世間の人が求めている僧侶像


 この頃は変わったかもしれないですが、それでも一般の人がお坊さんに求めているものは、昔からそう変わっていないのではないでしょうか。まだ、仏道を求める心に篤く、その限りでは真面目であり、真剣であり、自己犠牲的に人のために尽くせる慈悲の心に篤い人であってほしい。それは言い換えると、お金に汚いことのない、精錬潔白な人格を備えた立派な人ということになるのでしょうか。何も話さないでも、その姿に接するだけで、こちらの身を振り返って恥ずかしくなるような深い人格力とそばにいるだけで癒されてしまうような人を裁くことなく、一切をそのままに受け入れて認めてくれるような深々とした豊かな心の持ち主。そんなお坊さんを本当のお坊さん、僧侶として求め、願い、そして現実にはそんなお坊さんは皆無なので、ないものねだりのようにして、本当の僧侶、本物の宗教者の出現を期待している。そんな気持ちではないでしょうか。今述べたことは、実は私自身の僧侶への憧れであり、全然そんな僧侶になれていない自分自身への失望を世間の人の気持ちに重ねて推し量ったものですが、あながち外れてはいないのではないでしょうか。

                                (2014.9.18.更新) 

世間の人が求めている僧侶像 ②


 この理想の僧侶像は、やはり出家のお坊さんであろうか。いわゆる剃髪して、妻子をもつことなく、命がけの修行に励んで、自らの菩提と、その得た悟りをもって一切の苦悩の衆生を救うというそういう高貴な志願をもって道を歩む姿は、まさに菩薩というものでしょうか。そういう僧侶像を一般の人が抱いていると同じように、もともとお寺に生まれでもなかった私はまたそのような像を描いていたのでした。たしかにそういうお坊さんは、今日の日本ではあまり見ることはないかもしれません。もとより浄土真宗の私たちにとっても、思うべくもない理想像であるのですが、しかし、やはり一般の方々のある種の求めは、この辺にあるように思います。(2014.9.30.更新)