[住 職 法 話]

 ここでの法話は、普通のお寺の法座でお話ししている法話などを何回かに分けてお話ししてまいります。少し連載が長くなりますが、纏まった法話ができるので、私も楽しみにしています。

 尚、宝林寺の寺報「菩提樹」に書いてきた読み切りの短法話を「住職ひとくち法話」として新コーナーを設けて掲載いたします。よろしかったらそちらも訪ねてみてください。

 

  

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー (2020.3.8.更新)

 自力の信心の恐ろしさ②

 それでそのことをその教団の幹部の人の所へ行って、その理由をそれとなく尋ねたそうです。そうしたところがその幹部の方は、このご婦人の心中を見抜いて「あんた、何か、それじゃ、自分の主人が死んだというのは、うちのご本尊に力がなかったとでもいうのか。何を考えているのだ。いざという時に助けてもらえなかった、ご利益がなかったというのは、ご本尊様に力がないのではなくて、おまえの主人が、外目には一生懸命信心しているように見えて、その実内心では本気で信じていなかったからだろうが。その証拠には、本当なら助けてもらえるはずのところが、普段の信心が偽物だったために、ご本尊様の御心にかなわなかったのだ。おまえの主人の信心が不足しているのをよそにして、うちのご本尊様にけちをつけるとは何ごとか。この不信心者が」と叱りつけられたそうです。

 これがよく聞く宗教の恐ろしさの一面ですね。よいことがあれば、それはご本尊様のお陰、ご利益。悪いことがあれば、それは信心が足りないから、だからもっと本気で信じなさい、となります。

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 25 (2020.2.10.更新)

  自力の信心の恐ろしさ

 その前に、今述べた世間で言われる信心、信仰の恐ろしさについて少しお話ししたいと思います。

 これはある大きな教団を脱会されたご婦人の手記で教えられたのですが、このご婦人のご主人は県会議員をされておって、ご婦人はその教団のために熱心に活動していたそうです。それぞれがその地域の部長をやり、奥さんは婦人部長というような要職をなさっていたそうです。ご主人は忙しい政治活動の合間を縫うようにして教団の活動・集会に出席し、人々を誘っていたそうです。ところが、ある時、このご主人が交通事故にあって、あっけなく亡くなってしまったというのですね。で、その時に奥さんは悲しみの中にも、ひとつ解けない疑問が起ったというのです。それは何かと申しますと、これほど熱心にこの教えを信仰していた主人が、なぜ危機一髪のところで助けてもらえなかったのか。このような折にこそ、神仏のご加護があって、危うく九死に一生を得たというご利益にあづかってもおかしくないのに。なぜ、主人はそのような救いにあづかれなかったのか、なぜ当然のご利益をいただくことができなかったのか。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 24 (2020.1.25.更新)

 まとめますと、普通の宗教においては、私たちのほうに何がしかの願いがあって、それを実現するために、人知を超えた力を神仏によって得ていこうとする、その時にその神仏にわが願いを聞き入れてもらうことが必要となるわけですが、そこに用いられるのが祈りということになるのです。その場合にその祈りが本当に神仏の御心に適って聞き届けられるかどうかは、祈る人間の側の心がいかに真実であるか、その心に基づいていかに真剣に行うかということが、決め手になる。だから、そこで真剣に祈りなさい。熱心につとめなさいということになっていくのですね。浄土真宗の信仰、信心とはこのようなものではないということをはっきりさせるためにも、他力の信心ということをいうのです。

 では、浄土真宗の信心には、なぜ祈りがないのかということです。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 23(2019.12.21.更新)

 もちろん端に自分の欲望、願いを叶えるというだけではなくて、もっと深い宗教性をもって神との精神の交信が祈りであるということもあると思いますが、いずれにしても、信仰は自分のするもの、作るものということは変わらないのではないでしょうか。

 浄土真宗でいう信心というのは、世間一般で言われる信仰とはだいぶ違っているのですね。つまり、自分のほうで清らかな心を作ったり、真剣な祈りを捧げて、神仏の御心にかなう行いを積んで救われていく、そういう自力の信仰ではないということなのです。真剣に阿弥陀様に向かって救ってくださいと願い、そのために一生懸命にお念仏称えて助けてくださいと祈る、そういう信仰ではないということなのです。

 

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 22(2019.11.18.更新)

 これを見ました時に、いわゆる宗教の原初的なあり方というものを教えられたように思いました。つまり私たち人間の側にどうしても叶えてもらいたい願がある。自分でもがんばるが、自分の力だけではどうにもならない事柄があって、それをなんとしても叶えてもらいたくて、神仏にすがる。例えば、病気や、子供の結婚、進学などについてのお願いですね。それを叶えてほしいと神様にすがっていくわけでしょう。そしてそのお祈りを叶えていただくために、しかるべき金品を包んで(行い)、こちらも心を尽くして真剣に祈る。自分の祈りが神に聞き届けてもらえるかどうかは、私たちの行いと、どれだけ真剣に祈ったかという、心の在り方が問題にされるのですね。

 信仰というと、この点を押さえて、熱心に信仰しなさいとか、真剣に祈りなさいなどと言われるのですね。後で詳しくお話ししますが、浄土真宗の信仰はこのような信仰ではないのですね。つまりこの信仰は、自分の行いと自分の心を神仏の御心に適うように作っていくわけですから、これは文字通り自力の信仰ということになります。そして、その自力の信仰を作っていくうえで、神仏の力を借り、力にすがって、自分の信仰が神仏の御心に近づき、自身の救い、願いがかなうようにしていくことになるのではないかと思います。

  

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 21  (2019.10.13.更新)

 それで皆さんが初詣の願いをかけている間、少し手持ち無沙汰になったのですが、その時に興味深い光景を見たのです。それは何かと申しますと、正面の横のところに入口があって、そこに夫婦連れや、恋人同士、あるいは親子、家族連れなどが入って行くのです。私は手持ち無沙汰でもありましたから、その人たちが何をするのか、ずっと目で追っておりました。すると、入っていった人から順に、朱色の袴をつけた巫女さんに案内されて、受付みたいなところへ行き、そこで一枚の紙をもらっていました。それからそれを書き物台のようなところに持っていって、身を屈め何か書いておりました。そしてそれが終わりました人から順にまた別の巫女さんが、その人を案内して、先程の受付に連れて行きました。その時皆さん何かごそごそとカバンから出していましたが、どうもお財布のようでした。きっと何がしかお金を出していたのではないかと思いました。それで見ていますと、受付の済んだ人から順番に、やはり別の巫女さんが、とごかに案内していくのですね。どこへ連れていくのだろうと見ていたら、なんということもありませんでした。その人たちは私たちがお参りしているご神体様の祀られている真ん前の座に案内されていきました。私たち大勢の参拝者は結界の柵に隔てられて遠くから拝むだけでしたが、その方たちはすぐ近くの座まで進んで、そこで正座して座らせられました。それからしばらくして麗しい装束をつけた神主さんが現れて、その人たちの前にたって、何か祝詞を読まれて、それが終わると参拝者がご神体様に深々と頭を下げてお礼をしておりました。それが終わるとその場から退席していくのですが、受付をすました人たちが次から次へと入ってきて、それは途切れることなく続いていくようでした。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心であるー祈りのない宗教ー 20 (2019.9.16.更新)

 同じように、私は小説が好きなのですが、いつか自分の子供たちには、シェイクスピアとかトルストイとか、ゲーテとか、そういう世界的な文豪の作品が読めるようになってほしいと願っています。しかし、そういう作品こそが、最高の文学作品だからといっても、学校に上がる前の子供に、シェイクスピアとか、トルストイだとかいっても、やはりとても読めないでしょうね。やはり最初は童話や昔話のようなもの、桃太郎やかぐや姫のような話から入っていって、少しづつレベルが高くなっていくのでしょう。トルストイの『戦争と平和』などからしたら、いかにも程度の低い、幼い物語であり、小説であったとしても、それらによって子供の能力が高められ、育てられていかないことには、とてもトルストイやゲーテの作品には手が届かないのです。つまり子供の能力に合ったものがなかったらいけないわけです。そして、その意味からすると、そのような最高の作品が読めるようになるまで、それぞれの子供の能力、気質に応じた作品があることがとても大切であり、それがあるからこそ、最高の文学作品を

も読むことができるように育ててもらえるのですね。

 ちょうどこのように阿弥陀様のご法義は最高の教えですが、その最高の教えを理解し、それをいただくことができるようになるまでは、そのような私たち自身の程度に見合った教えがなくてはだめなのであり、その教えがあったればこそ、有り難い阿弥陀仏の法に出遇うこともできるのですから、それらの教えは程度が低いからくだらない、つまらない教えであると切り捨てたり、見下したりは決してできない。それらの教えのおかげで、それらの

天地の神様のおかげで、導かれてこの教えに出遇えたのだと、そのようにそのご恩をしのぶのです。ですから、私はありがとうございますという気持ちでお念仏を申したのです。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 19 (2019.8.22.更新)

 最終的には、最高最善の阿弥陀様の教えに入ってもらうことが目的であっても、それがあまりに素晴らしすぎて、こちらにはそのレベルが高すぎて近づけなかったり、理解できないということもあるのですね。ちょうど数学などても、最終的には三角関数とか微分積分というような高等数学に導きたいのですが、しかし、まだ学校もいかないような幼い子供には、そんな難しい高等数学を教えてもチンプンカンプンなのですね。まずは、リンゴが一つ、ミカンが三つ合わせていくつ、というような算数の手引きが必要なのですね。そうして少しづつ教えていき、次は引き算、掛け算、割り算などを習わせていく。面倒なようですが、相手の能力に応じたレベルの教えが説かれていなかったら、最終の目的である関数や微分積分などには行きつけないのです。最終地点から見ると、足し算や引き算など、まるで取るに足りない教えのようですが、このようなことから入っていかなくては、最高の数学に至り着くことはできないのです。その意味からすると、つまらないように見えるリンゴが一つ、ミカンが三つ合わせていくつの教えも、幼い能力と資質の者のためには、そのような者を最高の数学に導くためにはなくてはならない大切な教えであり、真実の最高善たる数学に導くための方便(手段・手だて)であるということができるのです。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教― 18(2019.7.12.更新)

 私はごく当たり前の気持ちで、有難うございますという思いで、お念仏を称えました。神様のところにお参りしながら、お念仏して、それが不謹慎でなく、感謝の思いからとはどういうことかと疑問に思われるかもしれません。というのは、浄土真宗では、この世のさまざまな天の神、地の神は、みな阿弥陀様のお手伝いをにしてくださっている方々といただきます。すぐに阿弥陀様の他力のお救いに身を任せることのできない人間を、その人間にそって少しづつ如来様の教えに近づくことができるように育て、導く。阿弥陀様のお救いのために、そのもとで働いてくださっている神様といただきます。そうしてそのような天の神、地の神は、みなこぞってお念仏の人を褒めたたえ、夜となく昼となく守護してくださっているのです。

 天の神、地の神さまたちは、すぐに阿弥陀様の絶対他力の教えに入ることのできない私たちを少しづつ育てあげ、導いてくださっているのです。

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教―  17 (2019.6.14.更新)

 そんな状態がしばらく続いて、その原因がようやくわかりました。つまり厳島神社のご神体様が祀られているところに来て、参詣の人たちがそこでお賽銭をあげて、ひとしきり神様に願いごとをしているのです。それでそこで行列が止まってしまうのです。しばらくすると私たちもそのご神体様のところにまいりました。ただ、私は仏教徒であり、もとより初詣に来たのは、何か願いごとがあって来たわけではありません。あくまでも観光目的の、鳥居見たさに来ただけですので、取り立ててお願いごとがあるわけでもありません。ただ、せっかくお参りしたのだからと、子供たちにもお賽銭を渡してお参りいたしました。もちろん柏手を打ったわけではなくて、私は合掌てお念仏を申しました。そうしたら、私のお念仏の声を聞いてそばにいた人たちが、「えっ」という顔で振り返りました。私は普段から禅宗のお坊さんの着ている作務衣というものを着ていて、頭もこのように短く刈っていますので、振り返った人は私を見て、「なんだ坊さんか」という顔で納得されました。皆さんが驚いたのも無理はありません。神様のところにお参りして、お念仏を聞いたわけですから。

 しかし、それでは私は不真面目な気持ちでお念仏したのか、それとも仏教徒であることを誇示して、柏手を打つのを潔しとしない心持から、強いてお念仏を称えて、念仏者の面目を保とうとしたのかというと、そのどちらでもありません。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教― 16 (2019.5.18.更新)

  私は宮島というのは、ごくごく小さな島で、そこには厳島神社しかないくらいに考えていたのですが、それは大きな間違いでした。実際宮島に渡る船は結構大きな船でした。そして島に着いてみると、ずいぶん大きな島で、厳島神社の他にもいろいろの史跡があり、また動物園やロープウェイまであって、その気になれば、一日中遊ぶことのできるほどの島でした。

 私としては純粋に観光目的で例の海中に突き立つ鳥居を見たいだけだったのですが、それを私が期待した通りの絵葉書で見たような美しい姿で見ようとすると、どうしても厳島神社に参拝して、そこの正面舞台から見なくてはならないことがわかりました。それで、それならということで、大勢の参拝者に混じって子供たちと一緒に厳島神社にお参りすることにしたのです。

 最初に手をきれいに洗い、それから拝観料を払って入るのですが、とにかく正月の二日ということで、非常な数の人がお参りしているのですね。まぁ、言ってみたら、東京の朝の通勤列車のラッシュのような大混雑で、鳥居が見たいから、さっさと歩いていくということなどとてもできませんでした。群衆の流れに身を任せて進む、そんな状態でした。しかし、それでもはじめのうちは亀の歩みのごとくではあっても、少しづつ進んでいたのですが、途中から少し行っては止まり、また少し行っては止まる、そんな状態の繰り返しになりました。私はとにかく例の鳥居が見たいだけでしたので、なんですいすい進んでいかないのかと、少々いらいらしておりました。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である―祈りのない宗教ー 15 (2019.4.11.更新)

  なぜ他の宗教には祈りがあるのか

 今申しましたように、浄土真宗という教えの大きな特徴は、真宗門徒の日々の信仰生活の中に祈りが一切ないということです。で、その代わりにあるのが、生涯聞法と称名念仏があるということになります。それで、最初になぜ他の宗教には、祈りがあるのか、祈りの構造というようなものを考えてみたいと思います。

 それについて私のある体験談をご紹介してから、お話をはじめようと思います。

 私はもともと神奈川県に生まれ、大学は東京の大学を卒業しました。そして得難いご縁で僧侶となり、住職にならせていただいてたのです。神奈川県にいた頃から、是非とも行ってみたいと思っていたのが、広島県の宮島でした。あの宮島のシンボルとなっている海中に建つ赤い鳥居、平清盛が奉納したと伝えられている厳島神社のそれを是非とも見たいと思っておりました。もちろん純粋に観光目的としてですが、一度本物を見てみたいと思ったのです。

 そうしたところが、思いがけずに山口県の人間になりましたので、数年前にその願いがかなって厳島神社にいって、その鳥居を見てまいりました。そこで今お話ししたい、宗教における祈りの意味を教えられたように思ったのです。それがいつ宮島に行ったかと申しますと、正月二日に行きました。なんだか初詣みたいになってしまったのですが、ちょうど時間がとれて、子供たち三人と行きました。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 14 (2019.3.10.更新)

 わたしの戸惑いーお祈りをしない宗教ー ③

 それで最初に結論から申しますと、なぜ祈りがないのかといえば、それは信心が他力だからであり、なぜご信心というのかといえば、それは私たちの信心は私が自分で造り上げるような自力の信心ではなくて、阿弥陀様から賜る、阿弥陀様の真実のお心がそのまま私たちの信心となるからです。それでその信心に「ご」をつけてお敬いをして呼ぶのです。

 他力本願の教えですから、浄土真宗の信心は他力なのです。それでは他力の信心が外に現れた信者の宗教生活とはいかなるものですか、というと、それは日々の暮らしの中に祈りが一切ないということです。それではなぜ浄土真宗には祈りがないのですかというと、それがつまり信心が他力だからなのです。浄土真宗の私たちの生活には、祈りが一切ないかわりに、何があるかといえば、法を聴聞する聞法と、お念仏があるのですね。

 本日は報恩講にあたり、親鸞聖人はお救いは他力の信心ひとつをいただくことであると、教えてくださったのだということを味わって、宗祖のご恩に報いてまいりたいと存じます。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 13 (2019.2.9.更新)

 わたしの戸惑いーお祈りをしない宗教ー ②

 それで私が初めてこの他力の信心という言葉を聞いた時は、まずその意味するところが理解できませんでした。

なぜかといって、信心という言葉を使う以上、その信心する主体は私なのだから、何をどう言おうとも、信心、信仰といった時点で、それは当然私の信心であり、信仰なのだから、私が信じ、信仰していることになるのですね。そうであれば、その信心、信仰というのは、当然のこと自力しかないではないか。それなのに、どうして私の信心、信仰に他力などということを言うのだろうか、いや、どうして私の信心が他力になるのか、私にはそれが理解できませんでした。

 思い出されますのは、初めて浄土真宗のご法話を聞いた時に、布教使の方が盛んに「ご信心、ご信心」という言葉を使われて、それがいつも耳障りで、なんで自分の信心に「ご」をつけて敬うのだろうか、変なことを言うといつも感じておりました。おかしなたとえですが、もし私が皆さんに自己紹介するのに、「私は宇部市から来た市川お幸佛様でございます。」と言ったら、皆さんは、あの人は少し頭がおかしいのではないかと思われたことでしょう。私が感じたおかしさは、そんな感じだったのです。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 12 (2019.1.29.更新)

 私の戸惑い-お祈りをしない宗教ー

 私はもともとが浄土真宗のお寺に生まれたわけではありませんでしたし、皆さんのように浄土真宗の門徒の家に育ったというのでもありません。まったく縁もゆかりもなかったわたしがたまたまお寺の跡取り娘にであったことがご縁となって、この浄土真宗という教えに出遇うことができたのです。そのような私にとって、浄土真宗の教えは分からないことばかりでした。

 その中で、やはり一番わからなかったことは、この他力回向の信心という意味でした。今にして思えば、この他力回向の信心がわかるということは、それがそのまま南無阿弥陀仏の名号が何であるかわかるということであり、その南無阿弥陀仏がわかることがすなわち他力回向の信心を賜ることなのだと、すべては名号、南無阿弥陀仏ひとつに納まるのだということが親鸞聖人の教えてくださったことなのですね。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 11(2018.12.22.更新)

 以上が第三代のご門主であらせられた覚如上人によって明らかにされた宗祖のご恩徳なのですが、本日はその中の第二番目にあげた本願相応の徳ということで、宗祖のご恩を偲んでみたいと思うのです。そして、このことは、本日の冒頭に私が居多ヶ浜の海岸で石を拾ってきたお話をいたしましたが、宗祖と同じ南無阿弥陀仏をいただいているという、この名号と関係してくのです。

 親鸞聖人のご恩は、今お話ししたように覚如上人が懇ろにご教示くださっているのですが、それを煎じ詰めて、私の言葉で言うならば、親鸞聖人は南無阿弥陀仏とは何かをはっきりと教えて下された方であるということに尽きるのだと思うのですね。そして本日はその南無阿弥陀仏を信心の上から味わってみようと思うのです。 

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 10 (2018.11.26.更新)

 最後の滅後利益の徳というのは、親鸞聖人亡き後に私たちが利益されていることについて、そのお徳を讃えたものですが、実は今日ある本願寺の出発点は、親鸞聖人のお墓から始まっているのです。どういうことかと申しますと、聖人がご往生あそばされてから十年後に、聖人の末娘の覚信尼様が、ご主人から譲り受けた自身の土地をご門弟に寄付して、その土地に親鸞聖人のお廟所を造り、そこに墓石と、後に聖人のご影像を安置したのです。そして、このお廟所の管理を聖人の血筋をひく者がすることになりました。これを留守職と申しますが、このご廟所が元となって、第三代の覚如上人の頃に本願寺教団の礎が創られることになったのです。そうしてそれが発展して、今日の京都の大本願寺へとなっていったわけです。それで覚如上人が仰るのは、そのようなご廟所ができたおかげで、皆がそこにお参りし、阿弥陀様のお慈悲をしのぶ縁ができ、合わせて親鸞聖人が生前にたくさんのお書物を書き残してくださったおかけで、自分たちばかりか、自分の子供や孫たちまでも、この教えを伝えていくことができる。これもみな親鸞聖人亡き後に、私たちが聖人から賜ったご利益であると、そのお徳を讃えられているのです。

 そうして、宗祖はつまるところ、そのご生涯をかけて阿弥陀様のご本願を勧めてくださったのだから、私たちは、そのご恩徳を偲んだら、報恩のために、私たち自身が他力信心をいただいた念仏の行者となって、仏徳に報い奉る称名念仏をしていこうと結ばれているのですね。

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 9(2018.10.7.更新)

  この書物は、宗祖聖人の三十三回忌の法要をお勤めされる時につくられたものだといわれているのですが、その三つとは、

 一 真宗興行の徳

 二 本願相応の徳

 三 滅後利益の徳

の三つです。それぞれどういうことか簡単に説明しますと、 まず最初の真宗興行の徳というのは、文字通り、親鸞聖人のご一生のご苦労を偲んで讃える宗祖のお徳です。まさに親鸞聖人がその九十年のご生涯をかけてご苦労くだされたお蔭で浄土真宗のお法が顕らかになったということを讃えたものです。

 つぎの本願相応の徳というのは、その浄土真宗という他力のご法義の要は、阿弥陀様からいただく他力回向の信心ひとつが浄土往生の正しき因であることをはっきり教えてくださり、ご自身もそれによってご往生されたと同時にたくさんの人々にその阿弥陀様のお心を伝えて、そのご本願のお心に相応した報恩のご一生であったことを讃えられたお徳です。本日は特にこの点についてお取次ぎをさせていただきたいと存じております。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教ー 8(2018.9.7.更新)

 それにしても自分を産んで育ててくれた思い出厚い父母や、あるいは祖母や祖父の法事ですら、だいたい五十回忌で打ち止めにしてしまうのに、一度も会ったこともなければ、その声も聞いたことも、手に触れたこともない宗祖聖人のために、これほど丁寧な法事を時代を越えてどうして勤めてきたのか。いったいどんなご恩があるからといって、それほどまでにして宗祖の法事を大切に勤めるのか。それをまず最初に考えてみたいと思います。

 私の言葉で言えば、親鸞聖人のご恩は先ほどのお念仏、この南無阿弥陀仏というお念仏が何であるかをはっきりと教えてくださったことであるといってよいと思うのです。それによって浄土真宗の救いは、他力の信心ひとつの救いであることがはっきりした。そこにこそ、聖人のご恩があるといってよいのだと思うのです。

 しかし、そのことはおいおいお話することにして、最初はまずこの聖人のご恩について、本願寺の第三代のご門主となられた覚如上人が『報恩講私記』という短いお書き物に宗祖のご恩徳を三つ示してくださっていますので、それからお話してみたいと思います。

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教ー 7(2018.8.22.更新)

 宗祖のご恩をしのぶ

 さて、本日の報恩講とは、宗祖親鸞聖人のご命日の法事なのですが、一体今年で何回目の法事かということです。皆さん本年㋀16日で何回目の法事になると思いますか。平成24年の㋀16日が宗祖の750回大遠忌に当たりますので、それから今年は6年たったわけですから、756回忌ということになります。

 一口に756回忌といいますが、この間にはずいぶんとたくさんの時代が流れているのです。まずご往生されたのが、鎌倉時代、ついで室町時代、そして蓮如上人が活躍された戦国時代、それを束ねた織田信長、豊臣秀吉の安土桃山時代、それから関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が開いた江戸の300年間、それに幕を引いた明治時代、そして大正デモクラシーの大正時代、そして先の天皇陛下のご崩御によって幕を閉じた昭和時代、そして現在の平成時代と、8通の時代が流れて、756年です。

 この間には人と社会の在り方、生活の様式やものの考え方など、大きく変化いたしました。2週間もかかって、山口県から京都へ行っていたのが、今では2時間で行けるようになりました。そしてさらに現代では、宇宙空間に宇宙ステーションが建設され宇宙での活動が常時おこなわれているのです。

 実に劇的に社会は変わったのですが、それにも関わらず、この仏事は鎌倉時代からこの平成の今日まで変わることなく続けられているのですね。私はすごいことだと思います。

 

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心であるー祈りのない宗教ー 6(2018.7.13.更新)

 なぜか。私はせっかく居多ヶ浜の海岸に来たのだから、ひよっとして八百年前にこの海岸に上陸された親鸞聖人が、そのおみ足でお踏みになったかもしれれないと思って、聖人のご恩を偲び、聖人様とのご縁を求めるような気持ちでたくさんの石を拾ったのでした。そのことを、馬鹿なことをしたと言ったのです。なぜ、そう思ったのかといいますと、そんなものを拾ってくる必要はなかったのです。何となれば、今、私がこの口に称えたお念仏は、親鸞聖人がそのご在世当時に、御自らの口に称えた同じお念仏であり、今、この耳に聞いたお念仏は、親鸞聖人が師の法然様から聞かされ、御自らのお耳で聞かれた同じ念仏であり、そのご恩をしのぶ心で称えたお念仏は、やはり八百年前の昔に、宗祖がその心に念じられたと寸分違わぬお念仏であったのです。親鸞聖人がいただいたと全く同じお念仏をいただきながら、いったい何の必要があってそれ以上の縁とたよりを求める必要があったのだろうか、と思ったのです。それで、「ああ、馬鹿なことをしたな」とつぶやいたというわけです。

 本当に、そう思いますと、今日私たちがいただいているこのお念仏は、親鸞聖人がご在世当時に自らお口に称え、お耳に聞かれたと全く同じお念仏なのですね。もったいないように思いますね。

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心であるー祈りのない宗教- 5(2018.6.10.更新)

 ところで、私はすぐとんぼ返りで山口県に帰るべく電車に乗りました。その時に発車を待つまでの間に、今、居多ヶ浜の海岸で拾い集めてきた石、私は海岸のあちらこちらを歩いて、都合12個も拾ったのですが、それを入れたビニール袋を膝に乗せて、昨日から今日の1日の自分の行動を振り返っていました。先輩に叱られた時は、反発するものもありましたけれども、そのお蔭でこうして一念発起して新潟まで来て、居多ヶ浜の海岸に来ることができた。そうしてほんのわずかであっても、宗祖のご苦労をしのぶことができた。思い立って来て良かった。そして急な思い付きにもかかわらず、事がつつがなく成し遂げられこと、これも冥加があったのだろうと思い、私は思わず南無阿弥陀仏とお念仏を申しました。

 その時です。私は思わず「ああ、馬鹿なことをしたな。」とつぶやきました。自分の口で称えたお念仏を自分の耳で聞いたその瞬間につぶやいたのです。居多ヶ浜に来たことを馬鹿なことと思ったのではありません。たくさんの石を拾ったことを馬鹿なことをにしたと思ったのです。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 4(2018.5.17.更新)

 ですが、その間に考えたことですが、ご開山聖人がこの地にご流罪になられたのは、二月のことだったと聞いておりますから、厳冬の越後に、荒い波に揺られ、身を切るような風に、おそらく吹雪のような雪が降っていたのではないでしょうか。そのような水や風を防ぐような防寒靴も、防風コートも無しに、冷たい雪と風と波にさらされて、親鸞聖人はこの地に流罪人としての第一歩をしるされたのだ。

 私は六月で寒くもなく、多少の雨と風に、砂浜の砂が顔に当たって痛いなどといって愚痴をこぼしているが、八百年前のこの時、親鸞聖人のご苦労はいかばかりであったろうかと多少なりとも、そのご苦労をしのぶ縁をにいただくことができたと思いました。

 それで、この時は、ただ居多ヶ浜ばかりしか頭になくて、今思えばせっかく山口から新潟県まで来たのですから、その他のご旧跡を訪ねてもよかったのですが、何も考えずに出かけて来て、居多ヶ浜を訪ねてもう帰る予定にしてしまっていたのです。それで帰る時に、当地を訪ねた記念にと思い、また宗祖親鸞聖人のご苦労をしのぶ縁にと考えて海岸の石を拾ったのです。それがこの石です。

 

第14回

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 3(2018.4.12.更新)

 海岸に降り立った時の私の第一印象は、何とも言えないうら寂しい感じでありました。平成に入って行ったのですが、こんな寂しいただずまいの海岸があるのだろうかと思いました。北陸の日本海は、海の色も黒い感じで、私たちが山口県で目にする海の色とは違うものを感じました。

 海岸の砂浜に出ると高さ3メートル位の記念の柱が立っています。うらおぼえですが、たしか「親鸞聖人流刑の地居多ヶ浜」というような文字が書かれていたと思います。またすぐその近くには、六角のお堂のような建物がありました。

 私は早速に砂浜に下りて行きました。ここが、かつて今からおよそ八百年前に親鸞聖人が承元の法難によってご流罪になられて、小舟で上陸された場所なのだと、思いました。

 私はそれから適当なところを選んで、海に向かって正座しました。そして正信偈を唱えました。その日は六月の梅雨空で小雨が降っていたのですが、とにかく風の強い日でした。それで当たり前に顔を上げてお勤めすると、砂が口に入ってくるので、私は持参したビニールヤッケを頭からすっぽりかぶって、ヤッケのフードで口を隠すようにしながら、猛烈な速さで正信偈を唱えました。それでもお勤めの間中、細かな砂が顔に当たって痛かった。そして終わったら体中に砂が入っているようでざらざらしました。

第14回 

浄土真宗の信心は他力の信心である-祈りのない宗教- 2  (2018.3.8.更新)

  私は今年で布教使になって26年目になりますが、まだ駆け出しの頃に、先輩布教使のお寺にお招きいただいた時に、「市川君は、もう居多ヶ浜に行ったか」ときかれました。私は「宗祖がご流罪になられた新潟県のあの居多ヶ浜海岸のことですか。」と改めて尋ねて、「いいえ、あんな遠い所にはまだ行ったことはありません。」と何も考えずに答えました。すると先輩は、「ばかもん、宗祖のおみのりを説いて歩こうという者が、その聖人のご苦労のはじめともいうような流罪地を訪ねないとは何事か、すぐに行ってきなさい。」と叱りつけられました。その時はちょっと私もかんちときたのですが、確かにこれまで歴代のご門主方、覚如上人にしても、蓮如上人にしても、宗祖のご旧跡を訪ねて歩かれているのですね。宗祖のご苦労の始まりをどこに見るかは、人によって見解が別れるかもしれませんが、確かに都人であった宗祖が、罪人となって刑を受けてのご流罪というのは、これまでの宗祖の人生にはない、実際上の大きなご苦労には違いないのです。それで、思うところもあって、ある時一人で新潟県の居多ヶ浜に行ってきました。

 居多ヶ浜の海岸へは、JRの直江津駅からバスで居多ヶ浜バス停で降ります。バス停から浜辺へは歩いて数分だったと思います。

第14回 (新連載)

浄土真宗の信心は他力の信心であるー祈りのない宗教ー 1  (2018.2.18.更新)

(この法話は、以前に在家仏教協会の宇部支部での講演がテープ起こしされて雑誌『在家仏教』に掲載されたものに訂正加筆したものです。)

 

 十方微塵世界の

 念仏の衆生をみそなわし

 摂取して捨てざれば

 阿弥陀となづけたてまつる 

 

はじめに

 ただ今、ご紹介いただきました市川幸佛です。この度はご当山の報恩講のご縁を賜りました。一日のご縁ですが、よろしくお願いいたします。

 ところで、最初にみなさんにお尋ねしますが、これは何だと思いますか。そう、これは石なのですが、ただの石ではないのです。かといって月の石ではありません。実はこの石は、ひょっとしたら親鸞聖人のおみ足が踏まれたかもしれない所から拾ってきたものなのです。もったいぶるようですが、実はこの石は、親鸞聖人が御年三十五歳の時に、承元の法難に連座して、越後、現在の新潟県ですが、そこにご流罪になられた、その時にその流罪地に上陸した居多ヶ浜の海岸で拾ってきたものなのです。(次回に続く)

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 37  (2018.1.27.更新)

(前回の続き)

 結論 ②

 さて最後に、これまで申しあげてきた今日のお話の要点を整理して、すっかり本日の話を終わりたいと思います。これはわかりやすいように箇条書きにしてお話することにいたします。

 1 いのちを損なう差別、同和教育や人権教育がなされる場合に、私たちのいのちとはどういうものか、どうすることが本当にいのちを大切にすることになるのかという根本的な視点が抜け落ちると、いのちを大切にするというそのやり方で、逆に自分たちのいのちを損なうことになるのだということです。

 2 そのいのちの見方とは、現代人が当たり前にしている自我肯定にたった自分がひとりで生きている、自分が自分の欲望を充足することがいのちを大切にすることだと考えているような、そのような見方ではなく、そのような見方こそいのちを大切にしているといいながら、現実にはいのちを損なうように働いてきたものです。だから、いのちを大切にするというときには、必ず自我否定の立場にたった仏教の縁起的ないのちのあり方を根底にすえなくてはなりません。

  ⒊ その場合にいう、自我否定的ないのちとは何かといえば、それは私たちいのちはそれだけで忽然として存在しているものではなくて、あらゆる関係性の中で生かされているいのちであるということです。その生かされている命を、生かし続けている力、働きを一口で仏より賜ったいのちであるといただきます。私たちのいのちが尊いのも、つまるところそれが仏より賜ったいのちであるからであり、他のいのちが尊いのも、それが同じく仏より賜った同じはらからのいのちであるからです。つまり仏より平等にいただいているいのちであるということです。

 ⒋ さてそれではそのいちのを大切にするとはどういうとになるのしょうか。縁起の中で生かされて、仏のいのちを賜ったものでありながら、そのことを忘れて俺が俺がと、自己中心的になって自分の欲望を充足することにのみ奔走するのは、智慧のない無明煩悩のためです。したがって、そのような煩悩の心から解放されることこそ、真の意味でいちのを大切にするということでなくてはならないのです。仏教では、その煩悩から解放されることをさとると申します。この悟りを開くということによってはじめて差別する元がなくなり、自分自身もその煩悩に苦しむことがなくなり、自由となるのです。

 ⒌ そのようないちのの解放を実現する道を仏道というのですが、私たちがよく歩める道は阿弥陀仏の他力本願のお念仏による救いしかありません。それは自力の修行によって自身の煩悩を断滅する道ではなくて、煩悩の心が阿弥陀様の救いの働きによって善へと転じられていくという仏道です。

 ⒍ わかっているけどやめられないという人間の本質を根底から改変するためには、単に知識的な啓蒙活動だけでは限界があります。そのためにはいのちは何か。いのちの意味は何か。何がいのちを大切にすることなのかをきちんと教えてくれる仏教の教え、なかんずく浄土真宗の宗教的な感化力によらなければ、真実に運動の成果をあげることはむずかしいのではないかと私は考えております。

 

 長時間にわたりましたが、皆さまよくお聴聞してくださり、有難うございました。

第13回

いのちを大切にするとはどういう事か   36   (2017.12.26.更新)

(前回の続き) 

 結論

 長いお話もようやく結びを述べる段になりました。ここでは結論はいのちを大切にするとはどういうことであるかいう、この度の話の最初に出した金子みすゞさんの詩がどこから生まれたのか、そういう話でまとめてみたいと思います。

 金子みすゞさんの詩には現代の人の忘れた優しさがある、暖かさがあるといわれますが、そのみすゞさんの詩の源泉はどこまでも浄土真宗のお念仏であると私は思っています。

 冒頭で紹介した大漁の詩は、やはりみすゞさんが仏教のお育てをいただいていたなればこそ、おおば鰯の上にも自分と同じ平等のいのちを見出せたのだと思います。しかし、それだけではみすゞさんの詩になりません。さらに言えば、その同じ仏さまのいのちをいただいたものですから、そのいのちを殺してはならないのです。なぜなら鰯は生きたいのです。私たちと同じようにいのちあるものは死にたくないのです。しかし、私たちはその死にたくない魚、それは同じ仏さまのいのちを賜ったものですから、殺してはならないのです。しかし、そうとわかっていてもその死にたくない魚を殺し、殺してはならないとわかっていても鰯を殺していくのです。そこに私たち人間の罪の深さ、罪を犯さずには生きていけない人間のどうにもならない業があるのです。

 ですから、みすゞさんにはここでいっぺん泣いているのです。涙があるのですね。自分の身の上の罪深さを慚愧する涙があるのです。しかし、ただ慚愧の涙の上からこの大漁の詩があるのかといえばそうではありません。もし罪深い私でありましたというだけでは、この詩の暖かさはでてきません。そこにはお念仏の喜びがあります。つまり、そのような罪深い私、普通ならとても救っていただくような、助けてもらえるような値打ちのない私、それがだからこそ私を救うという如来様のお慈悲に助けとられていくという大いなる安心をともなった如来様のお慈悲の働きに対する喜びです。それは慚愧があってから喜びが起こったというのではなくて、ひとつの心を開いてみせたら罪深い私の現実の姿への慚愧心と、そのような者を救わずんばおかずという如来様のお慈悲にいだかれて今ある現実の救いの喜びの感情というものになるということです。ですからそれはひとつ心です。慈悲の光に照らされて自身を見れば、慚愧心となり、慚愧する自身の心からお慈悲を仰げば、ただもったいないお慈悲でしたとよろこばずにはおられない歓喜の心となる。そのようなものといってよいと思います。

 金子みすゞさんの詩は、この心から生み出されたものです。罪をおかさずにおれない自分をそのまま捨てない親さまがいてくださる。その安心と平安のやすらかさの中に一切のいのちを慈しむことのできる心をみすゞさんは育てられたのだと思います。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 35 (2017.11.12.更新)

(前回の続き)

他力浄土門 ➃

4.そしてその阿弥陀仏の救いは、このいのちが終わったら何もない世界に帰るのではなくて、真実の智慧と命の世界である浄土に帰るのです。 しかも浄土へ帰るのはこの世にいる間、煩悩に縛られて完全には自由になれなかった私がその煩悩の束縛から解き放たれて、さとりの仏となり、仏となった者のつとめとして今度は煩悩のために迷える者を次から次へと救いとるそういう働きをする者とさせていただくのです。このことは、現代人の多くが死を前にして、自身の死後のあり方がわからずに傾聴ボランティアを必要としているような苦しみから、救ってくれるものです。この意味でも死後のいのちの世界、仏教ではこれを後生といいますが、後生に浄土往生して仏になるという明確な未来の姿が、現在の日々を支えてくれているといってもよいと思います。

 これもまた私たちの幸せの大きな元手です。なぜなら私たちの一番の恐怖と不安は死であり、死後の命のあり方であると思われますが、その両方において浄土往生即成仏の真宗の教えは明確な回答となっているからです。つまり死にまつわる恐怖と不安から私たちを守り救ってくれているのです。

5.最後にこの未来の浄土往生が信心の一念に現実の今確定することによって、如来様の光明に摂取されて、私たちは何があっても捨てられないという安心と智慧の光に守られることになります。それはたとえばこれまでなら、自分の思い通りにならないことがあれば、それがそのまま苦しみとなっいたのに、今ではそのような自分の姿、つまりどんなことでも自分の思い通りを通したくてならず、そのために自分自身で自分の首を絞めていたのだという、自分の我に苦しむ姿が自分の心にはっきり見えるようになります。その時に、思いつめていた力が抜け、息が抜けて冷静な心で自分と周囲を見渡す余裕をいただくことができます。

 以上にようなことが実際の生活の上で自身の上で起こるのです。まさに自分のいのちを大切にすると同じそのことがまた他のいのちを慈しむ心へと向かっていくのです。まさに先の話であった生かされて生きていたという私たちのいのちの現実の在り方を如実に知らされて、自分ひとりが特別であるような心の思いあがりを矯め直されていくのです。私のいのちも他のいのちも共に阿弥陀様に賜った同じいのちであったという処に立ったときに、初めて他のいのちを自分のいのちと同等に見る平等のいのちの見方をいただいていくことができ、そこに文字通りのいのちを真に大切にするという世界が生まれてくるのです。煩悩から解放されることによって、そのようなことが起こるのですね。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 34 (2017.10.15.更新)

(前回の続き)

他力浄土門 ③

 阿弥陀様の場合も一緒なのです。私たちに恩を着せて、その見返りに改心を求める、そんな心の狭い仏さまではありません。迷っていることもしらないような愚かな者を、私たちが求めるより先に助けると仰ってくださる仏さまの、そのお慈悲に触れたとき自身の煩悩に迷う愚かな、あさましい姿が如実に見えるのです。そして同時にそのような私に変わることなくかけられていた親の真実の心が知られて、限りない慚愧の心とそのお慈悲になにがしか感謝し、報いたいという気持ちが起こってくるのです。その慚愧心と報恩感謝の心こそが、私たちの人間性を根底から改変していくものとなります。

 このことが先述してきた現代人のいのちを大切にするといいながら、その実いのちを損なっている現実を変えていく具体的な力となるのです。それを以下に箇条書きで示してみましょう。

⒈ 俺が、俺がという我執を一生捨てることのできない自分であることを教えられました。そのことを以前は何とも思っておりませんでしたが、今はそのような自己の現実の姿を恥ずかしいと思えるようになりました。

⒉ しかもそのような私こそが如来様のお救いのお目当てであったと聞かされて、もったいないお慈悲であると同時に、そのご恩に少しでも報いていこうというような心をいただくようになりました。この心こそが私たちの幸せの大きなもとでの一つです。すなわち感謝する心と、報恩の心これが私たちの心を豊かに満たすものです。

⒊ 自分のいのちは仏さまよりいただいたいのちであり、他のいのちもまた仏さまよりいただいた同じ仏のいのちである。そこに人間だけが特別であるような見方で、自分の都合によって他のいのちをどのようにしてもかまわないというような思いあがった人間中心主義が誤りであることも明確になります。そして他のいのちとの連帯や共感を深めるだけでなく、自分自身のいのちもまた自分勝手にできるようないのちでないことがわかり、大切にできるのです。私のいのちは阿弥陀様にいただいたいのちであって、自分かってに終わらせることのできるようなものではないことがわかるのです。これもまた私たちの現実の幸福のもとでとなるものです。つまり自分のいのちの意味、根底は無意味でなく、仏によって与えら、支えられ、他のいのちと連関をもって生かされている

いのちであるという安心です。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか 33 (2017.9.18.更新)

(前回の続き)

⑵他力浄土門 ⑤

 このときになぜ彼が親孝行のまね事のようなことをしたのか。あれほどおじさんやおばさんに口をすっぱくしていわれても動かなった彼の心がなぜ動いたのか。それは彼の知らないところで、彼のご両親がそのようなことをしてもらう値打ちもない自分のために苦労していていてくれたという親御さんのご恩が知れたからですね。しないでもいい苦労を両親がしていてくれたということが彼に明らかに知られたとき、その親の恩、親の思いに自分がいかに背いていたかという、自分自身の醜い、あさましい姿が見えたのです。それで慚愧心が起きたのです。恥ずかしいと思うと同時に、そのあさましい自分の上に両親の変わることのない愛情が掛けられていたというその深い愛情、恩愛というものが知られて、彼は少しでもその親の心を心配かけないように、親の恩に報いたいと心の内側から真剣にそう思ったからですね。外側からどれほどつつかれても動かなった彼が動いたのは、自分の内側が恩を知って根本的に変革されて、自らそうせずにはおられないようになったのだと思うのです。

 浄土真宗のやり方、衆生のその根性を改変していく仕方は、ちょうどこのような形でなされるのです。もとより阿弥陀様は恩を着せるようなかたではありません。恩を恩と感じるのは、私たちであって恩を着せてその恩に報いさせようなどと考えられているのではありません。それではそれは恩ではなくて、契約であります。彼のしぶとい根性が動いたのは、彼のご両親が何も言わずに、ひとつも恩に着せがましいことをいわないで、ひたすら彼の勉学に差し支えのないことをのみ願って、もくもくと苦労していてくれた無償の親心の真実さに打たれたからです。もし彼のご両親が、そのことを恩に着せて彼に苦言を呈していたのなら、彼はこんなに素直に心を改められなかったと思います。 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 32(2017.8.13.更新)

(前回の続き)

⑵他力浄土門 ➃

 ある友人から聞いた話です。彼は大学生の頃、大変に不真面目でよく嘘をついては、両親からお金をに無心したそうです。ある時教科書を買うからと言って、麻雀ですったお金を送ってもらったり、恩義のある先生の送別会に参加する費用だからといって、女子大とのコンパの飲み代をに仕送りしてもらっていたりしたそうです。親不孝の息子だったとその当時を振り返って述懐していました。ですから、よく叔父さんや叔母さんから「大学生にもなったら少しは親孝行をしないさい。」と言われていたそうです。しかし、そんなときの彼の返事もいつも同じだったそうです。「ああ、わかっているよ。今度ね、また次にね、その次にね、いつかするから、いつかするから」。そういって、結局はひとつも親孝行らしきことはしなかったそうです。

 そんな彼がある年の夏休みに実家に帰ったときに、お父さんとお母さんがそれぞれ夕方になると身支度して出かけていきます。最初は両親は、何かの会合でもあるのだろうくらいに思ったそうです。ですが、見ていると曜日を違えてお父さんもお母さんも外出していきます。それでたまたま遊びにきた姉にそのことをたずねてみたそうです。するとお姉さんは、さもあきれたようにあなたは何も知らないのかと、反対に聞かれたそうです。それで彼が正直に何も知らないと答えると、あきれ返ったと様子で、こういわれたそうです。「あなたが大学に進学して、下宿し始めて、いままでいらなかったお金がたくさん要るようになったのに、そのお金はどこから工面するのよ。お父さんはおまえの毎月の仕送りをするために、パートの仕事を始めたんじゃないの。お母さんは、お父さんひとりでは大変だろうからと、少しでも足しになれば、近くの商店に手伝いの仕事に出かけていっているんじゃない。あんたのためにお父さんもお母さんも慣れない仕事をしに外出しているのに、あんた何も知らなかったの」と。

    この話を聞かされた時、彼は正直頭をがつんと叩かれたようだったと言いました。自分の知らないところで両親がこんな苦労をしていてくれた。そのような苦労をかけてもらえるような値打ちのない自分のために両親がしなくてもよい仕事をして私の学費や仕送りの工面をつけていてくれたのだと、初めて知ったのですね。その時に彼はしみじみと親の恩ということを思ったといいます。不真面目な私であるのに、この子の学業がさわりがってはならないと心を配っていてくれたことがわかったとき、私が知ったのは、いかに自分がなさけない人間であったかということだったと、彼は私に話てくれました。親にそのような苦労をかけてもらえるような立派な息子ではありませんでした。平気で嘘をついてお金を無心するような見下げ果てた人間でありました。本当に自分のしていたことが恥ずかしいと思ったというのです。

 彼は、お姉さんにこのことを聞いて、急に立派な人間にはなりはしなかったが、ただひとつできなくなったことがあると言いました。それは嘘の電話をして両親をだましてお金を無心することです。そしてなるべく無駄遣いはしないようにと心がけるようになったといいます。そしてつぎの年の休みに自分でアルバイトをして得たお金で、お父さんの好きなお酒と、お母さんのスカーフを買って帰省したそうです。

 

第13回 

いのちをに大切にするとはどういうことか 31 (2017.7.15.更新)

(前回の続き)

⑵他力浄土門 ③

 この仏道こそ在家の生活に追われ、厳しい仏道修行をする余裕のないものも、男も女も、老人も子供もともに平等に救われていく道であると信じております。

 いのちを大切にするとは、つまるところ煩悩から自由になることであると申しましたが、その煩悩からだれでもが自由になるための道は煩悩がいくらあってもそれを念仏の力によって善に転じて、一切のさわりとしないで人々を浄土へ導く浄土真宗の教えしかないものと私は考えております。

 このあたりのことはわかりにくいところだと思いますので、私が聞いたある方の思い出ばなしをご紹介してみようと思います。そしてその後に金子みすゞさんの詩の世界に帰ってみて、真宗の教えに育てられたからこそ、みすゞさんはあのような心優しい詩がよめたのであるというお話をしてみようと思います。

 最初にある方から聞いたお話を紹介します。この話をご紹介する意図は、親の恩を知ったら背けなくなる、愚かな者が内側から自身を改変していくようになるという話です。つまり煩悩が悪いと聞かされても、それを自ら治そうともせず、またなくす力もなかったものが、阿弥陀様の救いのお慈悲のご恩を知れば、おのずから自身の人間性の上に大きな変革をきたして、その煩悩がさわりとならないものになるということをわかりやすくするための例としてご紹介したいと思います。

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか 30  (2017.6.16.更新)

(前回の続き)

⑵ 他力浄土門 ②

 これからお話することは、普段浄土真宗のみ教えを聞かれている方には、それほど難しいことではないと思うのですが、はじめてお念仏の教えを聞かれる皆さんには少し、このあたりの救済の感じがわかりずらいかもしれません。

 浄土真宗はたしかに仏になるのは浄土に往生して後なのですが、阿弥陀様の必ず救うからまかせよとおっしゃるおよび声を、私ひとりのためのみ親の仏のご心配であったと疑いなく信受して、ご本願に帰依したその時に、わが身の浄土往生は間違いなく定まり、必ず仏になる身と定められると教えられています。これを難しい言葉では、現生正定聚と申しますが、この将来の自身の往生成仏の信心の一念に定まった時に、私たちの身の上に変化が起きます。

 その変化とはどのようなものかと申しますと、煩悩は相変わらずなくならないのですが、その煩悩がどれほどあってもその煩悩が障りとならない。いや、さわりとならないだけではなくて、かえってその煩悩が阿弥陀様のお慈悲を喜ぶもとでとなってしまうのです。そうですね、例を出してみると、ちょうど渋柿が太陽の光に当てられるとその渋がそのまま甘味となっておいしい干し柿となるような感じでしょうか。俺が俺がという我の心がお念仏に照らされ、育てられるうちに、強い我の持ち主であればあるほど、その我の者を捨てないという如来さまのお慈悲に照らされて、わが身の浅ましさを恥ずかしいと知らされると同時に、このような者はもとより救われる値打ちもないのに、なんともったいなこであったかと、阿弥陀様のお慈悲を喜ぶ種とさせていただくのです。

 ですから、浄土真宗の仏道は、自力で煩悩を無くしてさとりを開くのではなくて、そのような自利のかなわない愚かな者をそのまま救うとおっしゃる阿弥陀仏のご恩を知らされて、名号の功徳によって、煩悩が煩悩のままに障りのないものに転ぜられて、一生の間その煩悩を持ったままに、仏様の浄土という真実のさとりの世界に向かって、喜びの多い人生を歩ませていただくようなお育てを蒙っていく教えであります。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 29  (2017.5.13.)

(前回の続き)

⑵ 他力浄土門

 みなさんはいかがですか。やってみなくてはわからない。そうかもしれませんが、先ほど私は写真をみたら自分を最初に探すような心が我執というものですと申しましたが、そのような心を自力の修行によって無くしていこうというのが、今述べた自力聖道門の仏道なのです。

 さて、そのような仏道に対して今ひとつの仏道があります。それは煩悩が自分を縛り付け不自由にしているもとだと聞かされても、その煩悩を自らの力でなくすことができない。そのような自力の行などもとより考えべくもない。とにかく毎日生活するのに精一杯という者に対して、さとりの仏のほうから、そのような煩悩に縛られた者、これを凡夫といいますが、この凡夫を救うと働いた阿弥陀仏の本願他力によって救われていくという形での仏道です。この仏道は先の仏道と違い、自分の力で煩悩を断ってこの世で悟りを開き、不自由から解放されるのとは違います。煩悩の断てない者が阿弥陀様の光明に摂取されて、凡夫が凡夫のままで、許されて認められ、このいのちが終わった後に初めて仏様の国である浄土に生まれ、そこにおいて悟りを開かせていただきます。ですから、その意味で仏になるのは死後ということになります。

 私のいただいている浄土真宗のお念仏の教えとはこのような教えであります。自力の教えのかなわない自分のような者にとっては、そのまま仏様によって仏様のほうからくだされる救いの手に身を任せるしかないと存じております。

 しかし、皆さんの中には、こう思われる方があるかもしれません。いのちの大切さを見失わせて、自分自身を束縛している煩悩から救われるのが死後であったなら、生きている現在は、ひとつも真実の解放、自由を手に入れることができないのではないか。死後に仏の悟りを開くのであったら、そのような来世主義の教えに現代人の現在の救いがどこにあるのかということですね。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 28 (2017.4.14.)

(前回の続き)

 遅れる人を待つ間に、酒井さんからいくつかおもしろいお話を聞かせていただきました。それは行者の白い装束のわけと、腰にさした刀の意味です。獣道のような細い道を両側から木々の枝や葉にふれて歩くのですから、衣服はすぐに汚れてしまうのです。それなのになぜわざわざ汚れが目立つ白い装束をつけるのか。それはなぜかというと、死に装束なのだそうです。行の途中で絶命することもある、その場合に迷惑をかけることがないようにと、そのまま弔ってもらえるように白い死に装束を身に着けて行に入るのだそうです。そして腰にさした刀、鉈のような刀でしたが、それは生い繁る枝葉をなぎ倒すのにも使うのだそうですが、その主たる目的はもし行の途中で、その行の苦しさに負けて逃げ出すようなことがあったら、自らのいのちを取ることが掟なのだそうです。行に入るときにも、行に耐えられるかどうかの修行があって、それを修めた者だけがこの行に入ることを許されるのですが、ひとたびこの行に入ったら途中で止めることができないのだそうです。止める時は行をなしとげた時か、死ぬときです。そのような行であることを教えていただきました。

 八時間かけてのわずか一日の回峰行修行の体験でしたが、つらいものだと思いました。これが厳冬の冬であったらどうかななどと考えるとき、あらためて自力の仏道の厳しさを思いました。それと同時にこのような行は、意志と体力の両方で壮健な人でなくてはかなわないだろうと思いました。子供や女性、老人、病人にはとてもできるもではありません。また、仮にそのような心身を恵まれたとしても、そのような修行のできる時間的な余裕のある人でなくては、これもかないません。家族を抱え、毎日の生活のために一生懸命に働かなくてはならない庶民には、とてもおよぶことのできない行であると思いました。

 人のことはともかくとして、実際私自身の身の上で思ったのは、やはりとてもこのような難行苦行に堪えられるような人間ではない。もしそれができないのであれば、永遠の迷い、煩悩の牢獄に閉じ込められて死んでいくしかない自分であると思われたことでした。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 27  (2017.3.1.更新)

(前回の続き)

 私は昔、比叡山で開催された千日回峰行一日体験というのに参加したことがあります。私どもの宗祖である親鸞聖人という方は、若き日に二度までも千日回峰行を修めたといわれています。この行は七年間をかけて比叡山の山々の嶺を一日何キロも歩くという行で、比叡山では命がけの行のひとつに数えられているのです。その七年間の修行がいかなるものかを一般の人たちに体験してもらうという企画でした。それに参加したのです。せめて親鸞聖人のご苦労の一端でも味わってみたいと考えたからです。

 たしか六月ごろだったと思いますが、小雨の降る真夜中の午前二時の出発であったと思います。不動寺だったか、名前は忘れてしまいましたが、小さなお堂の前から出発して、滋賀県の坂本にある日吉神社まで下り、そこからまた比叡山の根本中堂に戻ってくるという行程で、確か二十キロくらいの距離を歩いたのだと思います。午前二時に出て、朝の十時に帰ってまいりました。二十キロといえば、それほどでもないようですが、歩いたのは舗装された平坦な道ではありません。獣道のような細い道で、雨にぬかるんだ急斜面を駆け上り駆け下るのです。

 私たちの先導をしてくれたのは、酒井阿闍梨さんとおっしゃって、この千日回峰行を二度までも修めた方でした。ほとんど駆けるような速さで歩かれるので、皆ついていくのが大変でした。しかし、思えば、それほどの速さで歩かれなければ、一晩のうちに規定の何十キロという距離を回峰することはできないのですね。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか 26   (2017.2.9.更新)

(前回からの続き)

 4.いのちの意味を見失わせ、いのちを損なう無明煩悩を克服する道

 さて、ここからはかなり仏教の専門的な話になります。最終的に私がお話したいのは、真に人間を自由にし、煩悩の束縛から解放してくれる道はお念仏の教えであり、その教えこそが真にいのちの大切さということをも教えてくれるのであるということをお話ししたいと思っております。

 ⑴自力聖道門

 自身を不自由に縛り付けている原因、そしてそれが私たちにいのちの在り方を見失わせている元なのですが、それは何かと申したら、先程らいお話している無明煩悩の我執というものです。ですから、問題の要点は難しいことではありません。この無明煩悩というものさえ、退治してしまえば、すべての問題は解決するわけですね。それで、仏教ではこの迷いのもとたる無明煩悩の克服、解消をめざし真の自由であるところのさとりの境地をめざすわけです。

 無明煩悩という心を退治する道こそが仏道なのですが、この仏道には大きく二つの道があります。一つの道は自らの厳しい修行を通じて自身の悪い心を矯正していくという道です。これはどこまでも自力の厳しい修行を修めるものですから、だれでもが歩むことのできる道ではありません。難行道です。その意味では道心の堅固な行いの立派な人の歩む道であります。それでこの道を称して自力聖道門の仏道と呼びます。

 例えば、皆さんが厳寒の早朝に水ごおりを浴びたり、凍てつく禅堂で座禅をしているお坊さんなどをテレビでご覧になることがあると存知ます。もとよりあのお坊さんたちは、皆さんに見せるためにあのような苦行を行じているのではありません。くどいようですが、自身を縛り付け、自由を失わせている煩悩を断つためにあのような修行をなされているのです。

 この道はまことに勇猛で立派な仏道でありますが、それで本当にさとりを開くことができるのかとなると、難しい点もあるように思います。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 25  (2017.1.21.更新)

(前回からの続き)

 毎日毎日私たちの我執に基づく醜い争いは、休む間もなく続いています。それは友達同士であったり、夫婦であったり、兄弟姉妹であったり、会社の上司と部下であったり、さらには国と国とであったり、とにかく自分がかわいくてしかたのない者同士の嘘、偽り、争いはひっきりなしに起こっているのです。

 しかも人間が愚かなことは、嘘がいけないのはわかっている、夫婦兄弟が仲良くすることが大切なこともわかっている、差別が悪いことも、戦争によって人が殺されることも皆悪いとわかっている。それなら、その悪いことを止めたらよさそうなのに、その悪を止めることができないのですね。そのわかっちゃいるけどやめられないという人間のどうにもならない愚かさのために、その行為によって被害を受けた人が泣き、その当の行為をした人自身も苦しむのです。この愚かさのもとがつまり俺が俺がという我執煩悩というものです。

 ここで、最初の結論をひとつ出しておきたいと思いますが、いのちを大切にするとはどういうことかといえば、それは今申した「わかっちゃいるけどやめられない」と愚痴をこぼし、人を傷つけていく愚かさから自由になることです。それは言葉を換えていえば、愚かさのもとである煩悩から自由になって、わかっちゃいるけどやめられないというような不自由から解放されて、どこままでも自分が自分の主人となって、煩悩の束縛から逃れることです。それが本当の意味で自分のいのちを大切にするということです。そしてこの煩悩から自由になること、解放されることを目指している教えが仏教です。この自分を縛りつけている無明煩悩の我執から脱した人を悟った人、仏と申します。

 さて、次の問題は、それではいかにして私たちはこの無明煩悩から自由になって真の自由を手に入れられるのかということです。つまりいかにして悟ることができるのかということです。悟りという言葉を使うと、何か宗教的で違和感があるという人がいるかもしれませんが、要するに人間が自身の悪い心から自由になるという意味で、真の意味の人間の解放、自由の獲得ということになります。私たちは自分ではなんでも自分の思った通りができているように考えているのですが、実際は悪いとわかっていることをなし、悪いとわかっていることを言い、悪いとわかっていることを心で思ってしまうのですから、そのわかっている悪から自由でないのです。その悪に縛られているのですね。不自由な体と口と心をもって生きている、これが実際の姿なのです。その不自由さから解放されることを仏教は目指すのです。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 24 (2016.12.13.更新)

(前回からの続き)

 さまざまな働きによって生かされている自分であるから、自分が存在していると、言い張れるようなものではないにもかかわらず、固有の自己が存在しているという思いから自由になれないのです。そうしてそのような実体のない自分というものに執着していく迷いの心を我執、無明煩悩というのです。

 これを平たく言うなら、自分がかわいくてならない心とでもいってもよいかと思います。皆さんが写真をもらったら、とにかく自分を一番に探さなくておられない気持ちですね。自分が写っていない写真ならば自分に縁のあつい人をさがさずにおられない心です。

  私が昔経験したことでは、名刺がありました。僧侶になる前に八年間ほど会社勤めをしておりましたが、その折に営業で、ある大学の先生をお訪ねしたことがあります。お互いの挨拶が終わった後、私は名刺を粗末にしてはいけないと会社で教えられていましたので、すぐに応接室の目の前のテーブルに置きました。そして話を始めたのですが、相手の先生は手に持ったまま話を始めました。話が盛り上がってきて、先生が夢中になってお話をするにつれて、私の名刺はくしゃくしゃに握りつぶされ、しまいには床に落とされてしまいました。私はその間あまりいい気持はいたしませんでした。何か気が気でないような思いをいたしました。単なる名刺なのですが、ひとたび自分の名前が書かれたとなったら、それはもう自分の分身と同じ働きをするのですね。ですから、もし私が皆さんの名前を何かの紙に書いて、これをその人の目の前で足蹴にするようなことをしたなら、その方は二度と私を赦してくれないと思いますね。

 この自分に執着する我執というものが、自分と他の人のいのちを損なうもとになっているのです。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 23 (2016.11.9.更新)

(前回からの続き)

 3 私たちを真実の自由、いのちの大切さから遠ざけているもの

 自分たちの存在の事実は自分が生きているのではなくて、自分はさまざまな働きによって生かされている。それを仏教的にいえば、縁起的生を生きているのであって、もっと平たくいうならば、自分たちの智慧ではからうことのできない仏さまに生かされて生きているのである。そういうことに目覚めていくことが大切であると、前節ではお話したわけです。しかし、それではそのような縁起の中に生きている私たちでありながら、その生かされている働きに気付かないで自分が生きている、生きていると、生かされている事実に気付かないのはなぜなのか。何にわざわいされて私たちは縁起的生を認めることができないでいるのかということです。

 お釈迦様はそれを、私たちに真実の智慧がないからであると教えてくださっています。しかし、それではその真実の智慧をもてない理由はなにかといえば、俺が、俺がという我執の心に閉ざされた無明煩悩のせいであると教えてくださいます。

  無明煩悩の我執とは、実体のない自分というものに実体があるように思って執着する迷い心のことです。たとえば、私たちは自分がある、自分が存在するということを当たり前と思っていますが、仏教では変わることのない本質的存在というものを認めません。それが先程から申しております、縁起ということです。つまりあらゆるものは関係性の中で存在しているのであるから、その関係が崩れた時には、もはやそのようなものは何も存在しないと見るのです。これを諸行無常・諸法無我と申します。

 例えば、皆さんは私がいるということに疑問を疑問をお持ちにならないと思うのですが、そのような私は存在しないのです。わかりづらいと思いますので、例をだしますと、みなさんは子供の時と、今は同じですか。そう訊かれれば違うと答えられられると思います。実際赤ちゃんの時と、今とでは、身長も体重も知識も経験も全く違うはずですね。それでは十歳の時と今ではどうか、それも違うはずです。二十歳、三十歳、五十歳ではやはり違うでしょうね。それでは五年先の自分と今とではどうでしょうか。やはり違うでしょうね。そうであったら、私がここにいるといえるその私とは、いったいいつの時の自分なのかということです。常に変わりゆく中でしか存在していないというのが、私たちの実際であって、そこに変わることのない普遍的な私、固有の私などというものはありえないのですね。しかし、私たちはは変わることのない自分があると思う心を離れることができないわけです。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか 22 (2016.10.6.更新)

(前回からの続き)

 さて、最後に以上述べてきたことこの項のまとめを申し上げておきたいと思います。箇条書きにいたします。

・私たちのいのちは自分ひとりで生きていのではないということ。

・私たちのいのちはあらゆる関係性のなかで生かされ生きている、縁起的にあるいのちであること。それを一言でいえば、限りない智慧と限りない慈悲の仏の働きによって生かされているいのちであるということ。

・いのちが大切なのは、自分のいのちは自分ひとりのいのちでなくて、仏より賜ったいのちであるから尊いものであるということ。

・したがっていのちを大切にするというのは、自分ひとりが生きているのだという人間の自分本位の欲望を満たすことではなくて、そのような自己のいのちのありか方の誤りに気付いて,生かされてある自分の命であったと自分のいのちを拝むと同時に、同じ仏のいのちを賜ってある他のいのちを拝むことである。

・自分のいのちの真実のあり方を見失って自分の欲望を満たすことばかりに執着している自分の心から自由になること、それが本当に自分のいのちを大切にすることである。

 その意味では、今日の人々が自我の欲望をどこまでも際限なくみたすことがいのちを大切にすることであるとするのに対して、反対にそのような心のあり方こそが人間のいのちを細らせ、枯渇するものであるとみて、自我の際限ない拡張の誤りをとらえて、関係性のなかでこそ存在している私であったと我を否定していく、それが仏教でいういのちを大切にするということになります。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか 21 (2016.9.16.更新)

(前回からの続き)

➃いのちの平等性へのめざめ

 この生かされて生きている私の命のあり方にきづくこと、つまり縁起の中に生かされている私ということに目覚めるということは、そのことがそのまま人間だけが特別でなかった、自分だけが特別ないのちでなかったということに気づかれされることでもあります。つまりみながそれぞれ助け合い働きあって生きている平等のいのちであるということがわかるということです。これを先のお蔭さまの伝でいうのなら、すべてのいのちは仏さまによっていただいたいのちであって、私たちのいのちとなんの違いもない仏さまのいのちでけあるということです。

 そして、ここにでてきてはっきりわかることは、自身のいのちを本当の意味で大切にすることができるようになるということです。つまり、私のいのちは自分勝手にできるものではなくて、仏さまからいただいたいのちであり、よく生きてくれよと願われていきているいのちであるということです。

 そして自分のいのちを本当に大切にすることができるようになるとき、初めて他のいのちを拝むことができるようになるのですね。なぜなら同じ仏さまのいのちでありながら、そのいのちを自分のために奪い、また取られた側からいえば、いのちを差し出してくれるものの恩がわかるわけですね。そこに手を合わせずにいられない心になるわけです。

 ここらあたりにくると、ようやく金子みすゞの詩の世界に近づいてきたといってよいと思うのです。つまり、いのちの平等性の自覚がでてきて、けっして人間のいのちだが特別なものでないということがわかり、他のいのちを自分と同じ次元で慈しむ心が出てくるのです。でも、ここで止まってはまだ本当のみすゞの詩の世界には入れないし、みすゞの心の優しさが理解できないと思います。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑳ (2016.8.18.更新)

(前回からの続き)③おかげさまという言葉

 さまざまな関係のなかで持ちつ持たれつの支えあいによって生かされている。このことは仏教では縁起と申します。人間の場合であっても、決して支えられているばかりではありません。人間もまたこのいのちの連関の中で、他のいのちを支えております。例えば私たちは空気の中の酸素を呼吸して生きているのですが、その代わりに排出する二酸化炭素は植物にとってはなくてはならないものです。

 私たちは互いにもちつもたれつの関係性の中に生きている、その生存の在り方を縁起的生といってもよいと思うのですが、そんな難しい言葉でなくても、みなさんのご両親などは、きっと折に触れて、お蔭さまと口にされていたのではないでしょうか。一体誰のお蔭で生きているのかといえば、それは自然の恵みのお蔭であり、死んでくれた無数の命のお蔭であり、私自身の体のお蔭であり、沢山の人々の善意のお蔭であったのではないかと思います。そして、そのようなさまざまな働きの不思議な働きのすべてをひっくるとめて智慧と慈悲のきわまりない仏様のお蔭でありましたと、敬い、手を合わせれて仏様のご恩をしのんできたのではないでしょうか。そこに生かされてあることの感謝と生かさしてくださる仏様への報恩の心をお持ちになられていたのだと思います。このことは後で触れられるかわかりませんが、私たちが真実に幸せになる元手は何かといえば、この感謝の心とその心をもとにして、その恩に応え、報いていこうとするところに、見返りを期待しない無私の行いができ、汲めども尽きぬ活動の源と満ち足りた心の充実をいただけるのです。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑲ (2016.8.12.更新)

(前回からの続き)最後に私の思いますのは、やはり多くの人々の善意というものに支えられているという事実ですね。その第一はやはりなんといっても、この世に人間としての生を与えてくれ、一人前になるまで育ててくれた父母の恩があります。また兄弟姉妹、学校の先生、沢山の友人など。しかし、そのように知った人ばかりが私を支えてくれているわけではありません。例えば、私はいまお坊さんとしての法衣を着てみなさんの前にたっておりますが、今日自分の身に着けているもので、その製作者を知っているものはどれもありません。もちろんとごの会社の製品であるとか、そういうことはわかりますが、その会社のいかなる人の手によって作られたのかはわかりません。一度も会ったことのないどなたかのご苦労の上になったものを身につけているわけですね。しかもそれは直接に製品を作った人だけでないですね。原料になるもとをこしらえてくださった人、それを工場にまで運んでくれた人、その工場が動くように電力を供給してくれた人、そしてその製品を作ってくれた人、出来上がった製品を最寄りの店まで運んでくれた人、私が買いに行くことのできる商店の人、そのように考えてまいりますと、私が身につけている一つの何かが、私の手元に届くまでには、一度も会ったことのない無数の人々の善意のうえに成り立っているのだということがわかります。

 このように見てまいますと、私が今日生きているということは、自然の恵みに支えられ、私のために死んでくれた無数の命のおかげを蒙り、どのような時にも生きてくれよと働きづめに働いてくれている体の支えがあって、そしてそのような私を支えている無数の人々の善意というものがあって、初めて私は生きていられるのであるということがわかります。今述べたどれかひとつでも欠けたら、私のいのちというものはありえないのですね。そのありえないはずの私のいのちが現にあるということは、やはり私が生きているのではなく、私は生かされ、支えられて生きているということが私たちのいのちの真実の姿だということです。ですから、生きているのが当たり前なのではなくて、生かされてあるこのいのちは当たり前でないいのちであるということに気付く必要があると思うのです。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑱ (2016.7.25.更新)

(前回からの続き)つぎに思うのは、私自とはたらき身の体が生きよう生きようと働きづめに働いてくれる事実を思うのですね。たとえば、これは前に東井義雄先生という方の法テープにを聞いて知ったのですが、私たちののどの奥にぶら下がっているものがありますね。俗にいうのどちんこというものですが、これはいったい何のはたらきをしているのかということです。東井先生は小学校の先生をしていたのですが、ある時受け持ちの生徒がこう質問したのだそうです。その時は答えられなかったので、図書館で調べてみて驚いたというのです。

 こののどちんこはなんでもないように私たちは死考えているのですが、実はこののどちんこ、正式な医学上の呼び名は口蓋垂というのだそうですが、これがないと私たちは一日も生きていけないほど重要な働きをしているのだそうです。そんな大げさなと思われるかもしれませんが、本当に大事な仕事をなんでもなさそうなつまらないのどちんこがしているのです。それは何かと申しますと、私たちの喉の奥には、大きく二つの道があるのだそうです。一つは空気の通る気道ともう一つが食物が通る食道です。それでこののどちんこは、私たちが何か飲んだり食べたりした時に、空気の通り道に食物が入って気道を塞ぐことがないように、私たちが飲食するときには、こののどちんこが下がってきて、空気の通り道である気道のふたとなって、食物が入らないようにしてくれているのだそうです。私たちが安心して飲食できるのは、そのつどそのつどのどちんこが、食物が間違って気道に侵入することがないように防いでくれているのです。ですから、もしこののどちんこがある時ストライキでもして、今日は一日働きませんとなったら、私たちは飲み食いするたびに苦しい思いをすることになりますから、とてもものを口にすることができないわけです。安心してご飯を食べられ、ビールが飲めるというのも、皆こののどちんこのお陰であるのですね。

 ところで皆さんは、このようなはたらきをしているのどちんこに、いちいち命令したことなどありませんね。「さあ、これからご飯を食べるから気道を塞いでおくれ、食べ終わったから、詮を開けておくれ」そんなこと朝から晩までやっていたら、とてもでない、生活できません。私たちがいちいち指示をしないでも、のどちんこは無意識のうちに生まれて死ぬまでずっとふたの開け閉めを続けてくれているのです。ですからこのような私たち自身の体にすでに与えられてある生きようとする働きがあるとことを思うとき、何かもったいないものを私などは感じるわけです。

 のどちんこの例などはほんの一例で、心臓の鼓動も、肺の呼吸も、腸の消化も、みな自然に動いてくれるものばかりです。もっと身近に言ったら、指の爪でも頭髪でも、みな私たちのいのちを保護し、生きてくれ生きてくれといわんはがかりに、はたらきづめに働いているのたと言ってよいと思います。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑰ (2016.7.8.更新)

(前回からの続き)そのひとつは何といっても自然の恵みをいただいているということです。よく、俺は誰の力も借りていないといって、えばる人がいますが、それでは空気や水や太陽の光などはどうでしょうか。それらがもしなかったら一日として生存していくことのできない私たちでありながら、空気を造るでもないし、水を造るでもなく、また太陽の光を造るのでもない。使いたい放題使って税金を払うこともありません。(水は水道料を支払いますが)またお百姓をする方であれば、土や米の種など、自分で作る前からすでにあった、そういうものを利用して生業がなっているわけです。ですから、まずもってこの生存に必要な根本的な要素が与えられてあり、それらに支えられて私たちのいのちがあることを忘れてはならないと思うですね。やはり生きているのではなくて、生かされている。生きよと願う働きの中に生かされて生きている私であるということに気付かされるのではないかと思うのです。水があるのも、空気があるのも、太陽があるのも、みんな当たりまえと思うのか。そのようなものが一つ欠けても生きていけない私が今日それらの働きによって生かされている事実を不思議と思うかということです。私は不思議であると思い、その不思議な働き、それを私たちは限りない智慧と限りない命の阿弥陀如来という仏さまの働きといただいておりますが、その如来さまのご恩をありがたく思うわけです。

 つぎに思いますのは、やはり私たちのために死んでくれた多くの命の恩ということであります。私たちが生きるためには、空気や水などが欠かせないものでありますが、それだけでは生きていけないわけです。この肉体を維持するために食物をとりますが、そのためには肉や魚や米や野菜など、いろいろなものの命をいただくわけです。そして、これは実際自分が小野に来て、お百姓のまね事をして知ったのですが、ちゃんとしたお野菜を取ろうと思えば、その野菜をいのちの糧としている無数の虫たちを殺さなくてはならないということです。ですから、野菜もいのちであるのはいうまでもありませんが、その野菜をいただくためにまた小さな命の虫たちの命までいただいていくわけですね。どのようないのちであっても必死になって生きようとするわけですから、その生きよう生きようと懸命な生き物のいのちを私たちの都合で奪うわけです。まことに罪の深いことです。死にたくない牛や豚や鳥や魚のいのちを無理矢理に奪って私たちの生きる糧としているのです。その意味ではこの死にたくもないいのちを私たちのいのちのために捧げてくれた無数のいのちのご恩ということを考えずにはいられないわけです。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑯ (2016.6.13.更新)

②見えない空気によって燃えさせられている。

 現代人は自分が生きているのはどこまでも自分の力で生きているのであって、誰の世話にもなっていない。そしてそのような独独歩の人間こそが、今日の理想的人間像とされているのです。そのためにローソクのようにただ自分の力だけで今生きていると考えがちです。しかし、実際はどうかといいますと、ローソクが燃え続けていられるのは、ローソクの灯の周りに見えない空気が無数にあって、その中の酸素が次から次へと供給されて、それを燃やしているわけですね。ですから、ローソクの実際を言えば、ローソクが燃えているには違いないのですが、ローソクは消えないように燃えさせられている。言ってみれば、いつ消えてもおかしくないローソクが消えないで燃え続けられているようなはたらきの中にローソクはいかされて燃えているということです。

 

⑵私たちのいのちもまた自分ひとりで生きているのではない。

縁起の中にあるいのち

 このローソクの灯が見えない空気のはたらきによって、消えないように燃えさせられているのと同じように、私たちのいのちもまた自分ひとりで生きているように思いますが、実は非常に複雑多岐な働きによって支えられているのですね。

 たとえば『心地観経』というお経には四恩ということが説かれてあるようですが、それには父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩とあります。三宝とは仏・法・僧のことですが、広くは仏の恩といってもよいと思います。

 これを私ふうに味わってみますと、やはり大きく四つの働きによって生かされていると思うのです。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑮ (2016.5.12.更新)

3 いのちを大切にするとはどういうことか。仏教の縁起によるいのちの見方。自我否定の見方。

 私は今日の自我肯定的ないのちの大切さというものの行き詰まりについてお話してまいました。それはいちのを大切にしているといいながら、逆に自分や他のいのちを損なうものであることを述べてきました。    

真実に金子みすゞの詩に描かれたようなやさしいいのちの共感の世界を

実現するためには、仏教の縁起観にもとづいたいのちの見方を導入しなくてはならないのだと考えております。それでこれからしばらくはその仏教の縁起的いのちのあり方とはどういうものであるのかをお話してまいりたいと思います。

⑴私たちのいのちとはどういうものか。

 先ほどローソクの例を出しましたので、今度もローソクの例を用いて考えみたいと思います。

 ①いのちは長さではなくて、今この瞬間にあるもの

 普通はいのちを長さで考えて、どれだけ長く生きたかと、この残った

蝋の長さを問題にしたり、いかにしてこの蝋を最後まで燃え尽きさせ得るかに腐心するのだと思います。しかし、仏教でいのちという場合は、この残った蝋の長さを問題にするのではなくて、今、この炎が燃えているこの瞬間のきらめきがすなわちいのちと考えます。したがって、どれほど蝋が残っているかということや、どれほど長く蝋を燃やすかということは問題ではありません。その意味でいいますと、いのちのもつ重みも、また反対にいのちのもつたよりなさ、はかなさについても、百歳の老人であっても、たった今生まれた赤ちゃんであっても、同じということになります。つまりこの灯がともっているこの瞬間がいのちですから、それは老人であっても、赤ちゃんであってもなんら違いはないということになります。

 そしていのちをそのような瞬間と見ますので、大切なのはいつ消えていくかもしれないはかないいのちが、いかに充実しているかということが問題になります。それではいかにしてこの瞬間のいのちを充実させるのかということですが、それはまずもって生きる意味を明らかにし、自分のいのちの意味をはっきりと承知して、自分のいのちの先に迷いがないということが大切になります。

 先ほど私は高齢化社会になって傾聴ボランティアが必要になったということをお話いたしましたが、そのようなボランティアを必要としなくなるということが、自分のいのちが充実しているということであるといってよいのではないかと思います。

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑭ (2016.4.15.更新)

 前者は自分のいのちがあるのは自明のことであって、自分のいのちを絶対としてその絶対の自我を肯定していく考え方です。そして後者の見方はこれから詳しく述べるつもりですが、仏教の縁起という教えに基づいた考えで、自分はあらゆるもののはたらきによって生かされていた。だからその生かされている自分を絶対のものとするのではなく、そのように生かされている法のはたらきをいただくと同時に、そのように生かされている私という立場にたって、絶対の自我というものを認めない、むしろそのように絶対の自我などにこだわる自身の在り方を否定していく。つまり自我否定の見方にたってあらゆる関係性のなかで互いに生かし生かされているいのちであるという立場で自分と他のいのちを見ていく見方です。

 いま必要なのは、この根本的ないのちの見方の転換だと思います。自我肯定にたってのいのちの大切さから、自我否定に立ったいのちの大切さを問題にすることが求められていると思うのです。自我肯定に基づくいのちの大切の求めが、結局はいのちを損なう方へ進むのは、それがとりもなおさず、私たちのいのちのあり方の本質的なあり方、つまり縁起的なあり方に背いた考え方であるからだと思います。いのちそのものの認識に誤りがあったから、その上にたてられたいのちの大切さの求めにも問題が生じた。私はそう思うのです。

   

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑬ (2016.4.7.更新)

  ③私たちのいのちの大切さの見方、やり方にはどこか問題がある。

 このように何の疑いもなく信じてきていのちの大切さの見方を検証してみると、今日ではそれが行き詰まり、かえってそのような長寿と欲望充足が私たちのいのちを損なうように働いてきているのがわかります。この行き詰まりの根本的な原因は、私たちがいのちをどのように見ているか、私たちのいのちとはどういうものものであるかということについての正しい考え方が失われてきているのが一番の原因ではないかと私は思っています。

 それでその正しい考えに対して今日の行き詰まりをもたらしている考えは何かといえば、私の考えでは、それは自分のいのちを唯一絶対のものと考えて、その唯一絶対の自分のいのちを最も尊重していこうとする自我肯定的な考え方に問題があると思うのですね。この自我肯定に基づいて、いのちにを大切にするとは、自分のいのちがあることは自明のことであり、その自分のいのちの要求にしたがって思い通りを実現することが、いのちを大切にすることだと考えられているのではないでしょうか。しかし、先程も申したように、そのような考え方によって、現実にはいのちは大切にされるどころか粗末にされるようになってきているわけですね。つまり自分の欲望を充足する対照としてのモノ化したいのちの見方、役に立つか立たないかという有用性によるいのちの価値化など、自分たちが使ったその見方で今度は自分たち自身が自分のいのちを測られていく。そういう時代になっているのではないでしょうか。

 したがいまして今求められているのは、いのちの見方の転換であると私は思います。どのような転換かと申しますと、平たく言えば、「私は生きている」から「私は生かされて生きていた」といういのちの見方です。

 

 

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑫ (2016.3.18.更新)

 その結果、経済効率を最優先にして、すべてがお金という物差しで人の価値まではかられるようになり、自分でも自分自身の価値を年収ではかるようなことになってしまいました。自分など、つまらないやつだとご主人が言えば、より多くのお金を稼いでくる他人の亭主をうらやんで自分の夫はだめだ、甲斐性なしだと、妻や子供までが馬鹿にする。妻はより多くの収入を求めて外に働きにいくようになり、家庭はいよいよ家庭としての体をなさななくなる。少しでも多くの収入、そして現在ならリストラされないように猛烈な勤務の結果が、過労死であったり過労自殺であったりする現実なのですね。

  このような社会の現実を見るとき、自分のいのちを大切にするために、自分の思い通りの人生を生きるためにかえって自分のいのちを損ない、縮めているのではないかと思わずにおられないのです。欲を満たして幸せになり、自分のいのちを大切にしていたはずなのに、その欲によってかえっていのちそのものをとられてしまった、まさにトルストイの寓話の主人公の農夫のような生き方を今日の日本人全体がしつつあるのではないか、そういうことを感じているのです。

 ですから、この欲望充足がそのまま人間のいのちを大切にしていることには直結しないのだ、むしろ反対に今日ではこの自分の思いを遂げたらそれが幸せであり、いのちを大切にしているという考えこそが人間のいのちを損なう方へ、損なう方へと導いてきているということに気付かなくてはならないと思うのです。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑪ (2016.3.9.更新)

 欲望充足の落とし穴

 つぎにいのちを大切にするとは、自分たちの欲望、欲望というのがきつい響きがあるのなら、願でも、望みでもいいのですが、とにかく自分たちの思いどおりを、邪魔されることなく実現して生きていくこと、それが人間のいのちを大切にすることであるという今日の人の見方についても考えてみたいと思います。それが本当に私たちのいのちを大切にすることになっているのかどうか。

  以下に紹介するのは、毎日新聞の一面のコラムの記事ですが、そこに書かれたトルストイの寓話に興味をもったからです。

 

余録

 「人はどれだけの土地がいるか」というトルストイの寓話がある。「一日のうちに歩いて回っただけがお前さんのものになる」。村長にそういわれ、太陽が昇る方向に歩いて行った農夫の話だ。ついつい欲張って遠くまで歩き、走りに走って帰ってきた。「えらいぞ。たくさんの土地をとりましたな」と村長。そのとき、農夫の息が絶えていた。墓穴が掘られ、それは頭から足までの2メートルの長さだ。農夫に必要なのはその広さだけだった。(以下省略)

 

   本当に必要なものはわずかなもので十分なのに、少欲知足を知ることなく、もっともっとと欲張ったあげくいのちを落としたという話です。そこに描かれた農夫の姿は現代の日本人の姿でもあるように私は感じるのです。

 自分の思いを満たすためには、お金が要る。お金で立派な家を建て、高級車を買い、素晴らしい宝石を買い、子供にも高い教育をつけさせてあげられる。自分のいのちを大切にするためには、自分の思い通りの生活をすることだ。そのためにはお金が必要だ。世界でも一二といわれるほどに豊かな生活をし、三度三度の食事に窮することもなく、飼い犬や猫までが白いご飯に飽きて、一缶数百円もする缶詰や専用の食料をたべさせてもらえる。ほんの少し箸をつけただけで、まずいから、ほしくないからと残飯にして捨てる。そんな贅沢三昧な生活をしていながら、それでもまだ足りないで、もっともっとと欲張って、ひとつも心を満たされることもなく、不平と不満の毎日を送っている。

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ⑩ (2016.2.15.更新)

 長生きすること、させることがいのちを大切にすることなんだと信じて日本はやってきた。そしてそれは決して間違いではなかったはずです。しかし、それが現に実して男女ともが世界一の長寿国になったとき、それがそのまま人々のいのちの充実感に結びついているかとなると、単純にそうだと肯定できない問題もあると思うのですね。

  以前新聞で読んだのですが、今新手のボランティアが求められているというのです。それは何かといいますと、病院や福祉施設で暮らす病人や老人の話を聴く仕事だというのですね。つまり高齢者が゛子供たちの手に負えなくなって病院や施設に入れられたり、あるいは自分から入って行きます。そこでは衣食住についてはもちろん、医療についても心配いらない。まさに理想郷のような所ではあるのですが、しかし、毎日毎日死に向かって生きている自分のいのちに何の意味があるのか。そして必ず死んでいかなければならない自分たちのいのちにいかなる意味があるのか。そういうことを心の悩みとした老人が高齢化社会を迎えた日本に急増してきたために、もはや一部の医療従事者や福祉従事者では間に合わないから、一般の人たちの力を借りて、そのような死や孤独に苦しむ老人の胸のうちを聴いてくれるボランティアが求められているというのです。

 そのような記事を読んだりしてみますと、単に生物学的に寿命を延ばし、ロウソクの灯の蝋が燃え尽きるまで寿命を保つことが、人間のいのちを大切にすることになっていないということがわかります。ただ、寿命が長くなれば、それでいのちを大切にしていることにはならないのです。

 そして、このことはまたただ高齢者の老人だけの問題ではなくなっています。つまり、そのような長寿の両親を抱えた子供が、その親の介護の負担に耐えかねて、大切にすべき親の存在を負担に感じ始めてきていることです。それは経済的な負担であり、肉体的、精神的な負担です。何と言っても、介護しなくてはならない親がいるために、自分のやりたいことが思い通りできないわけです。平たく言えば、自分の人生を自分のいのちを大切にしようとする子供にとって、長生きした親はその人生を充足させるうえでの重荷となり、自分にとってなんの役にもたたない邪魔なものとされてきているのです。子供は早く死んでくれたらと、お金がかかり、いろいろな点でストレスの多い介護から手の切れることを望みます。そしてそのような子供の心を察した親は、ただ金くい虫で、社会にも子供にも迷惑をかけているだけの自分だと思った親は、いっそ死んだほうがましだと自分のいのちを損なうようになる。

 つまり長生きすることが、現代では当の本人にとっても、またその子供にとっても、必ずしもいのちを大切にすることにつながっていないのです。ですから、先程も申しましたように、単に機械的にというか、生物学的な長寿すなわち人間の幸せ、いのちを大切にする、ということにはならないのだということを、ここではまず知ってほしいと思います。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑨ (2016.2.5.更新)

  本日はいのちの大切さとは何かということをお話ししたいのですが、この観点を足がかりとして人権の本来的な在り方にも論究することができると私は考えています。人権の根底が人間中心的な自我肯定の論理である限りは、その論理によってかえって自分たちのそのいのちそのものを脅かし、損なうことが起きているのです。これについては別の論文「平等に慈しむ心-差別なき社会の実現の道ー」に詳しく論じてみましたので、また後日にこのコーナーでも発表したく思っています。私はその中で、今日浄土真宗本願寺派で進められている基幹運動の根本的な問題点をも指摘し、浄土真宗の教えと矛盾しない運動の在り方についても提案したいと考えています。

 

 ②長生きと欲望の充足が、本当に私たちのいのちを充足させてくれたのか。

  いのちを大切にするとは、とにかく死をなるべく向こうにやって長生きすることであり、その長生きの人生のながでも不自由をかこって生きていくのではなくて、自分の思い通りに欲望を充足していくことが私たちのいのちを大切にすることだと。しかし、これが本当に私たち自身のいのちや他の人のいのちを大切をすることになっているのか。ここで、それを検証したいと思うのです。

 大切にしていると思っていたのに、逆にそれによって自分自身もまた他の人のいのちも損なうようになっていた、そんなことはないかどうか考えてみたいと思います。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑧ (2016.1.22.更新)

  しかし、ただ長生きするのでは、本当にいのちを大切にしているのではなくて、どれだけ自分思い、欲望を満たして不満や不自由のない人生を送っているか、そういうことがいのちを大切にすることだと考えているのでないかと思うのですね。つまり長生きすることと、自分たちの欲望をの邪魔されずに満たしていくこと、これが現代の日本人にとってのいのちを大切にすることになっているのではないかと思うのですね。

 このようないのちを大切にする仕方、それは言ってみれば人間中心の自我拡張、あるいは自我肯定のありかたとでもいっていいと思うのですが、そういう考えがもとになって、先述したような魚ソングやラジオの報道のような、他のいのちをモノ化して、人間の欲を満たしていくためモノとして見ていく命の見方が平然と語られるようになってきているのではないでしょうか。その場合、その価値はどこにあるのかというと、どれだけ人間、自分にとって有効かどうかという、有用性によってその価値が量られていく、経済的な効率性や有用性の観点から命の値段がつけられているのではないかと思うのですね。しかも人間のいのちを大切にするためなら、他のいのちをどのようにしようと人間の勝手だ、そもそもすべてのものは人間が幸せになるためにあるのだからと言わんばかりの人間中心主義が横行しているのですね。

 これは余談ですが、今日人権ということが、やかましく議論されていますが、その人権を損なうものとしてのいのちの尊厳の脅かしなどについても、今述べたような人間中心主義の考えにのっかている人権の考え方は、人権を大切にしていると言いながら、それがかえって私たちのいのちを損なうように、損なうようとと働いていることに気付いていないのではないかとと思います。

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑦ (2016.1.9.更新)

 

3.いのちを大切にするとはどういうことか。-世間の見方-

⑴今日の人は自分のいのちをどう見ているか

 さて、本題に話を進めてまいりますが、その前にまず、今日私たちがいのちを大切にするというときに、自分たちのいのちをどのように見ているのかを私なりに考えてみたいと思います。そして、このような見方をしていから、そのいのちを大切にするというのは、こういうことになるのですねということをお話ししてみようと思います。

 今ここに、火の灯った蝋燭があります。この蝋燭はわたしたちのいのちをたとえたものだと思ってください。そうしますと、蝋燭というのは、とても単純な作り物ですから、つまり芯となる紙をよったこよりと、それを包むように固めてある蝋と、それだけでできております。別に電気を用いてるのでも、最新の電子工学の技術を応用しているのでもありません。こよりに火をともすと、その熱で蝋が溶け、溶けた蝋がこよりに沁みて、それが吸い上げられつつ、燃えているのです。ちょうどその蝋燭と同じように考えて、自分は誰の世話にもならず自分ひとりで生きている。自分は自分の肉体と知力を用いて、ひとりで立派に生きている。そう思っているのが、私たちの普通の感覚ではないでしょうか。そしてそれがまた今日の現代人の独立した人たる生き方の理想とされてきたのだと思います。

 そうしてのような考え方の上にたって、いのちを大切にするというとき、その大切するという意味は、まず蝋燭の場合でいえば、途中で灯が消えないように、蝋が最後まで燃え尽きることができるように灯が消えるような障害を取り除くということに注意が向けられるのだと思います。これを人間の場合で言えば、途中でいのちが終わることがないように、なるべく健康で長生きするようにと、長く生きることが、いのちを大切にすることだと考えているのではないかと思いますね。

 

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑥ (2015.12.18.更新)

②NHKラジオの放送 ⑵

 それで私が半ばあきれつつ、驚いたというのは、金子みすゞの詩に感動したアナウンサーが、自分の言っていることのおかしさに気づいていないことです。つまり、いわしにまで優しい心をよせ、同じいのちを認めてその死を悼んだみすゞの詩に感動していながら、鮭の処理というようなことが何でもないことのように平気で受け入れられている。

 もし金子みすゞの詩に共感できるのであれば、無理矢理に卵を絞り取られて、捨てられていく鮭たちに対して申し訳ないという心が起こるのが本当ではないでしょうか。鮭のいのちは物でないのに、それを物のように扱う現代の私たちはなんと罪深いものでありましょうかと、一言あってもおかしくないと思うのです。しかし、実際には「それは名案ですね。資源の有効利用になりましたね」と感心しているわけですね。ですから、このようなところからも、私たちが命というものを、どこまでも人間中心にしか見られなくなってきているということがわかるわけです。

 先ほどのお魚ソングや今お話しラジオの話題などから、考えられるのは人間のいのちだけを絶対のものとして他のいのちをその人間のいのちをつぐむための物として扱う、そういう傾向があるということなのです。そしてこのような人間中心の考えかたからは、金子みすゞの詩の世界に見られるようないのちを平等にいつくしむ優しい心は出てこないのだということです。そしてむしろこのような人間のいのちばかりを絶対にしているそのいのちを大切にするの仕方は、実は自分たちのいのちを損なってきているのだということに注意する必要があると思うのです。

 今日お話ししたいのは、私たちは自分たちのいのちを大切にしていると思いながら、その大切にしているそのやり方で、実はそのいのちをいよいよ粗末にし、損なうようになってきているのだということを考えていただきたいのです。そしてその上で、本当にいのちを大切にするとはどういうことをいうのかを、お互いにきちんと認識していくことが大事ではないかとということを私はお話ししたいのです。

 

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ⑤ (2015.12.11.更新)

②NHKラジオの放送

 お魚ソングが恐ろしい歌だなどと感じる人は、極々少数になっているのではないでしょうか。今日ではレジャーフィッシングとかいって、釣りは健全なレジャーとされていて、それが殺生という罪作りな行為であることなど考えもしなくなってきている。それが現在日本の状況かもしれません。

 前にNHKのラジオ放送を聞いていて、驚きとともに教えられたことがあります。それはちょうど金子みすずの特集番組をしていたのですが、その番組の中で男性アナウンサーがいくつかのみすずの詩を朗読しました。その中には「大漁」の詩もありましたが、朗読した後に、金子みすずの詩は優しい、温かい、いのちを大切にしていると、とても感心しておりました。そして今こそ、このようなみすずの心が人々の心に回復されなくてはならないと、力説しておりました。

 ところでその特集番組の途中で、各地の放送局を結んで全国の話題といういつものコーナーが放送されました。北から南に順番に各地の放送局からその土地の話題が紹介されるのです。その時は北からでしたので、最初にNHK札幌放送局が北海道の話題を紹介しました。

 その話題というのは、魚の鮭のことでした。どういうことかといいますと、卵のイクラを取った後の鮭の処分方法について解決がついたという話でした。なんでもイクラを搾り取った後の鮭の処分に毎年数百万円のお金がかかっていたそうです。それでなんとかその処分代金を浮かせて、かつその鮭が有効に利用できる方法はないかと考えていたところ、一石二鳥の名案が提案されたというのです。それはなにかといいますと、鮭を好んで食べるのは熊ですが、この鮭を東京の上野動物園のホッキョクグマの餌に使ってもらおうというのです。動物園のほうでも毎年熊の餌代が一頭について60万円もかかっていたところ、その餌代がただになるというので、とても喜んでくれたというのです。これでもてあましていた鮭の処分料はかからなくなったばかりか、熊の餌として有効に利用できるようになって、無駄がなくなり漁業者にとっても、動物園の側にとっても、とてもよい解決策になったというのです。

 それを聞いた先ほどの詩を朗読したアナウンサーは、「それは実に名案ですね、うまい資源活用のリサイクルができました。」と感心しているのです。ついさっき金子みすゞの詩に感動したと言ってた同じ人間が、鮭のリサイクルの報道になんの疑問も感じていないのですね。

 皆さんにお聞きしたいのは、卵を取られた鮭はごみですか。商品価値のない単なる廃棄物なのでしょうか。そうではないですよね。鮭は自分の子孫である子供を産むために命がけで生れ故郷の川を遡上してきたのです。それを人間が捕獲して、無理矢理に卵を搾り取ったのです。そして卵をとられた鮭を捨てたのです。鮭は物ではなくて、命です。その命を物のようにして、人間の利益のために、使い捨てにしているそのようなことが当たり前になったところからは、決して金子みすゞの心は出てこないということです。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ④ (2015.11.16.更新)

 
 2.変わってきて日本人のいのちの見方

 最近はこれまでなら当たり前だった命の平等の見方、つまり金子みすずの先の詩の世界が、当たり前でない感じになる位人々のいのちに対する見方が変わってきていますね。わたしはそのように感じています。

 ⑴お魚ソングの流行

 みなさんはこんな歌を知っていますか。数年前に大ヒットして、今でもスーパーの生鮮食品売り場で流れています。

「好きだといわしてさよりちゃん。たいしたもんだよすずきくん

 いかしたきみたちみならって ぼくもカレイに変身するよ

 サンマ ホタテ ニシン キス エビ タコ マグロ イクラ アナ    ゴ シマアジ さかな さかな さかなを食べると、頭、頭、頭、頭がよくなる

 さかな さかな さかな さかなを食べると、体、体、体、体にいいのさ

 さあさ、みんなでさかなをたべよう。さかなは僕らを待っている」

 こんな詩です。なんでも「お魚ソング」というのだそうです。この歌が売り場などに流れて、随分と売れ行きが上がったというようなことが新聞にでていました。

 たかが流行歌のことで目くじらをたてるのはどうかという人もあると思いますが、同じ魚をうたったものであっても、先の金子みすずの『大漁』の詩とは、その心持ちがだいぶ違います。そしてこの魚ソングを当たり前に歌うようなところからは、とても金子みすずのようなやさしい心は育ってこないのです。

 魚は人間にとっての食料ではないのです。私たちと同じいのちをもったものです。その同じいのちをもった魚は、私たちに食べられるのを待っているのではありません。私たちと同じようにずっと生きたいのです。そのずっと生きたいいのちをもった魚を私たち人間が生きるために無理矢理にいのちを奪って、つまり殺してそれを食べているのです。ですから、私たちはその意味で、まことに罪が深いのです。

 しかし、今私が申したような、死にたくないものを殺してでも人間は生きていこうとする。罪の深いものだという感じを、現代人はもう失いかけてきているのではないでしょうか。人間が生きるために、人間が幸せになるために、人間自身のいのちを大切にするためには、他のいのちなどかえり見る必要などない。魚はもはや同じいのちをいただいたものとしてではなく、人間の存在のための単なる食材のような存在にされていきているのを感じます。

 こういう徹底した人間中心主義の考えかたからは、今日社会が求めているところのいのちの大切さの教育などできるはずないのですね。先ほども申しましたように、このような心からは金子みすずの詩のやさしい思いやりに満ちた心の世界は出てきようがないのです。ですから、まずこのような他のいのちを物化していく見方の危険性、誤りに気付いていくことが大切になります。

第13回

いのちを大切にするとはどういうことか ③ (2015.11.3.更新)

  それで金子みすずの詩を好む人たちの多くが言うのは、みすずの詩にはやさしさがあるとか、温かさがあるとか、そのように一様に感心するのであります。

 そのように金子みすずの詩を愛唱してくれるのは、山口県の人間としては、大変ありがたいと思うのです。しかし、それではなぜ、金子みすずはそのような優しい詩が詠めたのか、そのような詩心を育てたものは何であったのか、そういうことをもって考えてもいいのではないかと思うのです。特に、私ども浄土真宗の者としては、金子みすずがお念仏に育てられた人であるということをもっと知ってほしいと念じております。

 今、大切なのは、求められているのは、どのようにしたら金子みすずのような優しい心を、子供たちに教えることがてきるのかということであって、自分たちにはないやさしさをないものねだりのように遠くに憧れることではないと思うのです。

 それで本日は金子みすずの心はどのようにしてそのような優しい心へと育っていったのか、何がそのような心を育てたのか、そういうことを念頭におきながら、本日のテーマであります「いのちを大切にするとはどういうことか」ということを、お話ししていくつもりでおります。

 

第13回 

いのちを大切にするとはどういうことか ② (2015.10.22.更新)

 

1.注目される金子みすずの詩

 数年前に生誕百年ということもあって、童謡詩人金子みすずの生地の山口県長門市仙崎では、いろいろの記念行事や記念館の竣工など盛んに行われました。いわゆる地域おこしの目玉にされたという恰好でしょうか。

 いまや金子みすずは地方の一詩人というだけではなく、その詩が小学校の教科書にも紹介される全国区の詩人となっています。それはひとつには、先ほど申し上げたような、いのちを損なう社会事象を背景として、小さな命に、自分のいのちと同じまなざしを向けて慈しんで詠まれたみすずの詩の数々が、現代人の心に訴える力をもち、何か癒されるものがあるということであろうと思います。

 ちなみにみすずの詩には「大漁」と題したこんな詩もございます。


 大漁

 

 朝やけ小やけだ

 大漁だ

 大ばいわしの

 大漁だ。

 浜はまつりの

 ようだけど

 海のなかでは

 何万の

 いわしのとむらい

 するだろう。


 かつて仏教のお育てをいただいていた日本人、なかんづく浄土真宗のお育てをいただいてきて人々には、みすずの詩世界は特別のようにも感じられませんが、今日の日本人の多くにとっては、とられるいわしに対してまで、そのようなやさしい心を持てるというのが、驚きとなって受け止められたのだとおもいます。

第13回 新連載

いのちを大切にするとはどういうことか ① (2015.10.19.更新)

 

 本日は「いのちを大切にするとはどういうことか」という講題で、しばらくお話しさせていただきます。

 毎年三万人近くの人が自ら命を断ち、青少年による凶悪犯罪や親による幼児虐待、また介護者による老人虐待など、近年いのちを損なう事件が頻発しているために、新聞などでも、いのちを大切にする教育の必要性などが盛んに論議されるようになってきております。わが浄土氏真宗本願寺派でも、かねてよりいちのを大切にするということを、特に差別問題の解消ということに重点を置いて、人権の上からもそのようなことを盛んに説いてきているのであります。

 いのちを大切にするなどということは、改めて問題にするまでもなく、自明のことのようでありますが、今日ではそのかりきったはずのことが問題になるほどに、いのちをそこなう現象、事件が増大してきている。そういうことであろうかと思います。

 それで本日は当たり前と思っている、そのいのちを大切にするとはどういうことであるのかを改めて考えてみたいとそう思っているのです。そして特に今日お話ししたいのは、自分ではいのちを大切にしていると考えているそのやり方が、実は本当にはいのちを大切にするどころか、反対にいのちを損なう方向に向かっているのではないか、そういうことをみなさんと一緒に考えてみたいと、そのように考えております。       

第12回 仏の願い ⑧ 最終回(2015.8.31.更新)

2.仏の願いー真実に生きる

 しかし、それだったら、どうあっても私たちには、煩悩を断つことができないことになります。煩悩が断てない以上、先に述べてきた人生の苦というものを抜け出して真実の安らぎに至ることはできないことになります。ということは、ずっと迷い続けていかなくてはならないということです。

 親鸞聖人はそれだからこそ、そういう自分の力ではとうてい煩悩を断つことができず、迷いの生を送らねばならない自分たちをどうしても救わずにおかずと仏が願いを起こして南無阿弥陀仏という名号になってくれたというのです。南無阿弥陀と称えるものは、どんなことがあっても、迷いの世界から救い取る、そして必ず真実の世界に生まれさせるという、阿弥陀仏の誓いの言葉を私たちに伝えてくださっているのです。

 私たちには、先ほども申しましたように、自分が迷っていることも、その原因が自分の煩悩であると、仮にわかったとしても、自分たち自身が煩悩からできているのだから、それを断ち切ることはできないのです。

 そうであったら私たちというのは、どこまでいっても救われないことになり、ただ苦しく辛い一生を終えるだけの人生を送ることになってしまうのです。それだからこそ、そういう一生を送ることがないように、仏の方から私たちを救い取ろうと働いてくださっているのが南無阿弥陀仏なのです。自分では何ひとつわからず、できない自分たちは、ただこの私たちを救おうとして南無阿弥陀仏と名号になってくださった如来の言葉に素直に従い、信順していくしかないのですね。それがまた仏の願いなのです。自己中心的にしか生きられない私たち、そのために四苦八苦の人生を送っている私たちに、南無阿弥陀仏の願いを聞き入れて真実の生き方をしてほしいというのが、仏さまの私たちひとりひとりにかけられている願いなのです。

 最初に大経の言葉をいただきましたが、私たちはこの世の中にひとり生まれ一人死していくものです。その人生は誰も代わってくれることはできません。そのたった一度の人生を自己中心的な思いにとらわれて、苦の一生を終えるような、そんな空しい一生を送ってくれるな、どうか阿弥陀仏のおまえを救うの言葉にまかせて、自己中心的な思いを離れ、四苦八苦の苦しみから解放された真実の安らかな人生をおくってほしい。それが仏様が私たち一人ひとりにかけられている心からの願いなのです。



第12回 仏の願い ⑦ (2015.8.17.更新)

2. 仏の願いー真実に生きる

 しかし、実際には私たちは自分が迷っているなんて思えないんですね。自分の苦しみの原因が自分の自己中心的な考え方にあるのだなんて思えないのです。自分の苦しみというのは、いつでも誰かさんが外から与えるもので、苦しみの原因というものをどこまでも自分の外側に求めていくことしかできないのです。

 私は浄土真宗の僧侶ですが、禅宗のお坊さんというのは、修行して自分の中にある無明と愛欲を断ち、煩悩をすっかり断ち切ろうとするわけです。しかし、私のいただいている教え、浄土真宗は親鸞聖人が開かれたものですが、ちょっと禅宗のお坊さん方とは、考え方が違うのです。どう違うかと申しますと、禅宗の方というのは、もともと人間のというのは、きれいなものだが、それが煩悩によって眼がくらまされているだけだから、このきれいな身と心についた煩悩を修行によって洗い落とすことができると考えているわけです。しかし、親鸞聖人はそうではないのです。煩悩というのは、服についた汚れや手についた泥のように洗ったら落ちるというようなものではなく、人間そのものが、煩悩そのものなのだ、だからどのように磨こうとも、何をしようと、煩悩をなくすことなどできないというのです。

 たしかに、自分たちというのは、自己中心的な考え方は間違っているとわかっていても、他人の子供と自分の子供が喧嘩でもすれば、どうしたって自分の子供を応援するのですね。自分が悪いとわかっていても、それを人から、おまえが悪いんだと言われれば、弁解するのです。あるいは世界で戦争があり、アフリカで何十万という人が飢餓で苦しみ、死んでいくのをニュースで見ても、そのとき一瞬はかわいそうだと思っても、自分のおしりにできものでもできたら、もうそっちのほうが気になるのです。小指に棘が刺さったほうのが、アフリカの飢饉りも心配なのですね。それがおかしい、まちがった考えだと頭でどんなに理解していても、そういうふうにしか考えられない。それが私たちの真実の姿なのです。

 

第12回 仏の願い ⑥ (2015.8.5.更新) 

1.人生は苦であるー自分自身の本当の姿を知る

 ⑵苦しみの原因はどこにあるのか。

 さて、それではいったいこのように四苦八苦といわれる苦しみの原因はどこにあるのでしょうか。実はこの苦しみの原因をどこに求めるかによって、それが仏教であるか、そうでないかがわかるのですね。いま述べたような何かしらの苦しみに出合った時に、なんで自分だけがこんな苦しみに出合わなければならないのだ。そう思いますね。たとえば、胃潰瘍になった、どうも調子がよくない。また、その同じ時に、子供が事故にあって怪我をした。そんなことが重なって起こったりすると、どうも気持ち悪くなりますね。そうすると、その筋の人に見てもらうのですね。そうしますと、その人が、これは墓の建て方が悪いからだとか、これは三代前のご先祖の霊が浮かばれていなくて、悪さをしているのだとか、まあ、そんなことを言うわけです。仏教では、そういうことはいわないのです。それはどこまでも、因と縁によって起こったものであり、そういう因縁を招いたというのは、自分に問題があるとするのです。たとえば今の例で言いますと、胃潰瘍ができたのは、あいつが俺の言うことを素直に聞かないからだ、とかなんとか人間関係のストレスのせいにして、そういうストレスを与えるような人間を恨んでみたり、あるいはいまのように墓の建て方がだとか、先祖の霊に求めてみたり、そういうふうに苦しみの原因というものを、自分の外に求めていくあり方、こういうのを外道の教えというのです。これに対して仏教は、さまざまに起こる苦しみの原因を自分のうちに求めて、そういう自分の中にある苦の原因を無くすことによって、つまり自分を変えることによってその苦を取り除こうとするものです。

 

 第12回 仏の願い ⑤ (2015.7.13.更新)

1.人生は苦であるー自分自身の本当の姿を知る

 ⑧五蘊盛苦

 八苦の最後に挙げられているのが、五蘊盛苦というものです。これはどういう苦かと申しますと、私たちを成り立たせているものから起こってくる苦だといわれています。私たちは、色・受・想・行・識から成り立っているというのです。色というのは、物質や身体のことです。受というのは、感覚ですね。それから想というのは、心に浮かぶ像のことです。それから行というのは意志ですね。そして識というのが、識別作用のことです。ですから、これは感覚的に気持ちの悪いものを見たときに受ける苦であるとか、嫌いな食べ物を食べたときの苦とか、あるいはよくない想像をして不安がるとか、自分と人を比べて苦しむとか、そういう私たちの感覚とか、好き嫌い、ものごとに区別をたてる意識によって起こってくる苦とか、そういうことをいいます。

 

 以上が生老病死に対して普通に四苦八苦といわれる苦の種類です。こういう苦というものを踏まえて仏教では、人生は苦であるととらえるのですね。どうですか、みなさんの中にもどれかひとつくらいは思い当たるものがあるのではないでしょうか。仏教はいったん人生は苦であると明らかに見届けた上で、この苦からの救いということを説くのです。

 一体、これらの苦しみの原因は何なのか、次回からはその苦しみの原因について、お釈迦様の教えに耳を傾けてみたいと思います。

 

 

第12回 仏の願い ④ (2015.7.2.更新)

 1.人生は苦であるー自分自身の本当の姿を知る

 ⑴四苦八苦ということ

 ⑥怨憎会苦

 次の怨憎会苦というのは、今申しました愛別離苦とは反対に、自分の嫌いな人間とも会わなくてはいけない苦しみです。案外この苦しみのほうが、みなさんにはぴんとくることが多いのではないでしょうか。

 私は僧侶になる前に7年間ほど会社勤めをしていたのですが、だいたいこの会社というもので、一番辛いのは、人間関係がうまくいかないときだ思うのですね。人が職場を変わるというのは、その仕事のむき不向きということもありましょうし、その仕事のつらさということもたしかにあると思うのですが、一番大きな理由というのは、人間関係に問題がある場合ですね。同僚とうまくいかない。いやな先輩がいる。上司と馬が合わない。そんなことが少しでもあると、やっぱり職場に出るのが気が重くなるのです。それこそ、心の中では顔を見るのも嫌だというような人と、毎日一緒に働かなくてはならないというのは、かなり苦しいですよね。神経の弱い人なんかだったら、これでストレスがたまり、胃腸を悪くして潰瘍ができたり、狭心症になったりするそうです。

 このことはなにも会社に限ったことではありません。学校でも、家庭でも、人が集まるところには必ずこの怨憎会苦という苦しみが起こってくるのですね。

 

 ⑦求不得苦

 三つ目の苦しみは求不得苦です。これはほしいものが手に入らない苦しみのことです。求めても得られないときに生じる苦しみのことです。これは何も物だけに限りません。お金がほしいときに、得られない。車が買いたいのに、買うことができない。そういう場合には、もちろん求不得苦というのですが、そのほかにも、たとえば、みなさんが中学生のお子さんにしっかり勉強して成績のよい子供になってほしいと願っているのに、そういう願いが全然子供に通じない。あるいは、なんとか自分の仕事を認めてもらいたいと思っているのに、同僚も上司もちっとも認めてくれない。そういう自分の欲が満たされないときに起こってくる苦しみのことです。

 

第12回 仏の願い ③ (2015.6.15.更新)

 

1.人生は苦であるー自分自身の本当の姿を知る

 ⑴四苦八苦ということ

 ③病

 四苦の三番目というのは、病です。これは今申しましたように年をとれば、だれでも体のそこかしこが痛んでくるのですね。腰が痛くなる。目が遠くなる。足が弱ってくる。歯が悪くなる。そんことが起きてきます。あるいは、内臓が悪くなることもありますね。胃潰瘍だ、腎臓病だと、いろいろの病気がでてきます。この病というのも、やはりつらく苦しいことです。私などはまだ若いほうかもしれませんが、それでも同じ世代の仲間が癌で亡くなったなどと聞くとやはりびっくりします。私たちにとっては、この病気というものは、苦なのです。しかし、誰もがなにかしらの病気を縁として死んでいくのですね。

 ④死

 四苦の最後は死です。生まれて年老いて、やがて病気になって、死ぬのですが、この死ということが、やはり私たちにとって一番の苦悩だと思うのですね。なぜなら、老いも病も、それなりに自分で努力をしたら遅らせることもできると思うですが、この死ばかりは、どんなにお金を積んでも、どれほど勉強しても、どれほど神さまに祈ろうと、絶対に避けることのできないものだからです。仏教では、自分の思い通りにならないことを苦というのですが、自分の思いどおりにならない一番のことは、この死ということです。

 さて、このように私たちの人生とは、自分の意思とはかかわりなく、この世の中に生まれてきたかと思うと、その一生を生きていくために営々と働き、そうこうするうちに、年をとり、気がついてみると、身体のあちらこちらがいうことを聞かなくなり、やがては死に直面して一生を終わるのですね。

 こういう私たちの人生のすがた、生老病死を踏まえてお釈迦様は、人生は苦であるとおっしゃったのですが、四苦八苦という場合には、いま申し上げた生老病死の四苦のほかにあと四つの苦があるというのですね。もういいよ、といわれそうですが、もうちょっとですので、お付き合いしてください。

 

第12回 仏の願い ② (2015.6.5.更新)

 1.人生は苦であるー自分自身の本当の姿を知る 

 ⑴四苦八苦ということ

 ①生  さて、人生は苦であるということから、仏教は出発するわけですが、その苦の第一番目が生まれることだというのです。たしかに生まれてきたからさまざまな苦しみに出会うわにけですね。しかし、生まれてこなければ何も問題もないわけですから、これは生まれてくることという意味と生きていくということであると考えてよいと思うーのです。

 まことに生きていくことは大変だとつくづく思いますね。私には子供が三人いるのですが、この末の娘が今年の三月にようやく大学を卒業しました。これでようやく学費と仕送りの経済のやりくりから解放されました。もちろん学校に行っている間は、毎朝通学のために駅まで送り迎えを坊守がしていました。これは三人の子供が高校時代のときですが、九年間しました。それでやっと子供の手が離れたと思ったところに、私の実家の両親が二人して病気で倒れてしまい、神奈川県から山口県のお寺に移住してぬまいりました。そうして二人の介護生活が始まり、これももう九年目にはいりました。坊守には苦労のかけどうしてです。そんなことをしながらも家のローンの支払だなんだと生きるための悪戦苦闘を日々繰り返しております。たぶん今私がお話したことは、みなさんが大なり小なり自分の人生の中で日々経験されている苦しみではないかと思います。

 ② 老

 四苦の二番目は老いということです。これも自分が老人といわれる年になってみないと、それが本当にどういう苦しみなのか、なかなか本当にはわからないかもしれません。ただ、今申したように、現在私は老親の介護生活をしておりますので、年をとることが、どういうものかを毎日見せてもらっています。

 父は現在88歳ですが、脳梗塞を四回も患いまして、話ができなくなりました。そして食べるのでも、嚥下がうまくできないので、やわらかいものだけを食べますが、それでも時にはむせこんで苦しそうにしては、そこらじゅうに食べたものを吐き出します。また、歩行がだめで、家の中で歩行器にすがって歩きます。排便は自分でしますが、もちろん紙おむつをあてています。ただ、これがおしっこであればよいのですが、うんこなどになって、特に下痢のときなどは最悪となります。そこらじゅうに便がついて、その処理には坊守と二人大騒動します。

 父は元気な時には本当になかなかきかんきで、自分でなんでもしなくては気の済まない人でしたから、口のきけない、そして体が自分の思う通りにならない、この状態を本当に情けなく思っていることだと思います。私も息子として、そのような父を見るのは、つらいのですが、これが老いる苦しみなのだろうなと、今からやがて自分もこの父のようになっていくのだと覚悟をしています。やはり老いるということ苦しみだとつくづく思いますね。

 

第12回 仏の願い ① (2015.5.18.更新) 1.人生は苦である・・・自分自身の本当の姿を知る

 今日では、人生はばら色でなくてはならないと、考えている人が多いようですが、仏教は、人生は苦であるというところから出発します。

 こう申しますと、これだから坊主の話はかなわん。と思われる方もいるかもしれません。たしかに人生にはつらいこと、悲しいこともあるが、反対に楽しいことだって一杯ある。自分の夢が叶うことや、子供の笑顔や家族の団欒、運動したときの爽快な気分、カラオケで気持ちよく歌ったとき、心を開いた友達とお酒を飲んでいるとき。人生は苦どころか、楽しさに満ちている。そう考えている方もおいでかもしれません。いったいそれなのになぜ人生が苦なのか。これから仏教でいう苦とは何をいうのか少しづつお話してまいります。そしてなぜお釈迦様が人生は苦であるとおっしゃったのか。人生が本当に苦なのかどうか、皆さん自身の体験に照らしながら、お釈迦様の教えを聞いていただきたいと思います。

 <四苦八苦ということ>

 みなさんもよく日常生活の中で、何か困ったことがあったりすると、四苦八苦したよ、などとおっしゃると思います。この四苦八苦というのは、仏教の言葉ですが、普通にいわれているよりずっと深い意味があります。

 まず四苦ですが、これは生老病死のことです。つまり人間は生きていくことが苦であり、年をとることが苦であり、病気をすることが苦であり、そして最後には死ななくてはならない。この生老病死があるがゆえに、人生は苦であると、お釈迦様はおっしゃるのです。


第11回 「聞く」ことと「信じる」こと ⑧ (2015.5.5.更新)

  浄土真宗では、聞くというのは、聴を使いません。聞を使います。これはどちらもきくという意味があるのですが、同じきくでもそこには意味の違いがあるのです。つまり聞くという時は、自分が特に聞くつもりがなくても、向こうのほうから聞こえてくるのです。それが聞くということです。それに対して聴というのは、自分の方から聞こうとして耳を傾ける、そういう聞き方をいうのです。

 法をきくというときには、どちらかといえば、聞くよりも聴くのほうがよいように思います。一心にきく、熱心にきく、まごころこめてきく、一生懸命にきく、真剣にきくなど、自分がぼんやりしていて聞こえてくるというよりも、自分のほうが法を聴くというほうが、どうもぴったりくるように思えるのですね。実際、私たちがお寺のご法座におまりして、お話をきくというのは、自分から出かけていって聴くのですから、聞よりも聴であるわけです。しかし、それにもかかわらず聴即信とはいわないのです。どこまでも、聞即信なのですね。なぜかと申しますと、私たちには、本当の意味で、熱心にきいたり、真剣にきいたり、まごころこめてきいたり、一生懸命にきいたりすることができないからです。そういうこころ、そういう行いができないからこそ、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号となってくださったのですから、向こうからくる南無阿弥陀仏の声をそのごとく聞くしかないのです。もし、私たちに真実に聞くことのできるような心があったなら、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏になる必要がなかったのです。そういう真実の心がない私たちなればこそ、ただ聞くことだけの南無阿弥陀仏を与えてくださったのです。聞くというのは、真実の世界から私たちに向って声が届くということです。それに対して、聴くというのは、私たちのほうから真実に向って、手を伸ばすということです。私たちが手を伸ばして摑めるようなものでないことを見越して、南無阿弥陀仏になってくださって、向こうから私たちのところへ来てくださったのが、阿弥陀様ですから、その阿弥陀様の南無阿弥陀仏の声は聞こえたらもう間違いないのです。どこまでも、聞くでなくてはならないのです。

 寺へ参るのは、聴だけれども、法をきくのは聞なのです。聴できない私のために南無阿弥陀仏になってくだされた南無阿弥陀仏を聴いたら申し訳ないのですね。どこまでも聞が真宗の聞くでなくてはならないのは、そのためです。

 この私を救わんとして今現に働いている南無阿弥陀仏の働きにきづくこと、そのはたらきが間違いなく自分のところに届いているということを知るということが、南無阿弥陀仏を聞いたということなのです。そして、その時に聞こえた南無阿弥陀仏がそのまま信となり、その信をいただいたときに救いもまた成立するのです。

 このたびは浄土真宗の聞くと信ずることについてお話させていただきました。

 

第11回 「聞く」ことと「信じる」こと ⑦ (2015.4.16.更新)

 聞くというときは、どうしても自分の方でなんとかそのことに気付こうとして聞くものですから、そこに一生懸命になる分だけ、自力のはからいがはたらいてしまってなかなか聞くことができないのです。しかし、そうかといって、それではそういう真面目な聞法の求めというものがなくて、阿弥陀仏の救いの働きに気付くことができるかというと、これは絶対にできないのですね。それですから、一生懸命になればなるほど他力の信心は遠ざかり、さりとて、もう自分にはとても信心なんて得られないといって、諦めてしまって聞法をやめてしまったら絶対に聞くことができない。そういうジレンマというのが私たちにあるわけです。それでこの他力の法を聞くことは難信の法であり、他力の信心を得ることは難中の難だといわれるのです。自分で信じる自力の信心はいくらでもできるのです。それは自分が信じるものだからです。しかし、この他力の信心は、今申しあげましたように、阿弥陀仏の他力のはたらきを何の疑いもなく、そのごとくに信知していくことですので、かえって難しいのです。懸命に求めれば求めるほど、他力の信心に遠ざかり、そうかといって諦めてしまっては、絶対に聞くことのできないもの。いったんその阿弥陀仏の働きに気付いたなら、自分の懸命な努力が全くいらないことだったとわかるのですが、そこにいたるまでは一生懸命に聞いていくしかない。それが真宗の聞なのです。そこに私たち真宗の念仏者の戸惑いがあるのですが、それ以外に信心を得る道はありません。とにかく聞くことです。そして、いったん聞くことができたなら、なんだそんなことだったのかと、思えるくらいにやさしいことなのです。それほど易しいことを、それほどまでに難しくしているものが、自力のはからいといわれる私たちの我執なのです。いってみれば聖道門のひとが、この我執を自らの修行によって無くそうとするのに対して、真宗の私たちは聞くことによって、この我執を打ち破ぶろうとしている(さわりなきものに転ぜしめられる)と、いえるかもしれません。

 

 

第11回 「聞く」ことと「信じる」こと ⑥ (2015.4.2.更新)

 しかし、この信心をえるまでの「聞 」というのが、なかなか難しいのです。

 真宗には妙好人といわれる人たちが、たくさん出ていますが、その中で、因幡の源左さんは「ようこそ、ようこそ」や「とにかくお慈悲の力はぬくいでなぁ」など、今に伝えられたすばらしい言葉を残したことで有名な方です。まことにご法義に篤い方であったと聞いております。しかし、この源左さんは、はじめからこういうご法義の篤い念仏者であったかというと、どうもそうではなかったのですね。これは、本願寺出版社から出ている『妙好人をたずねて』という本で知ったのですが、父親が亡くなるときに、その臨終の言葉に「おらが死んだら親様たのめ」と遺言をしたそうです。その言葉の「親様」とは誰か、そして「たのめ」というのは、どういうことなのか。そのことが大きな問いとなって、十八歳の源左さんの聞法が始まったということです。それは昼夜を分かたぬ厳しいものだったそうです。しかし、聞けども聞けども、わが疑いをはらすことができなかったそうです。そうして、苦しくてわからぬままに、十余年の歳月が流れていったそうです。それがあるときに、「ふいっと分からせてもらった」というのですね。そして、この時から念仏行者としての源左さんの新たな人生が始まったというのです。それで「ふいっと分からしてもらった」源左さんは、つねづね「でんはおらの善知識だいなぁ」と語っていたそうです。でんというのは、牛のことです。

 私の住んでいる山口県にも六連島のお軽同行という妙好人がいます。お軽さんも後には法悦の歌をたくさん詠んでいるのですが、そのような念仏をいただくまでには、やはり厳しい聞法の求めがあったようです。それが、あるときに病気で生死の界を彷徨った時に、自分の無力さを知らされて、その時に初めてしみじみと阿弥陀仏の慈悲が味わわれたのだといいます。

 源左さんやお軽さんを例に出して、念仏者はかくあらねばならない、というようなことはいえません。やはり、一人ひとりにお念仏をいただく機縁というものがあると思うのです。妙好人といわれるくらいの人にならなくては、本当の念仏者とはいわれないというようなことは、決してないのです。それでは、なぜ源左さんやお軽さんの話を出したのかと申しますと、世に妙好人といわれる人でも最初から妙好人であったのではなくて、そこにはやはり真剣な求法の道のりがあったのだということを申し上げたかったのです。

 しかし、それでは一生懸命に聞いたなら、かならず聞けるのかというと、この一生懸命が自分のはからいにたよっているだけ、真実の法が遠ざかるということがあるのですね。それで源左さんのように、ある時「ふいっとわからせてもらった」ということになるのだと思うのです。

 

第11回 「聞く」ことと「信じる」こと ⑤ (2015.3.15.更新)

 「ああ、自分は阿弥陀仏の救いの中にずっといだかれていたのだ」ということがわかるわけですね。それは自分がそういう働きがあるのというのを無理矢理に信じこむことではないのです。また、そのように無理に信じたら阿弥陀仏の救いがそのときに始まるというのものでもないのです。それはどこまでも自分が信じる信心ではなくて、「阿弥陀仏は凡夫を救う」という他力の働きの中に生かされていたということに気付かれされることなのですね。ですから、そこには何も力んで何かを信じるとかいう必要がないわけです。だから、そのことが間違いないといって、外に向って自分の信心を誇る必要も証明する必要もないのです。ただ、自分は「阿弥陀仏はおまえを救う」というおのずからある法の働きの事実に気付いただけのことなので、自分の中になにかを掴んだといえるものは何もないわけです。ここが、自分で信じる信と浄土真宗の他力の働きに目覚めていくことの他力の信心との違いです。

 聞法の中で阿弥陀仏の他力の働きかけに気付いたら、それは言葉を換えていえば、南無阿弥陀仏の六字のお名号のおいわれを聞かせていただいて、疑いがなくなるということですが、そのときにまさに信心も定まるわけです。目覚める、疑いの心がはれる、それがそのまま信心になるのです。それが聞即信というありかたなのですね。聞法して、その働きに目覚めたとき、あきらかにその救いの法が聞けたとき、阿弥陀仏の救いのはたらきのなかに抱き取られていたことが、そのままに信知される。それが信です。ですから、そのときには、もはや疑う心がないわけです。外に向って信じていますと力む必要もないのです。つまり、その人にとっては、その救いのほうは現前する事実として自明のことになっているからです。それが他力の信心のあり方です。それだから、聞くことと信じることとひとつなのですね。 

 

第11回 「聞く」ことと「信じる」こと ④ (2015.3.2.更新)


 他力というのを、このように阿弥陀仏の力というようにとらえてしまうと、どうしても私とはかけ離れた向こうの存在を拝むというようになってしまうのです。それですから、この他力というのは、阿弥陀仏の力というように理解するのではなく、「阿弥陀仏は凡夫を救う」という働きそのもののことを他力というのだと理解してほしいのです。「阿弥陀仏は凡夫を救う」それが他力ということです。「阿弥陀仏は凡夫を救う」という働きは、私たちがそれを願ったから、お願いしたからあるのではないのですね。私たちが救いを願おうが願うまいが、そういう私たちの思いにかかわらず、阿弥陀仏自身の大悲の働きとしてずっと働き続けているのです。それが他力ということです。「阿弥陀仏は凡夫を救う」それが他力ということなのです。私たちがたよるとかたよらないとか、そういうことにかかわりなく働いている力それが阿弥陀仏の他力ということです。それでは、それはどのように働いているのかというと、南無阿弥陀仏となって現在の私たちのところに届いているのです。

 他力というのが、そういう私たちの思いはからいにかかわりなく久遠の昔から私たちを救いたいとして、阿弥陀様が南無阿弥陀仏となって働きかけてきてくれているということに気付くということ、あるいは目覚めるということなのです。そういう他力の働きの中に包まれていたのだということにはっきりと気付いていくこと、それが他力の信心というものなのです。つまり、阿弥陀仏の他力、「おまえを救う」という働きは私が気付くまえから、今もずっと働き続けているわけです。ですから、いったんその働きというものに自分が気付いたなら、もうそれでいいわけですね。

 

第11回「聞く」ことと「信じる」こと ③ (2015.2.14.更新)

 

 信心取れよ、信心獲得などといわれますと、どうにかして信心を掴もうと私たちはするわけです。なにか、その信心というかたまりがあって、そういうものが聴聞しているうちに阿弥陀様から与えてもらえるように思うのですね。あるいはご法話を聞いているなかで、なんとかつかみとるようにするわけです。しかし、そういうものではないのです。先程のような自分が信じる信心であると大変わかりやすいわけですね。阿弥陀仏は確かに存在する。阿弥陀仏の本願を私は信じています。しかし、こういう信心のありかたは、実は信じていると言いながら、その実疑っているわけです。心の隅のどこかに疑いがあるので、人から阿弥陀仏は存在しないと言われたりすると、そんなことはないとむきになって否定したりするわけですね。自分でつかんだ信というのは、どこまでいっても、それは疑いの裏返しにすぎないのです。私たちの信じかたというのは、どこまでも自分が中心になって自分が信じるのです。こういうのを自力の信心というのですね。普通の信心というのは、たいていはこの自力の信なのです。そして自力の信を疑心というのです。

 浄土真宗の信心というのは、そういう自分が一生懸命に力んでする信じぶりでは全然ないのです。真宗の信心は、他力の信心といわれる以上、他力というのがどういうものであるかがはっきりわかっていないと、その信心の特徴がわからないのです。この他力を間違って理解しますと、先程から申しています、よその宗教のような「私は信じています」という自力の信じ方になってしまうのですね。

 他力に対しては、自力というのがあります。これは文字どおり自分の力や意思の働きというものをたよりとしていくものです。自力というものが、どこまでも自分の力をたよりにするものですので、これに対して

他力と申しますと、阿弥陀仏の力とすぐに考えてしまいます。たしかに他力というのは阿弥陀仏の力であるのですが、これを自分の力に対して阿弥陀仏の力と理解しますと、たいていは凡夫の自分ではとうてい仏になれないのだから、絶対の仏である阿弥陀様にお願いして助けていただこう、そう考えますね。そして一生懸命念仏して、一心に願ったら、きっと阿弥陀様は助けてくださる。私はそれを信じています。と、こういうふうになってしまうわけです。こうなりますと、これは先程から申しております普通の信心のありかたになりまして、私が信じる信心ということになってしまっているのですね。これはつまり他力というものを誤解しているのです。どう誤解しているかと申しますと、阿弥陀仏を自分から遠くかけ離れたところにおいてしまって、それをあがめて、その力にすがりつき、私たちが一生懸命にお願いした、そのことに応えて、阿弥陀様が凡夫の私を救ってくださるのだと考えてしまうのですね。  


第10回「聞く」ことと「信じる」こと ② (2015.1.31.更新)


  浄土真宗の信心は他力の信心といわれますように普通でいわれる信心とか信仰とはちょっと性格が違うのですね。それで、よくみなさんもこの他力の信心というのが、どういうものかわからなくて、どうしたら信心いただけるのか、いかにしたら信心獲得できるのかといろいろとお尋ねになられたり、疑問に思ったりなさるのだと思うのですね。

 一体他力の信心というのは、どういう信心なのか。どういうところが普通の信心と他力の信心と違うのか。まずそのところを考えてみたいのです。

 たとえば、阿弥陀仏というのは、本当にいるのかどうか、と誰かにたずねられたとしますね。その時にそんなのは、科学のなかった時代の空想であって、存在しないのだ。と、言うと、これは明らかに信じていないのですね。疑っているわけです。それでは、いや、そんなことはない、確かに阿弥陀仏は存在する。お経にちゃんと書いてあるから、私は阿弥陀仏はたしかに存在すると信じる。こういいますと、これは一応信じている、ということになりますね。それが本当かどうかわからないが、とにかく自分は信じる。これが普通に私たちが信じるということです。この場合は、どこまでも自分がそれを信じるわけです。ですから、もしそれを聞いた人が、おまえは阿弥陀仏が存在するというが、それでは阿弥陀仏が存在していることを証明してみろ、といわれると、そんな証明はできないが、とにかく自分はいると信じているのだ、とむきになりますね。さらに相手がそんな証明もできないようなものを信じているなんて、そういうのは、盲信というのだと言おうものなら、一層かたくなになってしまって、誰がなんと言おうとも阿弥陀仏は存在するのだ、阿弥陀仏がいないなんていう人間はまったく無信仰な気の毒な人間なのだと思って、相手にしないようになりますね。つまりどこまでも自分も信を守ろうとします。自分の信じていることに間違いはないのだ、絶対に阿弥陀仏は存在しているのだ。そう一生懸命に信じこもうとするわけです。ですから、そういう自分の信を脅かすようなことをいわれると、腹が立つし、必死になって自分の信を守ろうとするわけです。これが、普通に言われる信です。自分が自分の力で一生懸命になって信じるのです。浄土真宗の信心というのは、こういう信ではないのですね。


第10回「聞く」ことと「信じる」こと ① (2015.1.15.更新)

「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、これを聞というなり」

 これは親鸞聖人の著してくださいました『顕浄土真実教行証文類』というお書物の第3巻目の信の巻からいただいご文です。これからしばらくこのご文をいただいて、浄土真宗における「聞」というのが、どういうことをいうのか、なぜ浄土真宗では聞くということ(聴聞)をやかましくいうのか、しばらく何回かにわけてお話しようと思います。

 上に引いたご文の意味は、聞くということは、私たちが阿弥陀仏のご本願の起こされたおいわれと、その本願の結果私たちにもたれされた南無阿弥陀仏の名号のはたらきについてを聞くことであり、そしてそのお聞かせいただいた仏願の生起と本末についてなんの疑いも持たず、そのごとくに聞くことを、聞いた(聞)というのである、という意味です。

 皆さんも折に触れ、またご法座のたびに聞法、聞法、お聴聞、お聴聞と、それこそ耳にたこができるくらいに、聞法が大事であると聞かされていると思うのです。なぜそんなにやかましく浄土真宗では、法を聞く聞法を言うのでしょうか。それは、浄土真宗においては、法を聞くことと信じることがひとつになっているからなのです。これはちょっとわかりにくいのですが、聞くことと信じることが別々でないということです。もし、聞こえたなら、それが信だということです。ここに浄土真宗の他力の信心の性格が大変によくでているのです。

 普通は、聞くことと、信じることは別ごとなのですね。たとえば、なにかの法座の時にでも、ご講師の先生から、阿弥陀仏は凡夫である私たちを救おうとして南無阿弥陀仏になってくださっているのです、と聞いたとしますね。そうしたら、皆さんは、その聞いたことを、そうか阿弥陀仏は私を救おうとして南無阿弥陀仏になってくださったのだな、それを信じたなら自分は救われるのだな、よし、それでは信じよう。とにかく信じさえすれば救われるというのだから、本当がどうかはわからないが、とにかく信じよう。このように聞いたことと自分が信じることの間に間があるのが、普通の聞き方であり、信じ方です。これでは浄土真宗の「聞く」にならないのです。またそうであれば、いま申したような信じ方というのも、浄土真宗の信心のすがたではないのですね。

 それではいったい何を聞くのか、そしてどうして聞くことと信じることがひとつだというのか。普通は聞いた後で、その教えを信じるか信じないか決めるのですが、浄土真宗の聞くは聞いたときは、そのままが信だというのです。どうしてそういうことが言えるのか。(次回は月末頃に更新します)



第9回 真実の教えとは何か ② (2015.1.1.更新)

<私たちの願い>

 私たちは幸福になろうとして、いろいろのことを願います。病気をしていれば、病気が治りますようにと願います。仕事や商売がうまくいかなければ、なんとかうまくいくようにと神仏に祈ります。

 人間には五欲というものがあります。財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲といわれるものです。私たちはこういう五欲というものを満たそうとして一生懸命に働いているわけですね。そしてこれらの五欲が思うように満たされないときに、それが苦となって、その苦を取り除きたいと願うところに、私たちの願いや祈りが出てくるのです。

<仏教の救い>

 ところで仏教では、五欲を満たしたらそれで人間は幸せになれるのだという考えは、迷いであると教えます。そういうところには真実の幸福はないのだというのです。

 仏教における苦というのは、自分の思い通りにいかないということです。それがために人間はさまざまな願いを持つわけです。多くの宗教は、そういう私たちの願いをかなえてあげるといって、勧誘してくるわけです。しかし、そのような現世利益をうたい文句とした宗教が、いかに私たちの願いに応えてくれたとしても、人間が老い、病み、死ぬという現実はどうしても避けることができません。ここを押さえてお釈迦様は人生は苦であるとおっしゃったのです。そして、このような根本苦の解決をめざすところから仏教は出発しています。

<私たちの本当の願い>

 私たちがどれほど願おうとも、絶対に自分の思うとおりにできないものがあります。それは、「死」です。五欲というものは、自分の努力である程度はどうにかできるものです。しかし「死」ということは、どれほど死にたくないと願っても、避けるわけにはいきません。その意味で、私たちにとって、「死ななければならない」ということは、一番の苦であります。したがって、「死」からの救いということが、また一番の願いでもあるのです。

 しかし、自分の一番の苦が死ぬことであり、一番の願いが死にたくないということであるということは、実際に死に直面するまでは自分でも気づけません。毎日の生活に追いまくられて生きている私たちにとって、死というのは、いつまでも先のことであり、自分のこととしてはなかなか考えられないのです。その結果、死が目の前に来るまで、自分自身でも自分の本当の苦と本当の願いに気づくことのないままに、今の生活の幸福に明け暮れているのです。

<仏教は真実の教えである>

  仏教は、人々の五欲を満たす願いには、あまり熱心ではありません。それは今申したように、死という人間の根本苦を解決しないことには、それら五欲をどれほど満たしたところで、それは人間の迷いを深めるだけであって、本当にその人間を救うことにならないということがわかっているからです。そして反対に、死という根本苦が解決されたときには、私たちの五欲の炎は静かに止んで、もはやそのような願いに心を焦がすということもなくなることがわかっているからです。そこに生きることの苦しみも取り除かれ、死ぬことの苦も取り除かれた、真実の安らぎの世界がひらかれるのです。それが生死をこえる仏教の救いのあり方です。

 私たちの自我に根ざした諸々の願いをかなえてくれる教えというものは、つまるところ私たちの際限のない欲望を煽るだけで、決して人間の根本苦を解決する力になる教えではありません。仏教は自己の否定ということを通して、私たちの欲望の炎を鎮めるとともに、人間の根本苦の解決を目指すことで、この今、現在の一瞬を充実して生きる道を示してくれる教えなのです。

 

第8回 真実の教えとは何か ①  (2014.12.17.更新)

 二回にわたって「宗教は怖いか」と題しまして、私たちにとっての宗教というものを考えてみました。その中で私は、一言で宗教といってもそこには本物の教えもあれば、ただ人々を惑わすだけのまやかしの教えもある。だから、自分たちにとっては、真実の教えに出会うことが大切であると申しました。真実の教えとはどういうものなのか、今回も二回にわけて考えてみたいと思います。

<私たちが宗教を求めるとき>

 私たちは宗教というものが、人間にとって大切であると認めながらも、とりあえず普段の生活の上で支障がないかぎりは、あえて何かの教えを求めるということはないものです。そういう私たちが宗教を求めるのはどういう時でしょうか。たぶん自分の力ではどうにもならないような事態に直面したような時ではないでしょうか。お金、健康、人間関係の苦しみや悲しみに出会った時、なんとかその苦悩や悲しみから逃れたいと思って宗教に道を求めるのではないでしょうか。あるいは現在よりももっとすばらしい人生の幸福を求めて宗教に関わるということがあるかもしれません。

<人間の苦悩にどう応えるのか>

 私たち人間の持つ様々な苦悩を救い、その願いに応えていくのが宗教ですが、この応え方には、大きく言って二つのあり方がます。一つは私たちの持つ苦しみ悩み、様々な願いというものに、一つ一つ応えていくという対処的なありかたです。もう一つは、私たちの苦しみ悲しみの原因がどこにあるのかを明らかにして、根本的に私たちを救っていこうとする在り方です。この後者の応え方がお釈迦様の立場です。

 しかし、お釈迦様の立場は根本的に私たちの苦しみを救うための教えであるために、その教えがすぐに自分の悩みや苦しみに応えてくれるようには思えないということがあります。それで私たちはすぐに効果のありそうな対処的な教えに引かれてしまうのかもしれません。

 先日手にしたある宗教団体の勧誘案内にはこのようなことが書かれていました。「相性、結婚、医者から見離された病気、子供の非行、家庭不和、進学、就職、事業の不振。これらすべての悩みを霊感による因縁・厄を解くことで解消できる」というのです。私たちの人生上の種々の悩みをすべて解決してくれるというのですね。

 子供の非行で悩でいる人がいて、こういう所に行きますと、これは水子の霊が禍いしているからだと言われ、その霊を鎮めなくてはいけないといわれます。そこで供養をしてもらいます。それで、いったん子供の非行がなおったとします。すると今度は家庭の不和が起こります。それでまた霊を見てもらうと、今度はおじいさんの霊が浮かばれていなことが原因だと言われます。そこで今度もまた供養してもらいます。しかし、今度は一向よくなりません。霊供養の利益がないのですね。それでそのことを言うと、それはあなたの信心が足りないからだ、その信心が足りないのは、供養料の少ないことでわかるといわれます。

 こうしてどんどんお金をつぎこんでいって、結局なにもよくならない、いえ、むしろ最初より一層ひどい状態になってしまったということが起こるのです。子供の非行に苦しめば、水子の供養を勧め、家庭の不和に悩むと、霊の供養を勧める。そのように何か問題が起これば、そのつどそれに応えていこうとするのが、偽りの宗教のあり方です。

 しかし、これではどこまでいっても本当の安らぎというものを得ることはできません。なぜなら、人生には予想できないようないろいろの悩みや苦しみがあって、そういうことが起こるたびに対応的に応えていくような教えでは間に合わないからです。そして何よりも苦しみの原因をいつでも自分の外に見出していこうとするところには苦悩の種が尽きることはありません。

 これに対して仏教は、こういう苦しみや悩みがどれほどあっても、それが一向に人生の支障とならない、そういう道を説くものです。なぜそういうことができるのか。次回はそのことを考えてみたいと思います。

(次回に続く)