2024年 今年もよろしくお願いします。

「ネット門徒さまから」

 昨日下関市のOさんから「ネット門徒です。ご降誕会はお参りできませんからご仏前をお送りさせていただきます。」と、綺麗な封筒のお手紙と「ご法礼」が送られてきました。Oさんがお寺に参って来て下さってから、かれこれ6年が経ちました。

コロナで法座が開けなかったり、彼女のご母堂様の介護などでなかなか思うようにお聴聞が出来なくなられたのです。

 

 でも、ラインで当山のホームページを見て下さっていたり、私もOさんのお母さまのお写真を見せて頂いたり、季節折々のお便りを頂いていたので、6年経っても昨日お会いしていたかのような親しみを感じています。

 

 「喜捨」というお言葉があります。文字通り「喜んで捨てる」という意味です。このお言葉は仏教に限りませんが本来の仏教の「喜捨」または「布施」は「言うは易く行うは難し」と私は感じています。大変難しいです。

 本来の私は喜んでもらうことはできても、喜んであげることは、なかなかできません。

「断捨離」という言葉が流行り、終活の一環として必要なくなったものを捨て、シンプルに生きるという生き方がはやりました。この時の捨てものとは、自分に必要なくなったもののことです。

 

 喜捨は自身に必要な、大切なものを相手に差し出す…と私は理解しています。

自身に必要なものですから、差し出すときは悩み、心が痛みます。でもそれを上回る喜びが「喜捨」という行為だと思います。

 

 いつもため込み、手放すことができない執着心の塊が私です。

今回のお手紙から教えて頂いたことでした(4.27)

 

 

 

 

 

「大谷選手のこと」

 今期から大リーグのドジャースに移籍した投手・打者二刀流の大谷翔平選手がやっと調子を取り戻しつつあるようです。

 韓国で開幕した大リーグでした。その前に婚約発表して、そのお相手(真美子さん)と公私ともに幸せいっぱいのスタートを切った大谷選手に想像だにしていなかったスポーツ賭博問題が沸き上がってきました。そのことの起こりは長年大谷選手の相棒として通訳していた方の裏切り行為からでした。まだ捜査段階で明らかな事は言えないまでも試合後のインタビューで大谷選手の口からはっきりと関与していないことを公言されました。

 

 私はこの事件が起きるまで、大リーグ野球のことはあまり関心がなく、大谷選手に対しても普通に海外で活躍してくれる選手の一人として応援していたくらいです。

 でも、これまで輝かしい成績と日本人ならではの心遣いを持って世界中の野球フアンから愛され、尊敬をされてきました。そんな大谷さんが築き上げてきた尊敬と信頼が足元から崩れそうな時、それ以降の大谷さんがどんな野球をするのか見てみたくなりました。

 事件が発覚する前は、真美子さんの隣には通訳のかたの奥さんがサポートし、仲良く観戦を楽しまれていました。発覚後の真美子さんの両脇には、これまで前面にしゃしゃり出ることがなかった大谷選手のご両親が真美子さんの側に座っておられました。(発覚後の一日だけちらっと映像がとらえました)

 

 マスコミは挙って大谷選手も関与していたのではないかと貶め始めました。日本のマスコミや弁護士さんも、アメリカの報道を伝えていました。これまでは日本の宝だと、誰もが得意げに騒いでいたのに…。

 

 大谷選手が一番苦しい時に誰が側にいてくれたか、このわずか数秒の映像が私の心に響きました。大谷選手のご両親のお心は阿弥陀様のようです。一番悲しい時、悲しいのです。

 そして、大谷選手をだました通訳の方にもこの仏様のお心が届きますように…(4.10)

 

「永代経法要」のご縁」

今年の永代経法要には岡智徳先生がご講師としてお越し下さいました。久しぶりの一日法座で3席を頂きました。

 先生のお話は分かりやすい言葉で仏様のお心をかみ砕いてお説法くださいました。    体調が万全ではなかった若坊守も「大変ありがたいので、午後席のご法話も聞かせてください」と申しました。

 

 午前中は今、最も話題の「大リーグ選手大谷さん」のお話でした。野球をしたことがない新発意さんのお話でした。大谷選手のグローブが新発意さんの通う学校にも届き、手にはめた時の感動を帰宅後、先生に話され「マジで野球をしようかな」と、おっしゃったことを、驚かれたそうです。

 

 「野球をしようぜ」と書かれた大谷選手のメッセージと共に送られてきたグローブを素直に受け取り野球に興味を抱いた新発意さん、その心を動かすものとは何なんでしょうね…。

 先生は大谷選手が大リーグで活躍できるまでの道のりは決して独りの力だけで為せたことではなく、それまでに道を開いて下さった先輩たちのお陰であることを教えて下さいました。そのお陰を知る大谷選手の感謝の心が、グローブという形になって次につながる後輩たちに届いたのです。将来、大リーガーとして活躍する子供が現れるかもしれませんね。

 

 今日の「永代経法要」のご縁は、私がこの世に生まれた意味を仏となったご先祖様は教えて下さっています。そしてこの命が終わる時、必ず浄土に生まれさせると御誓い下さっています。大谷選手のグローブは将来大リーガーが生まれるかもしれないという可能性のお話ですが、如来様の下さった「なんまんだぶつ」はすべての人が仏となる真実の親心のお話でした。そして私が仏様にならせていただく主人公であることをお聞かせ下さいました。

 

 午後席は若くして夫がご往生された奥さんのお話でした。お浄土を拵えて待って下さる如来様の国があることが、どんなに有難いことかをお聞かせいただき…深く心に響きました。なんまんだぶつ(3.26)

 

お浄土にて」

 3月は悲しい別れが沢山ありました。

 地元ではMさんがご往生されご自宅での通夜となりました。これまで優しく声を掛けて下さり、最長老としても沢山の方から慕われておられたMさん、その訃報を聞きつけて、仏間続きの二部屋は会葬の人で入りきれないほどでした。

 住職の挨拶の中で「お寺のお父さんと思っていました。心の大きな支えを失ったように悲しいです」とありました。住職は全く無縁のこの山口の地で、仏様を中心とした人間関係を結ばせて頂きました。その中でも住職よりもはるかにご年配の「総代さん」に教えて頂きながら、歩ませていただきました。そのことは誰よりもよくわかっていますから、住職の言葉の重みを感じました。

 

 お寺に居ると悲しいお別れが多いです。だからこそ、「そんなお前を待っている」と用意して下さっている浄土を恋しく思います。やがて、参らせていただきます。なもあみだぶつ…。(3.21)

「 遠方からの電話 」

 2月の5日に聞きなれない名字の方から電話がありました。聞けば静岡県に嫁いだ娘さんから、お母様の葬儀のご相談でした。この方はご門徒さんのⅠさんの義理のお嫁さんに当たる方です。ご高齢のため実家を離れて娘さんを頼って静岡県を終の棲家にされました。

 

 住職に電話を代わり、通夜を二日後にしてもらい繰り合わせて葬儀をお勤めさせて頂きました。

 静岡県の葬儀を終えない内に、今度は福山県からお葬儀を勤めてほしいとの電話を頂きました。

 

 お寺の周りは空き家が目立つようになりました。ご門徒様も一年ごとに年をとられ心細くなる頃、実の娘さんにお世話になると、住み慣れた土地を離れる人もいらっしゃいます。淋しいです。

 でも、またこうして最後のお別れをさせて頂けることは幸いです。ご門徒さんを縁として、最期の大事なお勤めを任せていただけるからです。

「また遇える世界(お浄土)がありますよ」とお伝えすることが出来るからです。

淋しいけれど、また遇える日まで…お導きくださいね。なんまんだぶつ(2.16)

 

「 朝の5分間 」

 立春の声を聞くともう春なのだと感じるのですが、まだまだ寒い今日の朝です。

 いつもは住職が鐘をつくのですが、不在の日は私の番です。6時23分、ラジオ番組「今日は何の日」を聞きながら鐘をつく用意をして、25分一打目のスタートです。

 東の空が薄っすらと赤みを帯び、刻々とと明ける空を見れるのも鐘を撞く楽しみの一つです。ダイナミックな空の動き…私ひとり何とも言えない神秘の空気に包まれているようです。

 

 ラジオからは日常の生活や社会の動きなどの情報が流れてきます。「日常の生活を豊かにするために」というテーマです。

 今朝の私は大きな空の動きを見上げることができたことで、心が満たされました。豊かさは求めて得ることはできないかもしれないけど、求める前から既に用意されているものなのかもしれないな…そんな朝の5分間でした。

 

 

 

「お同行様のこと」

 久しぶりに和歌山からお同行様がお寺を訪ねて下さいました。今回は奥様とご一緒でした。来寺の2時間くらいをお茶を飲みながらご信心のお話をいたしました。

 Yさんとの出会いはインスタグラムからでした。私のたわいもない投稿に真摯に向き合って下さり、不思議なご縁を感じました。仕事で1か月に1度下関に来られる機会を借りてお寺を訪ねて下さってから今回が4度目です。住職が京都でお説教をするときも、聞きに来て下さいました。

 「不思議なご縁ですね。でも縁とはそういうものでしょう」と、住職。

私にはYさんに謝っておきたいことがありました。それは今回の「領解文」の問題です。

Yさんは仕事をされながら中央仏教学院の通信教育で学ばれています。実はそういう学びの機会もありますよと教えて差し上げたのが私でした。すぐさま3年間の通信教育を始められました。そこまではよかったのですが…

 もしこのまま学業を終えられ、得度を受ける…ということにでもなれば、当然カリキュラムの中に「新領解文」が入ってきます。Yさんは新領解文を暗記しないと得度式を受けることができません。Yさんのように真っ新の状態で真摯に学んであられる方にとっては難しい選択をしなければなりません。本当に申し訳ないです。

 

 同じように悩んでいらっしゃる方があると聞いています。

教団の分裂は避けたい、でも真実の教えを広めるための教団です。教団のための浄土真宗ではありません。親鸞様はもしかしたら今の教団の有り様を一番に憂いておられるかもしれません。(2.3)

 

「南無といい 息継ぎ足して 阿弥陀仏

 

 大坂「常見寺」の坊守様の亡くなっていく前に詠まれた歌を、正覚寺のご住職様から教えて頂きました。

 坊守様は肺を患って、最後には一息にお念仏を称えることができない程に身体が弱っておられました。その時に詠まれた歌にはっとさせられました。

 

 私は今、健康でお念仏を唱えることができる、何という幸せなことか…勿体ないなあと思いました。

 いつでもお称えできるお念仏に仕上げて下さった如来様のお心、そのお名前に込められた願いを想う時、そうであったか、やがてこの私もお念仏を称えることが叶わなくなったり、忘れてしまうかもしれない…それでもそんな私にも忘れない親様がいて下さるかたじけなさを、この坊守様のお歌から教えて頂きました。

何の心配も要らない心強いお念仏のお心でした。かたじけなく勿体なく…称名。(2.1)

 

 

 

「仏前結婚式」

 去る1月13日に甥っ子の結婚式をお勤めしました。コロナ禍で式が挙げられなかった甥っ子でしたが、両親の願いを聞いてくれて佛式の儀式で誓いを立ててくれました。

 

 当日は式場のスタッフさん達も協力して下さり、神式の祭壇を佛式のお荘厳に変えて、厳かな雅楽に合わせての入場でした。若い二人が本当に美しかったです。

 

 最近の結婚式は、神様や仏様を立てずに「人前式」というのが多いそうです。親族やお友達を前に二人の永久の誓いを立てるそうです。

 普段、神仏を信じていないのだから、あえて結婚式に神仏の前で誓わなくてもいいだろう…という考えでしょうか。なるほどとも思います。

 

 しかし私は残念に思います。

親と子、親戚には血縁で繋がれた切っても切れない縁があり深いものです。しかし、結婚のお相手にはどのようなご縁があったのか、考えてみると不思議です。よほどの浅からざるご因縁で出会い結ばれたご縁だったのでしょうか。その因果を考えるとき、やはり人知を超えたものに引き寄せられていたと思うのです。

 独りの人生からパートナーと出会い、おたがいに寄り添いながら並走して完走できる人生になるよう、その一歩を仏様の御前で誓わさせていただくのです。

 

 尊い一歩をお念仏申しながら歩き出した二人に、心強く後押ししてくださる存在があることが嬉しいのです。なんまんだぶつ…。(1.21)

 

 

 

 

「元旦の地震のこと」

 能登半島で一月一日に最大震度7をこえる地震が発生してから10日が経ちます。日を追うごとに震災の様子が映し出され、

死傷者の数は増え続けています。故郷を離れた人が正月を楽しみに帰省され、家族団らんの最中だったかもしれません。想像するには余るほどの苦しみ、先の見えない不安、なぜこんなことになってしまったのか…予想だにしなかったことでした。

 

 明けての2日には災害地に支援物資を運ぼうとした海保機と日空機の事故で、海保の隊員5名の命が失われてしまいました。

 

 「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」一休禅師のお言葉です。

毎年のお正月にはこのお言葉が思い出されるのですが、真にそうであったと深くおしえていただいたことでした。

 無常を知ることは命の儚さを知ること、この命はたまたま生きて、生かされている命であったと、ただただお念仏申させていただきました。

 

 災害時にこんな私にできることは限られています。公の支援作業車の邪魔をしないよう見守り、心を寄せていくこと、そして災害地の手助けになるよう、できるところでの支援金をさせて頂く…ことしかないのです。長い長い道のりです。

 ひとりぼっちで絶望感を抱かれている方にもお念仏が届いて下さることを念じています。(1.10)

 

「明けまして南無阿弥陀仏」

 昨年頃からコロナ対策が緩和され、お寺の行事も少しずつコロナ前に戻りつつあります。

 昨日は除夜の鐘を皆さんとつき、一年を振り返りながら感謝申し上げました。午後の部で108ツの半分以上をつき終え、夜の部では雨の中、傘を差しながらの除夜会でした。

 普段のご法座ではお会いできないような方たちも沢山お参り下さいました。

 

 除夜の鐘を終えた朝9時から修正会を寺族のもので勤めさせて頂きました。こちらの写真は典型的な四世代家族の写真です。子から孫へ…その灯は消えそうで揺らめく時もありますが、法が確かな真(まこと)である限り、法灯を絶やすことなく、勤めてまいりたいと思います。

 

 世界を見渡せば各地で争いや、戦争の火種が絶えません。何の罪もない赤ちゃんや幼い子が命を奪われる映像を見せられるにつけ、胸が苦しくなります。私があの赤ちゃんの母親であってもおかしくないのに…。偶々(たまたま)今の時代に生まれ、偶々日本という国に生まれさせて頂き、親鸞聖人のお聞き開いて下さったお法に出遇うことができました。本当にかたじけないことです。

 今年もお念仏を申させて頂きます。なんまんだぶつ。(1.1)