです。 

 

3.聞と人生 第3回 (2017.11.9.更新)

 1 善 

  誰もが経験されていることだと思いますが、他人のために、全く純心な気持ちでなした善行が、かえって逆に他人から怨まれる結果を招くということが時々あります。もし動機が純粋であればあるほど、これほどやりきれない気持ちにさせられることはありません。相手を八つ裂きにでもしてやりたくなるものです。このようなとき、自分を冷静に見つめよということは、少し無理な要求かも知れませんが、ここで、相手に誤解された原因を見極めたく思うのです。はたしてその行為が、相手にとっても善き行為であったろうか。本当に相手の身になって考えられた行為であったろうか。自分の独善ではなかったろうか。このように見てまいりますと、最初は純粋であったと思われた行為のなかにも、いくつかの不純物が見いだされてまいります。完全だと思われた善が、不完全でしかなかったことに気づかされてくるのです。

 ここで私たちは、自分が善いと思った行為が必ずしも善くはない。あるいは、その善のなかには悪の要素が根本的に含まれているということを、強く自覚したく思うのです。人間はだれしもよき社会を目指してします。しかし、よき社会を求めながら争いを起しているのです。一方が善で他方が悪だというのではありません。どちらもが真剣によき世界を求め、善をなしていながら争いを起しているのです。ここに人間世界の善の不完全さが認められます。私たちは常に、よき行為をしたいとの願いをもち、心を清く保って真の世界へ歩もうとしています。だから懸命に努力して善行に励んでいるのです。だが、その願いとは逆に、善行そのもののなかに悪の要素がみいだされてきたのです。これは大きな衝撃だといわねばなりません。

3.聞と人生 第2回 (2017.10.10.更新)

はじめに ②

 たとえば、野に蝶を追う幼子のすがたを思い起こしてください。ただ無心にたわむれるその児の遊びの姿に、あなたが目をうつしたとしましょう。その時あなたは、きっと微笑みを浮かべてその児を眺めることでしょう。だが、突然、あなたが児の走りゆく先に草に覆われた野井戸をみとめたとします。すると、いままでの微笑みはたちまちに消えて、不安の色が顔全体をに覆うことでしょう。あなたの心配とは無関係に、幼子は無心に蝶を求めて野井戸の方へ近づいてゆきます。自分の危険さに全く気付く気配はありません。一歩、一歩…今にも落ちそうになった時、あなたは一体どうするでしょうか。とっさに、顔色を変えて幼児のそばに駆け寄り、児をわし掴みにして後ろに引き戻すことでしょう。その時あなたの心は、ただ幼児を助けたいとの願いのほかは、いかなる雑念もないはずです。ここにわたくしたちは、すべての人に備わった純な心を見出すのです。このように誰の心の中にも、理屈を離れて、ただ善き行為をしたいと願う清らかな心が存在しています。この本来そなわった純な心が、自己をみつめる目となり、己を高めようと努力する心になるといえるでしょう。

 たしかに私たちは、ひとたび人生にめざめますと、悪を廃して善をなそうとする心をもちます。そしてこの心をもって自己を高め、よりよき世界を築こうと励みます。それではこのように善行を求めている私たちの世界に、不善や争いは存在しないのでしょうか。残念ながら現実は決してそうではありません。善を求めている社会に不善が認められ、和を求めている世界に争いが起こっているではありませんか。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。そこで、この原因を突き止めるために、私たちの「善行」そのものを、しばらく考えてみたく思います。

 

3.続 聞と人生 第1回(2017.9.10.)

 はじめに ①

 わたしはさきに「聞と人生」の題のもとで、人生のまことのすがたを求めてみました。その時私は、私たち凡人の歩むべき道は、結局、悟りの世界からのよび声に、素直に導かれてゆくより手立てがないとの結論を得ました。ところが、仏のみ声にしたがいゆくことが、なぜ私たちに残された唯一の道なのかということについては、あまり深く論ずることができませんでした。そこでこのたびは、この点を少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 先にも述べましたように、私たち人間の生命は、自己の存在に気付かされた時にはじまります。その時私たちは、自分が不可思議な存在であると同時に、苦しみと醜さにみたされたものであることを知らされます。そこで人は、この疑惑と苦醜を取り除くために努力し、矛盾の世界を離れて、まことの世界へ至ろうと願いはじめます。そのためにわたくしたちは、清らかな心を保つために不純な心を断つべく、また自己を高めるために善行をすべく努めねばなりません。それはまことに厳しく苦しい道だといわねばなりませんが、この道をただひたすら黙々と歩むところに、人道と呼ばれる尊さが輝いているのです。だが果たして、すべての人間に善行を積もうとする心、自分を高めようとする清らかな心が備わっているのといえるでしょうか。わたくしは、一概にないとは言い切れないと思うのです。周囲に目を移せば随所で人の清らかな行為が見かけられるからです。

 

 2.聞と人生 第9回 (2017.8.10.更新)

⑷悟りの世界から ③

 私たちの人生は、ともすれば自己を見失いがちです。あるいは、真の自分に気付くことを怖れているだというべきかも知れません。だが、人間である限り、真の自己を見つめてゆかねばならないのです。そのために厳しい修行が必要とされますが、この道は多くの凡夫には不可能な道だといわねばなりません。そこですべての人々が、いつでも、どこでも、そのままの姿でできる、真の自己にめざめて行く道が必要となります。結局その道は、最後に残された、悟りの世界からの声を聞くということに極まるのではないでしょうか。聞くことによって己の存在に気付かされ、聞くことによって迷える自分を見出し、さらに聞くことによって、すでに迷える自分がそのままの姿で救われていることを知らされていく世界、救いの御手の中に随喜していく生き方が真宗の教えだといえるでしょう。かくして真の人生に目覚めさせてゆくところに、真宗の教えの尊さが輝いているのだと思われます。

2.聞と人生 第8回 (2017.7.5.更新)

⑷悟りの世界から ②

 だが、ここで注意すべきことは、いったいどのような世界が、この厳しい修行を通して見いだされるかということです。一般的には、禅の修行をすれば苦や迷いがなくなるというように考えられております。しかし、決してそういうものではありません。禅の修行は結局、人間の真の凡夫性に気付かされるということではないでしょうか。そのように気づかされる瞬間を禅宗では「悟道」と呼んでいるのだと思われます。いいかえますと、苦のなくなる世界が悟りではなく、苦を苦としてそのまま認め、迷いを迷いとして認めて、己のはからいをまじえずして、その中に己を投げ入れるところに、おのずから苦や迷いを離れる世界が開かれてくるのだといえます。これを悟るまでに厳しい修行が課せられるわけですが、かくして「悟」をえた禅僧は、そこにより大きな悟りの世界に、すでに包まれていた自分の存在に気付かされるのではないでしょうか。

 真宗では、この禅の「悟道」にあたる境地を「信心をうる」といっています。鈴木大拙師がかつて、真宗の信心を得たある妙好人を見て、禅宗の悟りを得たものと同一の境地に達していると評しておられましたが、それでは真宗の「信」はいかにして得られるのでしょうか。禅宗では厳しい修行によって、自己を見つめる目を養われ、己の凡夫性に気付かされるといえますが、真宗ではこの境地を「聞」によって得られるといいます。すなわち禅僧は、大いなる悟りの世界の存在に気付くために、自己を厳しく修するわけですが、真宗の教えは、悟の世界からの声を、己を空しくして聞くところにはじまるといえるのです。

2.聞と人生 第7回 (2017.6.8.更新)

⑷悟りの世界から ①

 自分のすがたに目覚めるとき、私たちは人間のみがいだかねばならぬ、まことの苦しみを味わいはじめます。だが、この苦しみを乗り越えてこそ、はじめて人のみがあじわえる真の喜びを見出しうるのです。この苦しみを乗り越えて楽しみに至る道を教えるのが仏教だといえます。仏陀の教えを一口にして言えば、人間の本来のすがたをありのまま見るということに尽きるのではないでしょうか。どこに苦や迷いの生ずる原因があるかを見極めて、その根源を断って真の喜びを得させる教えなのです。そのためにまず、ものごとを正しく見る目を要求されます。なにが真の苦であり迷いであるか、それを見極める目なのですが、この目を得るために厳しい修行がかせられているといえます。さらに見極めた迷いを乗り越えるために、たゆまぬ努力を必要とされています。

 現在、私たちはこの仏陀の教えを如実に修している一つの尊い姿として、禅僧のすがたを見出すことができます。人間の迷いの根源である執着を断つために、己の所有物をかなぐり捨て、肌身につけた一枚の着物、居住のための一丈の間での生活、極寒でも酷暑でも真夜中から起き、ただ黙々と坐する姿、日々の生活の一つひとつがすべて修行に通じているというあの厳しい態度、ここにしてはじめて真の迷いを知り、その苦を断つ道が開かれるというべきでしょう。

2.聞と人生 第6回 (2017.5.5.更新)

⑶悟りへの道 ③

 人間にとって、ここに二つの道が用意されています。その一つは、苦しみから逃れるために、なるべく苦しみの人生を見つけることを避けようとする道であり、他の一つは、苦の人生の苦を取り除くために、人間苦と戦ってそれにうち勝とうとする道です。ではこの二つの道のいずれをわたしたちは選ぶべきでしょぅか。

 第一の道から考えてみましょう。この道は世の多くの人々が歩んでいる道だといえるのですが、たしかに人間は、現実をみつめてまことの自己の姿に気付くことを怖れています。迷い悩みつづけたあげくに、無限の闇へ去りゆく自分を見ることが怖いのです。だから、その自分を忘れるために、種々雑多な手立てをこうじはじめます。少し私たちの周囲に目をむければよくわかるのですが、自分をふり返り見つめる時間をなくするために、人はなんと空しい時を費やしていることでしょうか。むだ話、テレビ、麻雀、パチンコ、酒、数えれば限りがありません。

 でははたして、これらの逃避がまことの意味で、人間の苦しみからのがれる道になっているでしょうか。少し思案を巡らせば、誰にも理解されますように、この方法は決して人間苦を根本から抜いているとはいえないのです。なるほど、しばらくの間は苦を忘れることができるでしょう。しかし、その苦を忘れているうちに、より大きな苦しみが、その人に徐々に迫りきているというべきでしょう。だから第一の道を選ぶことは、明らかに誤っているといわねばなりません。だから、結局、苦を除くために私たちのとるべき道は、第二の道でなければならなくなります。

 自分をみつめて真の自己に気付くだけでも非常な勇気を必要といたします。まして、その苦を取り除き迷わぬわが身を得るには、いかほどの努力を必要とすることでしょうか。だがわたくしたちに残された道がこれしかない以上、この道を黙々と歩むより手立てはないのです。この苦や迷いが人間のみに与えられたものだとするならば、やはり人間のみに与えられた、苦に勝ち得てうる真の喜びもあっていいはずです。そしてこの苦しみを乗り越え、喜びの世界に至る道を、仏教では悟りへの道といっています。

2.聞と人生 第5回 (2017.4.9.更新)

⑵悟りへの道 ②

 いいかえますと、人間には他の動物にみられない、自己をみる目を有するのですが、この目が人の心に芽生えるとき、人間特有の意志やねがいも、付随的に人の心に芽生えてくるのです。自己をみる目、意志やねがい、これらは人間のみにそなわった特異性だといわねばなりませんが、これらがあるからこそ、ここにまた、人間のみに課せられた苦しみや迷いが生ずるといわねばならないのです。現実をみつめながら、わたくしたちの心は現実とは逆の方向へとむかうからです。

 生きとし生きるものはすべて、よりながき生命を願います。だがその願いとは無関係に、現実はいつもわたくしたちのねがいを断つかわかりません。肉体をもつものは健康な心身を願うことでしょう。だが、この願いに対しても、現実はつめたくたちはだかります。いつしか、病が、老いが、わたくしたちの肉体をむしばんでゆくのです。少しでも楽しく幸福な人生を、ということは、またすべてのものの願いといえるでしょう。だが自分のおもいのままになる人生が、いったいどこに存在しているといえるでしょうか。どこにも存在していないのです。これが苦でなくしてなんでありましょうか。しかもわが身をみつめれば見つめるほど、人間的な苦しみや迷いが、より多く生じてくるといわねばなりません。いったいどうすればよいのでしょうか。

2.聞と人生 第4回 (2017.3.13.更新)

⑵悟りへの道 ①

 それではこの目が備わったとき、わたくしたちは何をいったい見出すでしょうか。まず、自分の不思議な存在に、驚異の目をみひらくことでしょう。それから、未知の世界へ歩まねばならぬ不安な自分に、言い知れぬ畏怖を感ずることでしょう。そこで過去から未来へ流れゆく自分のすがたを見極めようといたします。だが、それは空しい努力だといわねばなりません。私たちには、それを探知する能力が備わっていないからです。それゆえに私たちは、やがて現実のみを注意深く見つめようとしはじめます。だが、そこに見出される現実は、私たちにとって全く冷たい存在だといわねばなりません。何一つとして私たちの意を満たしてくれないのですから。むしろ人間の意志や願いとは無関係に、厳として冷ややかな存在が現実だというべきでしょう。

 それでは、この現実に私たちは、どのような態度をとっているでしょうか。もし、現実がこのようなものだと見きわめられたならば、人は自分の意志を、現実の本来のすがたに従わせるべきでしょう。意志を現実にそわせてこそ、現実とともに自己を歩ませることができるからです。しかし、実際に私たちがとっている態度は、全くこの逆だと言わねばなりません。なぜなら、現実を私たちの意志に従わせようとしているからです。ここに執着や苦しみ、あるいは迷いの生ずる原因が見いだされます。

 

2.聞と人生 第3回 (2017.2.18.更新)

⑴人生のめざめ ③

 仏教ではある一つの物体が、突然、無から湧き出でて、それがまた無に帰するという考えを認めません。世に存在するものは、すべて、因と縁によって生ぜしめられ、また因と縁によって、何ものかに転化せしめられると教えます。

だから現在この世で人間のすがたをしている私たちも、突然、無から湧きいでたものではなくて、ある因縁が和合して、その果がいま、人のすがたにせしめられているといわねばなりません。だとすれば、現在の人間となる以前の私が、なんらかの形で存在していたはずですし、人間以後のわたくしもまた、同様に、いずこかで存在せねばならぬはずです。だからこの考えをおしすすめますと、わたくしの存在は、無限の過去より永遠の未来へと流れ行くものとなってしまいます。いったい何処からいずこへ流れ行くのでしょうか。残念ながら、私たちには過去を見る目も、また未来を見る目をも持たされておりません。だからそれらを知ることはできないのです。だが幸いにして、人間には一つのものを見る能力を持たされております。それが現在を見る目なのです。しかもこの目は、現在のみしか見えぬ目でありながら、如実に現実を見るものには、過去をも、また未来をも測知できうる目だといえます。そしてこの目こそが人間のみに与えられた尊い目なのです。だから、ふと自分に気づくときがやってきたということは、やっと現実の自分の姿を見る目がそなわったことを意味するのです。ここにまことの、人の生命のはじまるゆえんが存在するといえるわけがあるのです。

聞と人生 第2回(2017.2.4.更新)

  ⑴人生のめざめ ②

 他の動物と人間とを比較した場合、他の動物には見られない、いろいろな能力を人間はそなえています。そのなかの一つに、「自己を見る目」という能力を認めることができないでしょうか。人間以外の動物には、自分を見つめて、わが身の存在を意識することはできないようです。されば、自分をふりかえり、自分のすがたを反省するという行為は、他の動物にはみられない、きわめて著しい人間の特異性だといえそうです。そこでここに注目して、ふと自分のすがたにきづいたとき、あるいは、おのれの存在に疑惑のおもいを抱きはじめたとき、はじめて、人のひとたる生命が始まるとわたしは言いたいのです。

 この世で産声を上げてから、いく年を過ごした頃からでしょうか。ふと、おのれの存在に気づかされるときがやってきます。そのとき、現実に生きているこの不思議な自分の存在に、いい知れぬ不安と驚きのおもいが、突如、襲いかかってくるものです。いったい、この私の生命は、何処よりきたり、いずこへ去り行かねばならぬのでしょうか。だれにも解けぬ謎ですが、現在、自分がここにいる以上、このわたくしは何処からか来たものであり、同時にまた、いずこかへ去らねばならぬ存在だといわねばなりません。

 

2. 聞と人生 第1回(2017.1.14.更新)

 ⑴人生のめざめ

 いったい、わたくしたちの人間としての生命は、いつからはじまるといえるのでしょうか。だれもが直ちに、母の胎内から生まれいでたときと答えることでしょう。なるほど、見た目には親の胎内から顔をいだしたとき、わたしたちの命が鼓動しはじめるように感ぜられます。だが、はたして真の人生が、そのようなときからはじまるといえるのでしょうか。一匹の動物を考えてみたとき、その生命は、まさしく母親の胎内から生まれいでたときにはじまるといえるでしょう。しかし、一匹の動物にあてはまったことが、そのまま人間にもあてはまるでしょうか。なま身の肉体をやどすわたくしたちは、たしかに動物の一類だといわねばならないでしょう。しかしながら、他の動物と区別して、人間と呼ばれる場合には、なんらかの意味で、他の動物と異なったところがなければなりません。その違いがあるからこそ、人と呼ばれるゆえんがあるのです。だとすれば、その生命のはじまりに、もっともいちじるしい違いが見いだされてもいいはずです。そこで、人生の意義を考えるにあたって、最初に生命のはじまりを問うみたわけです。

 

 

1.親鸞聖人のみ教え 第8回(2016.12.8.更新)

 では凡夫が仏と出会うとは、具体的にどういうことなのでしょうか。仏そのものは、色もなく形もましまさず、といわれていますが、仏は本来、凡夫の目には見えないものであり、推し量ることのできぬ存在なのです。ところが、その凡夫が、口に「南無阿弥陀仏」と念仏を称えているではありませんか。この事実を指して親鸞聖人は、これが凡夫の私と出遇っている明らかな証拠だ、といわれています。彼方より私の心に至り届いた、阿弥陀仏の大悲のすがたが、念仏だというのです。したがって、私たちの救いは、この念仏を除いては存在せず、南無阿弥陀仏の名号となって、私の心に来たっている仏の大悲を、ただひたすら信じることが、念仏者にとって最も大切なこととなるのです。しかし凡夫は、この念仏こそが阿弥陀仏の大悲の相だということも、念仏していることが、仏と出遇っている証だということも、なかなか信じられません。悲しいことに、私たちは己れの浅はかな判断のもとに、仏の大悲を拒絶し、この迷いの世界に執着して、みずから苦しみ続けているのです。この故に凡夫には、ますます他力の教えが必要となるのです。念仏が本当に喜べるまで、難信といわれるこの法をくりかえしくりかえし、聞かせていただきたく思います。

1.親鸞聖人のみ教え 第7回(2016.11.2.更新)

 しかしながら、私たちがただ「悲嘆」のみの人生を送るのなら、そこからはいかなる喜びも、生きる力も生じてはまいりません。それはまことに暗く、みじめな人生だというべきでしょう。だがもし、この者が悲嘆の中において、彼を救おうとする仏の大悲に出遇うことができるとすればどうでしょうか。悲嘆はそのまま歓喜に転ずるはずですし、この人生を永遠に生き抜こうとする力強さが、彼の心底から湧き出でてくることになるはずです。彼自身の歩みは、すでに彼一人のものではなくて、仏とともにあるのだという信知の世界が、彼の中に生じているからです。

 しかしこの仏は、私たちが助けを求め懇願して得た仏でないことを、私たちは明確に知っておかねばなりません。本来「仏」とは、凡愚の勝手気ままな願いによって動かされる存在ではないのです。そうではなくて、そのような依存心を破り、迷える凡愚を、必然的に真実の世界に転ぜしめようとする大悲の力が仏陀なのです。阿弥陀仏のこの力を親鸞聖人は「他力」と呼んでいるのです。だから他力は、私たちの「甘え心」、「頼る心」を意味するのではなく、仏の力を指す言葉なのです。   ところで世間一般では、この他力の語を甚だしく誤解しています。自分が努力もしないで、何ものかによって助けてもらうことが「他力」だと考えているのですから。少し考えればわかることで、身勝手に助けを求める心こそ、まさしく醜い、エゴまるだしの自力心だというべきではありませんか。むしろこのようなエゴ的自分の醜さに気付かしめるところに、親鸞の他力思想があるのですから、この他力には自力以上の厳しさが宿されているのです。かくて他力によって、凡愚がはじめて仏と出遇うことが可能となるのです。

1.親鸞聖人のみ教え 第6回 (2016.10.8.更新)

 ところで、真の善を完成させるためには、二つの事柄が、成就されねばならないとされています。一つは、真と偽を間違いなく見極める智慧の目(大智)がそなわること、他は、その大智を通して迷える存在を限りなく救うために、無限の慈悲(大悲)もつこと。したがって、この二つの特性を有することが、真の善であり仏陀のすがただといえるのです。そして、あらゆる仏陀のなかで、ことにすぐれた大智と大悲を兼ね備えた仏こそが「南無阿弥陀仏」と呼ばれる仏さまなのです。阿弥陀仏とは、無限の光と無量の命をたもてる仏と訳されていますが、この二つの性格が、大智と大悲に他ならないからです。とすれば、阿弥陀仏とは、無限の大智と大悲をもって、あらゆる凡愚を救う仏だということになります。

 では、その凡愚とは一体誰なのでしょうか。人間が本当の意味で悪にめざめ、己が愚を覚知するのは、自分自身をどこまでも高めようとする努力の中においてでありました。そうだとすれば、完全なる善を求めつつ、その願いとは逆の方向に歩み続けている己が姿に悲嘆している愚者こそが、阿弥陀仏によって救われる凡愚だということになるのではないでしょうか。親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、この点を鋭くえぐっているといえるのです。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第5回 (2016.9.7.更新)

 他力―仏との出遇いを通してー

 このようにみれば、親鸞聖人が意味する「悪人」とは、悪事をはたらくといったこととは、およそかけはなれた内容を指していることになります。人生を怠けたり、嘘や偽りでごまかすことでもありません。その逆であって、善にあこがれ、善行を積み重ねようと努力している者が、その己が姿を、みずから深く反省して発せられた自覚の言葉であったのです。内省と向上は表裏一体をなしているといわれています。みずから深く恥じらう者こそ、より高い世界を目指す者なのであり、その向上はするどい内省をもってはじめて成り立つのです。この意味からしても、「悪人」とは尊い理想を掲げて、一心に励んでいる者が、その崇高なる理想の故に、己が無力さを悲嘆する叫びだというべきで、みずから悪を好む者には、決して悪の自覚は生じないのです。悪者はむしろ常にこれ弁護につとめ、自分の正しさ、よさを吹聴しているといえるのではないでしょうか。

 ここで仏道とは何かを考えてみたく思います。故人はこれを一言で「善を為すことだ」と言い切っています。まさしく的を射ているのですが、注意すべきは、「善を為せ」という言葉を知っていることが仏教なのではなくて、善をなしていること、それが仏教だというのです。そして、その完成者が仏陀と呼ばれるのです。だとすれば私たちは善をなそうと願いつつ、願いとは逆に悪事を重ね、迷いのただ中に落ち込んでいるのですから、迷える者、凡愚と呼ばれるのだといえましょうか。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第4回 (2016.8.6.更新)

  悪ーそれが私の姿だー③

 例えば、家庭内でよく見られる場面ですが、お互いが一心に相手のために働いていながら、その二人が全く醜い争いをおっぱじめる時があります。行為が相手のためであるならば、私たちは何よりもまず、本当の意味で、相手が何を求め欲しているのか、その心を知らねばなりません。知ったうえで、その望みに即して働いてこそ、「相手のために」という行為が可能となるからです。でも、人間には、どんなに親しい間柄でも、かの人の心を完全に知り尽くすことは不可能です。だとすれば、私たちにとってせいぜいできることは、私自身が一心に考えて、これが最善だと思うことを、相手のために為すだけだということになります。しかし、それはあくまでも、自分が自分を中心とした思考の中で求められた「善」にすぎないのであって、その善行がはたして相手のためになっているのかどうかは、実は不明なのです。あるいは相手が全く望んでいないことを、独善的に無理におしつけているかも知れないのです。

 ところで、自分が最善だと思う行為は、まさしく自分にとって正しいことであるわけですから、もし相手が自分の行為を受け入れなかったり、感謝をしなかったりすればどうでしょう。一心になされた行為であればあるほど、相手が悪く、憎く思われてくるに違いありません。そしてもし、相手もまたそれと同じことを考えているとすれば、お互いが相手のために最善を尽くしていながら、その善意と行為が、実に醜い争いの原因になりかねません。最も親しい間柄でさえそうだとすれば、もっと広い関係では、より一層のずれが生じるというべきでしょう。確かに人間は、善に憧れ、善意をもった行動をとっています。事実、そのことに喜びを感じ、生きがいを見出しています。だが、そのお互いの善意が、いたるところで、ずれをに起こし摩擦を生ぜしめていることもまた、いつわりのない事実だといわねばなりません。ここに人間の、善意や善行が、そのまま妬みや争いに転ずる、悲しい「悪」の相を見るのです。親鸞聖人はこの人間の真実の相を「悪人」という言葉でおさえ、私たちは、最善を尽くしている、そのまっただなかにおいて、「悪の自覚」をもつことが重要なのだと教えられているのです。

 

1.親鸞聖人のみ教え 第3回 (2016.7.3.更新)

 悪ーそれが私の姿だー②

 偽らざるところ、私たちは、自分自身の中に善意を認め、日々よき方向に向かって進もうとしない限り、生きてゆけないのではないでしょうか。少なくとも己が人生に生き甲斐を見出さないのではないでしょうか。このような観点から自分を眺めてみますと驚くほど強い力で、善に憧れている自分に気付くはずです。人々の美しい行為には、私たちは必ず感動します。逆にきたなく他を貶めようとする行為に接しますと、心の底からの憤りを感じます。善者と悪者が並んで現れますと、私たちはきっと、善者に心を寄せるのではありませんか。これは自分自身に関しても同じことです。自分が最も喜びを感じ満足している状態を思い起こしてごらんなさい。必ずや、善意に満ちた行為を精一杯成し遂げている、その時であるはずです。充実感は、決して、さぼったり寝そべったしている時には味わえないものです。

 このように見れば、私たちはだれしも、善にあこがれ、自分を少しでも良き方向に高めようとして、日々この人生を送るべく努力しているといえなくはありません。だがこれが事実だとしますと、奇妙なことがここで生じてきます。一人一人の心は善意に満たされているというのに、それにしてはあまりにも、この世には悪が多くて、みにくい争いが横溢

しているという事実です。ここにおいて私たちは、自分にとってこれが「善」だと確信しているその心が、はたして正しいかどうか、今一度確かめる必要に迫られます。お互いが善きことをなしつつ、その行為がもし、争いの原因になっていたとすれば、お互いの「善きこと」は、まゆつばものだと考えねばならないからです。

 

1. 親鸞聖人のみ教え 第2回 (2016.6.8.更新)

 悪-それが私の姿だー

 親鸞聖人は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉を残されています。まず人生を正しく歩むためには、各々が悪の自覚をもつこと、それが最も重要だというのです。ところでこの「悪の自覚」ということは、非常に誤解をまねきやすいのです。怠けてもよいし、悪いことをしても許されるのだ。いやもっと極端にいえば、悪いことをする方がよいのだと錯覚させるようなひびきを、この語はもっているからです。だが、悪を奨励するような宗教はありません。もしあるとすれば、それは偽りの宗教だといえましょう。親鸞聖人の教えが、浄土真宗と呼ばれる以上、悪事や怠け心をすすめることなどありえないのです。では、聖人が意味する「悪の自覚」とはどのようなことなのでしょうか。

 さて、ここで私たちは自分自身をどのように眺めているか、少し考えてみましょう。おそらく誰一人として自分を「悪者」だと見ている者はいないでしょう。たとえ他人からどんなに悪人だと見られていても、彼自身は自分をそれほど悪いと思っていない。いや、むしろ色々な悪事をはたらいていたとしても、彼はそこで何らかの理由を見つけ出し、自分を正当化させて、自分の中に、よさ、美しさ、正しさのあることを確かめているといえるのではないでしょうか。たとえ口ぐせのように、自分は悪人だとか、馬鹿だとかいっている人でもやはり心の底では、自分のよさを必ず認めているものです。その証拠に、悪人だといっている人を、そのごとく扱ってみますと、きっといやな感情を彼は抱くはずだからです。

 

 

1.親鸞聖人のみ教え 第1回 (2016.5.24.更新)

 はじめに

 人生は旅路にたとえられます。私たちは、いずこからこの世に来たり、いずこかへと去りゆくものです。今その途中を歩みつづけているといえましょうか。とすれば、私たちは何をおいても、まずその行くべき方向を正しく見定めねばなりません。でなければ、とんでもないところに流されてしまう可能性があり、そうなってしまってからでは、いかに嘆いても、手遅れになってしまうからです。

 ところでこの私に、はたして明日を正しく見きわめる目がそなわっているといえましょうか。誰しも自信をもって、このことに頷くことはできないと思います。その証拠に、自分の歩みきたった跡を振り返ってみますと、いたるところで悔いを残しているからです。目の前の世界を正しく判断する能力さえ備えていない私に、どうして永遠の未来を誤りなく見通す力があるといえましょうか。この生涯のみでなく、間違いなく死をも越えて私を導くような、そのようなすばらしい知恵を、私たちは到底もちあわせていないといわねばなりません。

 かくて、この人生の旅路を誤りなく歩み行くためには、正しく私の行く末を示す道標を、各人が持たねばならないことになります。では、私にとってそれは何なのでしょうか。それが死をも越える世界を正しく指し示すものだとすれば、生死を越える道を教える、宗教的立場からの教えということにならざるをえません。私たち真宗者は、これを親鸞聖人の導きに仰ごうとしているのです。ところで、その道標を目の前に起きながら、見みしないで、自ら迷路を選び、迷いの人生を送っている真宗者のなんと多いことでしょう。ほんのしばらく立止まり、親鸞聖人の呼び声に耳を傾け、その道標の一端にふれていただきたく思うのです。