有り難き念仏者 金子大榮師

 

 金子大榮先生は、真宗大谷派の学僧です。もうすでにご往生されて久しいのですが、このコーナーでは、先生の著作の一部を毎月少しづつ転載してご紹介いたします。

 私にとって直接の善知識は龍谷大学で教えていただいた岡亮二先生ですが、岡先生に浄土真宗の教えに眼を開いていただくようになるその浄土教的な世界観を教えてくださったのが、金子大榮先生です。

 今も金子先生の著作を毎日少しづつ読み続けていますが、読むたびに思うのは、どうしてこんなに有り難いお念仏の人が生まれてきてくださったかということです。

 今ではなかなか先生の著作に接することは少ないと思いますが、私がそうであったように、きっと金子先生の著作によって浄土教の、浄土真宗の深くてひろやかなお慈悲の世界が感受していただけるのではないと思うのです。

 ひとりでも多くの方に金子先生のご縁にあっていただきたくてこのコーナーを始めることにしました。

 

『知恩報徳』 第20回 (2020.3.4.更新)

六 日本において

 そこには一歩を誤らば覇者になるの惧れがある。かかる王に対して人民は衷心から安んじてこれに依ることができぬ。しかるにわが国の天皇は、現御神として本来の国王にて在し、三千年の長きにわたりて仁政を施し給うたのである。したがって日本国民にとりては、国王の恩は父母のごとくに現実である。この国にありて生を楽しむ能はざる者は、統治者なくとも生存し得べしとするものである。しかしその生存は到底、眞の人としての生存であることができぬ。

 第二にわられは、御歴代の大御心はただ安民にあったことを想はしめられる。それは今ここに事々しく挙げるべくもない。国史を読む者は、何人も感泣せしめらるることである。畏くも民を呼び給うに「おおみたから」をもってしたまひ、その御行願は一に民の慶福においてせらるるのである。

 

 

『知恩報徳』 第19回 (2020.2.8.更新)

六 日本において 

 しかるにここに留意すべきことは、かかる聖王は必ずしも一般に与えられてあるものではないということである。仏教にはまま、悪王の難を説くところをみれば、正法の王化は現実であるよりはむしろ理想である。もちろん、その理想の説は無意味ではない。なぜならば、われらはそれによって国王の恩なしには人間の生活はあり得ないことを知ったからである。しかし、それゆえにまた現実にその国王なしとせば、人は全くその依る所を失わねばならぬことが思われるのである。ここにおいてその理想がそのまま現実である国家が要求せらるる。しかもそれが要求に先立ちて与えられてあるものこそ、わが日本国である。

 この意味において、われらは第一に、わが国の聖王は本来、天皇に存することを念はしめられる。覇者と王者とはいかに異なるかは周知の事実である。しかし、いかに王者といえども、王者の理想によりて新たに成れるものは、真実の人民の帰依となることはできない。なんとなれば新王は元来王にあらざるものが王とならんとするものであるからである。 

 

『知恩報徳』 第18回 (2020.1.23.更新)

 五 正法の王化 ⑥

 由来、人間の生活と天然の現象とは全く別な法則に依るものとせられている。それは近代的知識として重要なるものに違いはない。しかしそれと同時に両者の交渉も看過せられてはならぬであろう。自然を利用するにしても、巧智に依るものと尊重に依るものとは別の結果を生ずるのである。巧智による自然の利用は、しばしば違算を生じて人間を害することすらある。真実の自然の利用は、実に至誠をもって自然と協力することであらねばならぬ。それ故に自然の現象については、人間は常に畏れと親しみをもってこれに接すべきである。特に仏教の所説に依れば、国土は衆生の業感である。それゆえに、人民の業が全く聖王の仁政にしたがふ時には、国土もまた自ら清澄とならざるを得ない。これすなわち聖王の化育のおよぶところ、草木もなびくといわるるゆえんである。これをもって推するに、聖王の存するところ、五風十雨も時をもってすといふことも自然のことであろう。したがって経に「非常の風雨、過時の風雨、日月の薄蝕、星宿の変経の難なし」と説かれることも首肯せられる。今日の知識をもってすれば、これらのの事象は王化のいかに関係がないといはるるかも知れぬ。しかしこれらの難を難とするに足らぬものとするものは、依然として聖王の仁政である。かくして国王の恩に依りて人の和を生じ、人の和は地の理を制し、やがて天の時をも得て、いかなる外敵にも恐れざるに至らしむのである。

『知恩報徳』 第17回 (2019.12.20.更新)

 五 正法の王化 ⑤

 これに依りて聖王の治下には八難なしと説く経意は領解せられる。その八難とは第一に他国の侵迫、第二に自界の叛逆である。この二はすなわち内憂外患である。人民は国王の恩恵を知る限り、健実な思想を有ち、それぞれその業務を勉め、相互に和協する。そこに内憂はない。しかしてこの人の和のあるところ、いかなる敵国といへども、これを侵すことができぬであろう。まことに戦えば必ず勝つの原理は、聖王の治化に他ならぬのである。

 しかるにその内憂なきの理を推せば、八難の第三なる悪鬼疾病と、第四なる国土の飢餓なき事も領解せられるであろう。聖王の治下には「五穀成熟」すといはるる。それは人民が生活に喜びを感じ、大地に親しんで深く耕すに至るからである。しかして五穀成熟するところ、自ら国土飢饉の難を免るるのである。この事を一般化すれば、人民は各々喜んでその職業の大地を耕すところ、生活自ら豊楽となるといふべきであろう。しかるに人民の生活を楽しむところは、すなわち住みよい国土である。それはやがて周囲の空気を清め、悪疫の発生する余地なからしむる。病疾には単に人間の生理のみをもって解くべからざるものがあるようである。陰鬱なる生活のあるところ病疾もまた生じ易い。されば聖王の治下においては悪鬼疾病の難がないということも、首肯し得ることではないであろうか。

『知恩報徳』 第16回 (2019.11.6.更新)

 五 正法の王化 ④

 かくして聖王の治化によりて人民は義理に順い、社会は秩序を保つのである。それゆえに聖王の治化は内に無限の慈愛をもつとともに、外には絶対の権威をもつ。その権威の前には何人もそむくことは許されない。しかも内なる慈恩を感ずることにおいて、君命はいかなる場合も悦服せらるる。ここにわれらは法治という「法」の意義を領会せしめられる。それは外的にはわれらの生活を規定するものでありつつ、内的にはわれらの生命に服従することであって、しかも内実には君恩に報ずるものであることが知られる。されば国王の恩において特に「義」を生ぜることは父母の恩における「情」と異なるがごときも、その知恩報徳たる心根において別なるべきものではない。それはある意味において孝情は忠義と転ずることによりて眼を開けるものともいふを得るであろう。

 

  

『知恩報徳」 第15回 (2019.10.9.更新)

 五 正法の王化 ③

 されば聖法の王はいかにして人民を治めらるるのであろうか。その統治内容については、仏教の経典においても諸所に散説せられてある。すなわち国王の道を説く経典もすくなくはない。しかるに『心地観経』にありては、ただ聖王の十徳を数える第六に、「諸々の賢人を集めて国事を許す」ということが見られるのみである。しかし国王の恩を知るためには、この一事にても十分であろう。賢臣とは民の実情を察して国王に告げ、国王の意を体して民を治めるものである。それゆえに聖徳太子の十七条憲法には、治道を誤る臣は「君に忠なく民に仁なき」ものとせられてある。これすなわち君に忠なる臣とは民に仁なるものであり、民に仁なるものは君に忠なるものなることを示したものものである。しかりしかして常にかかる賢臣を挙げたまうところに聖王の正化あり、人民はこれによって無窮なる国王の恩恵に浴するのである。

「知恩報徳」 第14回 (2019.9.13.更新)

五 正法の王化 ②

 しかるに聖王はこの権威と自由とを何に行使せらるるかといえば、それはただ衆生を安楽ならしめんがためにのみである。「一切の人民は王を主と為し」、「万姓の安住は国王に依る」、それは「たとえば世間一切の堂殿は柱を根本となすがごとく、人民の豊楽は王を根本と為す」のである。それゆえに「たとえば長者のただ一子あり、愛念比ひなく憐愍健益して常に安楽をに与えて昼夜に捨てざるがごとく、国の大聖王もまたまたかくの如し、等しく群生に示すに同一子のごとく、擁護の心昼夜に捨つることない」のである。しかしてこの慈愛の心に基づく正法の統治は、自然に人民にをして「十善を修せしめ」、その業務に安んじ、相和し相助けしむるものである。すなわち人民は聖王の統治によりて、自然に人間としての道を歩ましめらるるのである。

 

「知恩報徳」 第13回 (2019.8.19.更新)

五 正法の王化

 仏教に説く国王の恩は、専ら仁政である。正法統治の恵みである。仁王の善政に依りて人民相和し、倫当自ら行われ、国に災害なく、風雨も時をもってし、真に衆生をして生をたのしましむるということである。われらはまず『心地観経』の説に依りて、その一般を叙述することとしよう。

  経説によれば、国王はまずもって福徳広大なるものである。「福徳最勝にして人間に生まるといえども自在を得⑴、諸天常に護持し⑵、その国界においては山河大地ことごとく大海際国王に属す⑶」るのである。人間は決して思うがままなる自由は許されておらない。それをしいて自由たらんとすれば、かえってその身を破滅することとなるであろう。しかるにその自由のあたえられておるものは国王である。その福徳あって国王であるのである。されば見えぬ諸天の神々も、常に国王を護持せらるる。これによりてまた国土はその部分において人民の所有たるを拒まざれども、全体としては悉く国王の所有である。それだけ国王は権威をもち自由を持つものである。

 

「知恩報徳」第12回 (2019.7.5.更新)

 

四 衆生の恩 ④

 思うに人類愛ということは、夫婦愛を拡充して現れるものではないであろうか。これらに対して宿世感情は父母の恩を感ずるところから見開かれたものである。したがって夫婦といえども、互いに父のごとくに思い、母であるかのように思うということが成立する。仏教では夫婦は互いに愛しあうのみではなくして、互いに敬しあうべきものである。互いに助け合うのみのものではなくして、懐かしみあう感謝しあうものである。かくして夫婦の倫理すらも知恩報徳の上にたつのである。これによりて兄弟・朋友・主従等の一切の人倫道徳は、ことごとく知恩報徳の上に立つことを知るべきである。

  しかるにこの宿世の内感を外観の知識においてみれば、われらは皆な祖先を同じうするものであるということになるであろう。それはわが日本において特に明瞭なることである。この意味において一切衆生は長き世代をかけての父母兄弟なりということができる。祖先にを同じうするがゆえに四海兄弟である。それは「人類は扶けあわねば生きておられぬような存在である」といふこととは全く別な原理である。後者はどこかに個人本位のものがあるが、前者は全く全人思想の上に立つものである。したがってわれらの感知が純真になればなるほど、衆生恩の領域がひろげられてゆく。しかして、何人を見ても「他人とは思われぬ」といふこととなり、更に進んでは、「山鳥のほろほろと鳴く声」を聞いても「父かとぞ思ひ母かとぞ思う」こととなるのである。

 しかし現実の衆生には、この恩義に反く者が多い。「あるいは妄業に因りて諸の違順を生じ、執著をもってのゆえに反ってその怨となる」、その妄業と執著とをにほしいままにせしむれば、かえって宿世の怨敵であるかのごときものとなるであろう。しかもそれが幸いにその極に至らずして、人倫に帰るを得るは何に依ることであろうか。ここにわれらは第三に国王の恩を思わざるを得ぬこととなるのである。

 

「知恩報徳」 第11回 (2019.6.11.更新)

四 衆生の恩 ③

 この事は実際にまずもって我々が父母であるかのように感ずる人に接することがあることによって答えられる。それは極めて稀であっても、決して絶無ではない。その親切において、その自己を知ることにおいて親身にもまさる人を我々はもつのである。その人を我々は先進と呼び、また知己と呼ぶが、しかし必ずしもその名で呼ばれる者のみとは限らない。それらの親切や知遇やは一般に人類愛ともいはるべきものでもあろう。されど人類愛といふような言葉では到底実感を現すことができぬものである。いかにもそれは「父のように思う」、「母のように思う」

ということが最も適切なる表現である。この「かのように思う」ということは、言うまでもなく現実には父でもなく、母でもないという知識があるからである。しかもその現実には父でもなく母でもないといふことが、一層「父のように思い、母のように思う」という感情を深めるのである。その感情において宿世の父母ということが思想せられる。しかして現実の父母はあたかも宿世の父母を代表し、宿世の父母を知らしむる機縁となるものの如くである。

 

「知恩報徳」 第10回 (2019.5.9.更新)

四 衆生の恩 ②

 それと共に宿世感情は常に「かのやうな」理解であることが忘れられてはならぬ。純情的な智慧の感知には、常に「かのやうである」と「である」こととは別でない。それは限定することを任務とする知識と異なるところである。純真なる智慧の内容は元来無限なるが故にこれを言葉で言い顕すことができない。それを強いて言い顕さうとする時には、「でない」ものを「であるかのやうに」言い顕す外ないのである。例えば数理に五々二十五ということは、明確に「である」ということができる。されど二分の一+四分の一+八分の一+十六分の一+……=1は「でない」ものを「であるかのやうに」、「である」と表したものである。それゆえにその「である」は必ずしも五々二十五であるの「である」と同じではない。ある意味においては「でない」ものを顕した「である」は、普通の「である」よりも一層高次のものであるといふこともできるであろう。それは「でない」ものをも包容する「である」であるからである。

 されば一切衆生は多生の中における父母であるといふことは、実は「であるかのやう」に感知さるることである。したがって衆生恩は衆生に対して父母であるかのように思う感情なしには理解されない。ここにおいてかわれらはいかにして衆生に対してあたかも父母に対するかのような感情をもつことができるかということが問題となるであろう。

 

『知恩報徳』 第9回 (2019.4.6.更新)

四 衆生の恩

 父母の恩に次いで仏教に説かれるものは衆生の恩である。これは人間一般は相互扶助に依りてのみ生存し得る事実において見開かれる。これを拡充すれば生物一般は助けあふて生きているのである。これはすなわち互いに恩恵を受けていると感ぜられるべき事実である。しかるに仏教では、これを「一切衆生は多生の中において互いに父母たり、互いに父母たるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父なり、一切の女人はすなわちこれ悲母なり」ということをもって説明してある。この特異なる教説は、そもそも何をに我らに教ふるものであろうか。

 この教説を理解するためには、われらはまず「多生の中」という語の意義を明らかにして置かねばならぬ。それは先に言える「宿世」ということと同義である。しかしてその宿世とは因縁に対する内観感情であることはすでに説けるがごとくである。それは言わば人生に対する先験的感情ともいうべきものである。カントは経験の成立を明らかにするために先験性というものを説いた。しかしカントの先験性は理知の要求であったために無内容たる形式に終わったのである。人間における因縁の受容は、かかる理知的のものでなくして、無限の感情である。それゆえにそれは宿世として思想せられ、しかもその宿世は一生に止まらずして多生と感知せられる。それは感情の無限性による自然の理解である。

 

『知恩報徳』 第8回 (2019.3.6.更新)

三 親子の因縁 ③

 因はそれ自体である。それ自体がそれ自体に感謝すべしということはない。真に因をして因たらしめるものは、唯だ縁である。故に仏教の因縁観は、実は縁起観である。一切法は縁より生ずるのである。仏種も縁より生ずるのである。それは良種であればあるほど、良縁を求めるものである。従がって縁の徳を受くること多きものは良因であるともいうを得るであろう。ここに良き生徒ほど教師の恩を感ずるゆえんがある。縁の徳を感ぜざるものは確かに良き因ではない。ここをもって仏教には特に縁の重んずべきを説くのである。これに依りて父母を見るに、母は二重の因縁において共に縁である。かくまでに明確なる母縁を知らざるものは遂に人であることができぬ。これすなわち特に母恩を強調せらるるゆえんである。

 これに依りてわれらはまた説かれざる父恩のいかに深大なるかを感知するを得るであろう。第一重の因縁においては、父子は一体であり、第二重の因縁においては父子も異体のようである。しかし、真実の父子関係は不一不異であらねばならぬ。この不一不異、これを一如という。その一如こそ、真実の精神的一体である。第一重の因縁のみを固執する一体のごときは対象化されたもであって、真実なる内面的一体ではない。その精神的一体において父は懐かしく、同時に父の恩は限りなく感じられる。父の恩の思い出は、自身の人生経験に即して内感せられる。その苦難において、その歓喜において、人は常に父を想起せざるを得ない。この意味で父恩は生活の底より涌き出づるがごとく感ぜらるるものである。

 

『知恩報徳』 第7回 (2019.2.6.更新)

三 親子の因縁 ②

 しかし、思うにこの二十の因縁観は本来別なものではないであろう。それは言わば、外観と内観との相異である。したがって、我らは一応、歴史として外観的に知識せられたものは、宿世として智慧に内観せられたものといふを得るであろう。外観の知識は限定して現すことができる。それゆえに歴史は明確にこれを叙述するを得るのである。されど内観の智慧はただこれ無限の感情である。それゆえに宿世は夢のごとき物語として表現するの外はない。されど明確なる歴史も無限の感情を背景としてのみ成立し、宿世物語も現実の事実を縁としてその旨趣が感ぜられるものである。かくしてこの二観の融合に依りて、我らは親子の因縁の不可思議なるを感じ、また親の因果が子に報いるというようなことがあっても、なんら怨むなきの心境に住するを得るのである。

 しかるにこの親子の因縁観は、なぜに父母の恩において特に母恩を強調されたかの道理を思い知らしむるであろう。それはわれらの感謝すべきは、常に「縁」にあって「因」にあるべきものではないからである。

 

『知恩報徳』 第6回 (2019.1.18.更新)

三 親子の因縁

 この事実を一層明らかにするために、われらはさらに仏教の「親子因縁観」を参照することしよう。仏教によれば、親子の因縁は二重に観ぜらるる。第一重においては、「父は能生の因、母は所生の縁」である。これは厳密の意味において、父は生みの親であり、母は育ての親であるということである。したがって父にとりて子は自己の分身であり、子にとりては、父は自己のいわば前身ともいうべきものである。そしてこの父子系が「家」の中心をなし、家系の歴史の本体をなすのである。これに対して母系は、「家」の成立の助縁となるのである。

 第二重においては、父母ともに出生の縁であって、正しく人世に生を受ける因は、子自身の業識であるということである。この場合には、われらは親を縁として生まれたのであって、親から生まれたのではない。この第二の因縁によりてわれらは人間の親子と一般生物の親子と異なるゆえんを思うてもよいであろう。それゆえにこの世における生活の責は自身に負うべきであって、親をとがめるべきではないのである。すでに言うごとく、生存に意味ある限り、かく生存せしむる縁に対しては唯感謝あるべきである。したがって、もし生において呪はしきものありとせば、常に自身の業識をとがめるべきであろう。ここに仏教の独特なる自覚がある。しかしてそれはいかなる場合にも、他をとがめずして己にかえらしむるのである。

 

『知恩報徳』 第5回 (2018.12.25.更新)

二 父母の恩 ③

 しかしそれにしても何故に父恩が説かれないのであろうか。それについてはいまだ古今の説を聞かない。ひそかに思うに、これはおそらく母恩を説くことがすなわち父恩を説くものに外ならないからであろう。母の行うところは、父の心と別なものではない。されば母恩は正しく父心の現行ともいふべきであろう。すなわち母は父の精神の実行者である。しかしてその母の実行する「父」の精神は、現実の父にすら意識されていない深いものであることがある。しかしそれと同時に、いかなる賢母であっても、到底「父」の精神を十分に実行し尽くし得るものではないということも看過されてはならぬことであろう。そこに父恩の深さがあり、また父恩の感知し難きゆえんがあるのである。

 それゆえに子にとりて父恩を知る当面の道は、ただ母恩を通してのみである。これによりて我らは母の十徳の上にも、父の恩の表現されている数々を知ることを得るであろう。しかして特に留意すべきことは、母の恩を知るというも、その徳を報ずるの道は、父祖の業を継ぐ外にないことである。父の志を継ぎ、父の願を遂げること、それはそのまま母への報恩となる。ここにわれらは、母の悲恩のみを強調しつつ、しかも「父母の恩を報ずべし」と説ける経意をうかがうを得るのである。

『知恩報徳』 第4回 (2018.11.14.更新)

 

二 父母の恩 ②

 「六には荘厳と名づく、妙瓔珞を以て厳飾するが故に」、子供に似つかわしい服装の苦心である。「七には安穏と名づく、母の懐抱を以て止息と為すが故に」、それはやがて成人して後も、人間の魂の帰依所を象徴するものとなる。「八には教授と名づく、善巧方便して子を導引するが故に」、「九には教戒と名づく、善言辞を以て衆悪を離るるが故に」、この両者は、常に子の善に進み、悪を離るることに心を用いる親心を表すものである。「十には与業と名づく、よく家業を以て子に付属するが故に」、かくして子は親の恵みに依りて独り立ちするに至るのである。

 ここにおいてか我らは何故に経典には母恩のみを高調して父恩を説かれざりしかを問題とするを得るであろう。

これに対してまず答えられることは、母恩こそ最も直接に恩を意識せしむるものであるということである。子はいかにして生長しつつあるかを知らんとせば、母がいかなる生活をなしつつあるか見ればよい。母の老いいきやつれゆく姿は、わが元気の盛大になりゆく姿の反映である。それが明らかに認められる限り、何人も恩による生存を感ぜざるを得ない。それは実にいや応なしである。したがってそれはなんらの経験をも知識をもまたずして感知せらるべきものである。思うに「子をもって知る親の恩」というがごときは、特に父恩において言われるべきことであろう。また衆生の恩といふごときは、相当に物の道理が知られてから感ぜられるることである。これ即ち「恩」を説かんとする仏教が父母の恩を第一として、特にその中にも母恩を強調するゆえんであらねばならぬ。

 

 

『知恩報徳』第3回 (2018.10.6.更新)

二 父母の恩

 仏教における四恩の説は、まず父母の恩から出発する。これはおそらく何人も拒むことのできないところから教えを垂れるものであろう。恩の事実と意味との分離すべからざることは、父母において最も明瞭であるからである。

 しかるに仏教においては父母の恩において特に母恩を強調してある。『心地観経』によれば、「父に慈恩あり母に悲恩あり」と提起しつつ、しかもその説くところは母の悲恩のみである。しかして、その母恩というは、畢竟「長養の恩」に外ならない。今その母の十徳を見るに、「一には大地と名づく、母胎の中を所依と為すが故に」という。恩はめぐみであり、めぐみは芽構である。あたかも種子は大地に下されて芽ぐむがごとく、子にとりてのめぐみの大地は母胎である。「二には能生と名づく、衆苦を経歴してしかも能く生ずるがゆえに」、それは胎兒に対する母の心遣い、生みの悩み等を思わしむる。「三には能正と名づく、恒に母の手をもって五根を理(おさ)むるがゆえに」、それは幼兒をあやす母の姿、這へぱ立て、立てば歩めの親心である。「四には養育と名づく、四時のよろしきにしがって、よく長養するがゆえに」、例えば寒時において、幼児は湯たんぽや温室によって防がれるのではない。ただ母の懐に抱かれて育つのである。「五には智者と名づく、よく方便をもって智慧を生ずるがゆえに」これは「お年はいくつ」で数え方教え、物の名前で言葉を教うることを思ひ浮かべしめる。

 

『知恩報徳』第2回 (2018.9.6.更新)

  それ故にいかにして人間が生存しつつあるかを知る知識は、そのまま人間の生存の意味をに感ぜしむるものでなくてはならず、また真に人間の生存しつつある所以を知るためには、人間の生存の意味というものが先想されてあらねばならぬ。我らが今主題とする知恩報徳という事は、正しくこの意識において感知されたる人生観である。我らはいかにして生存しているのであろうか。それは環境の恩(めぐみ)によりてである。それゆえに我らの人生の意義はその恩を知り徳を報ずることの外にはない。人もし生存は恩によることを拒むものがあるとするならば、それは明らかに自ら生存の意義を否定しているものである。生存について何等かの意味を感じているかぎり、生存せしむる所以のものに対して、恩恵を感ずるは当然のことといはねばならぬ。

 しかし知恩報徳の道理は、元より知識的分別によって明らむべきではない。それは正しく「法爾の道理」である。炎は天に上り、水は地下に流るる如く、親は子を愛し、子は親に懐かしむのである。しかして、恩の道理は、その親子の情を中心として感ぜらるるのである。それゆえに親の有り難さは分別して説明さるべきものではない。そこに真実に親の有り難さがある。もし何等かの分別によって有り難さが説明さるるならば、それだけ有り難さが限定されるであろう。されどその自然の道理は、また必ずしも知識分別を拒むものではない。かえって法爾道理の上に立つ種々なる分別知識は、法爾道理の旨趣を開顕することに依りて、それ自身も真実に意味あるものとなるのである。そこに知恩報徳の道理展開があるのである。

 これによりて我らは今、その知恩報徳の道理を明らかにせんと思うのである。しかしてその方法としては、特に仏教における『心地観経』の「四恩の説」によることとする。それは仏教は日本人にとりての有縁の法であるからだけではない。特に古聖の教に依ることは、独断に陥ることなく、自他の蒙を啓くことが多いことを思ふからである。その聖教には一見我らの理解に受容せられぬものがすくなくはない。しかし真実なる人生の智慧は、その受容し難き点の次第に理解されて来るところに与えられるようである。その望みにおいて私は四恩の説に聞かんとするものである。

 

 

  今月から金子先生の著作集からの転載を新しくいたします。今回は、『知恩報徳』という短い著作を拝読してまいることにいたします。

 ※本書は昭13年の発刊です。

 

『知恩報徳』第1回 (2018.8.21.更新) 

 「それ菩薩の仏に帰するは、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず出没必ず由あるが如し。恩を知り徳を報ず、理宜しく先ず啓すべし。」親鸞聖人 『教行信証』

 一緒論

 人間は自意識をもつ存在である。生命あるもの皆必ず自意識をもつものではない。草木は言うまでもないが、高等の動物といえども、果たして自意識をもつかどうかは疑問である。人間も明確に自意識をもつことは、相当に成長して後のことである。

 しかるにその自意識が展開して自覚とならんとするのや、まず第一に「これは何か」を問うのである。それはすなわち自己自ら自己を知らんとするのである。しかして、そのために第二に自己はいかにして生存しつつあるかを明らかにせんとする。それと同時にわれらは何故に生存せねばならぬかという意味を求めるのである。この三つの問に依りて、われらは現在と過去と未来とを認識し、それによって悠久なる時間の中にあって時間を荷負しつつ行くのである。

 これによって自覚の学は、いかにして生存しているかを知る知識と、生の意味を明らかにする智慧とに別れるのは当然のようである。かくして自然科学と精神科学とが分流することとなったのであろう。されど自然と理想との対立は両者の葛藤によりていたずらに人間を岐路に迷わせしむるに過ぎない。自然の支持を失える理想は空想とえらぶところがなく、理想わ見失える自然は人間の人間としての存在没却せしめずば止まぬのである。これ畢竟自然といふも理想といふも、現前の人間の自意識の二面に過ぎぬことを忘るるより来るものである。

 

第28回 (2018.7.12.更新) 

【問い】

 教えはいったいどこまで聞いたらわかるものですか。

金子先生の答え

 はじめはわからないから聞きます。後にはわかれば、わかるから聞きたいのであります。聞いても聞いてもわからないというのは信心以前であり、信後は聞けば聞くほどもっと聞きたい、一生聞いたところでこれでよいというはずのものではありません。「どれだけ聞いたらよいのですか」といっている間はまだ本当のことはわからないといってもよいと思います。聞法相続して、いつでも最初の一念にかえることであります。いつまでも初心でいけるところに信をいただいたものがあります。

 岐阜に謡いの上手な人がいました。謡いを稽古しはじめて、ニ、三年たつと人に教えたくてたまらなくなり、七、八年たつとなんて馬鹿なことを考えたかと思い、自分の未熟さが恥ずかしくなり、東京に行って梅若師の指導を受けることにしました。ところが一週間たっても、なにも教えてくれません。そこで帰ろうとしたら、師匠は「あなたの節まわしはそれで充分です、これからは耳の稽古をするのですね」といわれたそうです。道は違うかも知れませんが、なにかそこに一筋のものがあると思います。

 いよいよ自分の聞法のたらなさを感じ、聞法し、聞法の喜びを感ずるところに信を得た証拠があるのであり、もうこれでわかったから、人に教えるものだということはいえないと思います。

現代人の信仰問答は今回で最後となります。来月からは金子先生の別の著作を転載してまいります。)

 

第27回 (2018.6.9.更新)

【問い】

 「ただ信ぜよ」といわれますが、理知で納得できないものは信じられないと思いますが…。

【金子先生の答え】

 信心の智慧ということがあります。智慧とは物の道理がわかるということですから、信心とは道理、すなわち、本願のいわれを受け入れるものであります。ところが智慧といいますと、今日では知識と混同しがちですが、知識は分別といいまして、自分の考えで計っていくことでありましょう。その計らいでも及ばないということを、ただ信ずるといったのであります。

 だから、ただ信ぜよといっても無理無体に信ぜよと言うことではありません。計らいを捨てよということは自然の智慧にしたがうことであると思います。知識分別を離れなければ、真実の道理を知ることはできません。

 計らいということを解剖すれば、そこに利害、損得ということが出てきます。真宗的に申しますと罪福心ということもあって、こうすればこうなると実利的にものを考えるということでもありましょう。その計らいを捨てねば、まことの心を純粋素直にうけいれることはできません、ということがただ信ぜよということなのであります。とにかく信じなさいといって、無理矢理にというのではありません。仏教における信とは智慧であります。だから、現代は知識が発達しているというが、それは決して本当の智慧というものではないということを明らかにする必要があります。そして、そういう本当の智慧が現代の人に忘れられているのであります。

 無学文盲だから信ずるとか、末代無智の尼入道ということがありますから、そのようものをけ軽蔑して、自分は知識があるのだという誇りができているのです。しかし、本当のまことの智慧というものは、無学文盲といわれる身に、かえって生きているのではないでしょうか。

 

第26回 (2018.5.6.更新)

【問い】

 「さとり」とか「救い」ということはどんなことですか。自己満足とちがいますか。

【金子先生の答え】

 仏陀釈迦は、生は苦なり、苦は愛によると説かれました。それが、宗祖の場合には、「よろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなし」とあらわされています。このように人間世界のあり方は、どうにもならないようにできているものであるということをあきらかにみる。これがさとりであります。

 だから割り切れないものが人生であり、開きのつかないものが人間世界の姿であるというあきらめのうえにたっているのが、仏教的な人生観であり、そうではない、どこまでも割り切っていけるものであり、知識分別でどうにかなるものであると思想しているのが、非仏教的な人生観であると思います。したがって、仏教の智慧からいえば、その割り切れないものがそれで意味を持ち、開きのつかないものがその依ってたつところをもたなくてはなりません。そこに救いというものがあるわけです。救いとはどうにもならない人間世界でありながら、それはそれで有り難いのであり、意義があるのだという場を与えるものでなくてはなりません。救いとはその場が与えられたということであります。それが真宗では自分のなすこと、することを良かれ悪しかれ宿業にまかせて、そのままが本願の正機になるということであります。

 このように救いとはさとりの場であるといってもよいと思います。だから本当に自己自身では、どんな境遇にあろうともそれで満足し、世の中のためになるようなことのできない者であっても、私は私だけのことをやらしてもらうということで満足ができればよいと思います。満足ということがあって、円満ということがあります。だから、本当に自己満足の道を与えるものが宗教であります。「自己に満足して求めず争わず、天下これより大なるはなし」であります。私たちは自己に満足できなくして、満足をよそに求めようとしているのであります。そのよそに求めるのを「迷い」といい、自己に満足するものを「さとり」といいます。

 私たちは外物を追い、いたずらに外にばかり求めて外に幸福があるようにみ、自己に満足しないで、どこかによいものが、幸せがあるとたずねて迷うているのであります。さとりというのは、本当に自己に満足する道を求めるものであり、救いは自己満足の場を与えるものであります。

 

第25回 (2018.4.11.更新)

【問い】

 お念仏をとなえよといわれますが、それは口に出してとなえるものですか、口に出さずに心の中で念ずるものですか。また、どちらにしても心にいろいろな妄念や妄想が浮かび、ひとすじの念仏ができませんが、こんな状態でいいものでしょうか。

【金子先生の答え】

 まず、はじめの問いですが、これは実際の場合を知らない人の立場であると思います。宗教というものはどんなものかと考えている人であります。実際の場合になると、心で思うよりはお称名の方が楽なのです。これは『観無量寿経』にありますように、死ぬ間際、苦しんでいるとき友人が集まって念仏せよと勧める時の念仏とは、仏の慈悲を思えとか、仏の智慧を思えということであります。けれども病人は苦しくてそんな心にはなれない。そこで友人は汝念ずることあたわざれば称えよといいます。病人はそれを聞いてただ念仏して救われていくのです。ここに心で思うことができなかったら、口でとなえればよいといってある。それはことに有り難いことであります。

 それでは声を大にしてとなえないといけないかということになれば、念仏は心の姿勢であるといいたい。ただ、仏を思えということになりますと、なにかこちらの方へ仏をひきつけないといけなくなる。南無阿弥陀仏という姿勢はいつでも仏に向かうものです。だから高声念仏というは自分でとなえて自分の耳に聞こえる程度のものとさえいわれています。ともかくとなえよということであります。

 第二の問いですが、妄念、妄想が起るからお念仏するのであります。すでに「妄念、妄想をとどめよというにもあらず」というてあるのですから、妄念、妄想はおさまるものでもありません。むしろ妄念、妄想のとどまらない人間であることが念仏によってかえってわかるのだということであります。

 妄念、妄想がなくなると自分がなくなります。愛と憎しみのほかにないという嘆きが真宗にはあります。しかし煩悩を断じてしまえば、また念仏するようなもなくなり、涅槃をうる喜びもなくなるのであります。だから、転悪成徳で障りそのものが念仏によって徳となるのであります。それは妄念、妄想のほかにはお念仏の有り難さを知らせてくれる種がないということであります。

 

第24回 (2018.3.7.更新)

【問い】

 仏の慈悲は絶対といいますが、「たのむ」ものを助けるということは理にあわないように思いますが…。

金子先生の答え

 「我をたのめ、必ず救う」と説かれている。しかし、その心をいただいてみれば必ず救うから、我をたのめということであります。すなわち必ず救うから我をたのめということであります。必ず救うという力があってはじめて、我をたのめということができるのであります。たのむことが条件ではありません。そのお心がわかれば、「我をたのめ」だけで「必ず救う」がいただけるのであります。我をたのめということはたのまなければ助けないということではありません。必ず救うという力をたのめといわれるのであります。だから、「われをたのめ」ということが大慈悲の心であります。お慈悲がどうしてわかるかというと、「たのむ」ということによってはじめてわかるわけです。たのむということは絶対の慈悲の領解であります。ご依頼申し上げるといっている意味ではありません。絶対の慈悲を感受したところであります。その感知のないものはたすかっておらないにきまっています。

 だから念仏申せば救われる、念仏申さないと救われないということも当然のことでありましょう。念仏申さなければ、たすかるもたすからんもわからないのであります。なにもせんでも絶対の他力ならたすかるというのはまことにナンセンスであります。

 

第23回 (2018.2.10.更新)

【問い】

 廻向ということについて説明してください。

金子先生の答え

 廻向ということは親鸞聖人の言葉では賜る、いただくというこであります。信心は仏のご廻向であるということは、仏のまことをいただくということであります。曽我先生は廻向を表現といっておられます。こちらへあらわれてきたということであります。仏が向こうにあるのではなくして、仏が、仏のまことが私たちのうえにあらわれたことであります。だから、信心はまこと心であります。

  救いとは、場を与えられることでありまして、それがそれとして存在する場が与えられるのであります。おり場ができるのであります。救われないということは、おり場がないということであり、それが困るのであります。年寄りがでしゃばるということは、年寄りの場がないから、自分でおれはここにいるぞとりきむのであります。あなたでなければならぬという場が与えられれば、年寄りはどういたしましてと、引っ込んで落ち着くこともできるのであります。

 浄土は安心の場であって、老若男女の人を選ばず、みなそこにいけばおかれる場があります。そこは広大無辺際ですから、どんな人でもそこへ往生して中央におることができるのです。そこには例外もなく、除外されないのであります。おり場が与えられることは、その人その人が特殊であることができるのであります。その特殊でおられる公の場に救いがあり、救われたということは、仏のまことが廻向されたということであります。

 

第22回 (2018.1.13.更新)

【問い】

  昔から第十八願を中心の願と説かれますが、どういうわけですか。

 第十八願

「たとえ我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、我が国に生ぜん    欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」

金子先生の答え

 如来の本願とは仏の願い、仏のことばであります。願いということばは、「本音をはく」ということだということであります。ですから、本音をはくということが願いであるならば、もう一つ「本音をかける相手」がなくてはなりません。その本音をかける相手をもっているものが四十八願のうち第十八、第十九、第二十の三つの願しかないのであります。すなはち、十方衆生と呼び掛けているのであります。ほかの願は国がどうありたい、自分がどうありたいというのであります。仏に対して汝となり、汝と呼び掛けられたものは四十八願のうちに先述の三願よりほかにありません。したがって、願いの中の願いはこの三願にかぎるということがいいうると思います。

「たとえ我仏を得たらんに」は願いであり、「正覚を取らじ」は誓いであります。しかし「たとえ我仏を得たらんに」だけでは、本当の願いをかけているものはないから、希望というも同じことになりましょう。「十方衆生」と呼び掛けたところに本当の願いというものが成り立つのであります。

 また「正覚を取らじ」だけでは誓いといっても決意と同じことでしょう。「もし生ぜずば」と結びつけたところで誓いすなわち、約束が成り立つのであります。誓いとは運命の約束であります。苦しみも楽しみも喜びも悲しみも、ともにするという約束であります。その約束という意味を本当に持っているのは十方衆生を呼んでの三願の中でも特に第十八願だけであります。

 

第21回 (2017.12.21.更新)

【問い】

 お念仏で救われると聞きますが、念仏が祈りや呪文のような気がしますが…。

金子先生の答え

 私はキリスト教から真宗に転宗した人を何人も知っていますが、その人々が多くいわれることは真宗となってから、特に有り難くなったということがある。それはキリスト教ではお祈りというものがあり、それがなにか心にもなく、嘘をいわなくてはならぬような気がして、とても苦しかった。ところが、お念仏一つで、有り難い時も南無阿弥陀仏、煩い悩みの多い日も南無阿弥陀仏一つで済むことになったということであります。こうなれば念仏は唯一の祈りということになりましょう。念仏は世の祈りの中の最上の祈りであります。

 しかし、そうなればもはや祈りであるというところはなくなるのであります。そこでそれを拝む心という。そしてその拝む心を表現したのが、お念仏であるといってよいと思います。

 拝む心において仏に会うこともでき、本当に自分を見出すこともできるのであります。また、あの世を感ずるのも拝む心であります。だから、念仏は敬虔感情であり、この感情のほかに宗教心はありません。この敬虔感情を発露したものが、南無阿弥陀仏であります。

 仏教には坐禅とか、加持とかいうものがあります。しかし、それらはいついかなる場合もできるものではありません。たとえば電車の中で足をふまれたとします。むかむかと腹が立つその腹だつ心をどうおさめるかというと、坐禅や加持をすることはできない、ただ南無阿弥陀仏という心になれば、おのずから心が和んできます。

 このように時処諸縁を嫌わず、いついかなる場合でも宗教生活ならしめるものが念仏なのであります。楽しい時、苦しい時、いついかなる場合でも宗教生活にならしめるものが念仏なのであります。楽しい時、苦しい時、いついかなる場所でも、それによって満たされるものがお念仏の徳なのであります。

 

第20回 (2017.11.15.更新)

【問い】

 法蔵菩薩が四十八の本願を起されたと聞きますが、その本願の中には現代人の領解できないことがあります。どのように受け取ればよいものでしょうか。

【金子先生の答え】

 まず法蔵菩薩が四十八願をおたてになったといっても菩薩でありますから、法蔵という性格が出ています。法蔵は法の蔵ですから四十八願ということは法蔵菩薩が法蔵を開いて、そこに四十八の願いを展開したのでありましょう。お経を読んでも無量の大願としてありますから、四十八願のうちに無量の大願が入ってくるということであります。

 現代に合うとか合わないとかいうことですが、四十八願は確かに人間の理想であるに違いありません。したがって、それをどう受けとるかということが、非常に大事だと思います。たとえば、悉皆金色の願でも、現在もアメリカでは黒人の差別問題で困っているのだから、やはり現実の要求であります。無有好醜の願なども、皆美人でありたいという理想を表したものでありましょう。女人成仏の願でも、変成男子の願とお経に説いてあるが、親鸞聖人はそれを女人成仏の願と受け取られた。女では仏になれないというのが五障の立場ですから、変成男子の願ということは女も仏になれるということで、女人成仏の願と領解せられたことであります。女人は女人として成仏する道理をもう一度考えなおしてみていくというように、すべて経文は今の時代に自分にどう受け取られるかが大切であります。ある時は受け取ることができ、ある時は受け取れないものをそっとしておいて、やがてわかる時があるということがあってこそ、経典を持つものの喜びがあります。

 

第19回 (2017.10.8.更新)

【問い】

 一切衆生悉有仏性ということ聞きますが、仏性はもともと人間にそなわっている性質なのですか。それとも仏法を聞くことによって与えられるものでしょうか。

【金子先生の答え】

 仏性とは自覚性であります。だから、どんな人間でも自覚するという性能を本来そなえているということが、悉有仏性ということであると思います。

 涅槃経によりますと、悉有仏性というのは、仏心の照覧である。仏の心からいえば仏性を具えておらぬものはない、ということが特に重要な説であると思います。あんな人間は仏性はないというが、それは私たち凡夫の心からいうのであって、仏の心からいえば、どんな人間でも仏性のないものはないということであります。

 そうであれば、一切衆生、悉有仏性というからには人間はみな救われるものではないか、それなのに真宗ではわれらは助かる縁のないものであるといっている、それはおかしいではないかということが問題になります。

 しかし、その場合には仏性とは自分がどうしても助からぬものだという機の深信の底にあるものでありましょう。仏性のないものが罪悪深重とどうして感ずることができよう。罪悪深重と感ずる働きそのものがなんであるかそれはわかりません。しかし、自分がたすからないということが深信されぬ限り、如来の本願は信じられないのであります。それならば、その罪悪深重というところに、かくれた仏性があるということでなくてはならないと思います。

 その仏性は仏法を聞くことによって与えられるというか、開けるというか、そういうものであります。聞くことによって、はじめて悉有仏性ということがその働きを現すのであります。

 

第18回 (2019.9.12.更新)

【問い】

 お経には仏さまでも阿弥陀仏、世自在王仏、その他五十三仏などたくさんの仏さまがありますが、これらの仏さまはどのような関係にありますか。

【金子先生の答え】

 五十三仏というのは仏法の精神的伝統を、説き顕わされたものであります。これは人間の歴史の上に仏法が始まった遠き思い出であります。まことに永遠の場において、道によってきたる淵源をさかのぼって尋ねてみるということになれば、五十三仏の名も経典作家のうえにおのずから現れたのでしょう。

 私には人間が大地のうえに生活し始めた遠い昔からの精神の伝統というものが、五十三仏の名に語られているような親しみが感じられるのであります。人間が天上の星を眺めながら、移り行く世の底にも光は光を生み、仏は仏を照らす永遠なる相伝の世界というものを感じた。これを五十三仏の名、例えば光遠とか、水月光とかいう名に語ったようであります。

 はじめに錠光という仏があった。錠光とは灯皿の上の光ということですから、かすかす光ということであると思ってよいでありましょう。はじめはかすかな光であった。それが月光となり月色となり、夜光となり、水光となってそれぞれの時の衆生が、その光益をこうむったのです。そして、それが世自在王仏の出現というところまでになったのであります。これらはすべて思い出の世界ということでしょう。釈迦の思い出にちがいはありませんが、それはそのまま仏法に遇えるものの思い出となるべきものであります。

 

第17回(2017.8.11.更新)

【問い】

 お経には法蔵菩薩、観音菩薩、勢至菩薩など多数の菩薩がでてきますが、どんな方ですか。

【金子先生の答え】

 菩薩とはボディサットバで道を求める人ということで、本来の意義は求道者ということであります。

 求道精神というものが菩薩の願いでしょうが、願いがあれば必ず行があります。その行が六波羅蜜で布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で、広くいえば諸善万行ということであります。

 その願いというものはすべての人に心の病なからしめたい、あるいは冥途の暗さを思う人の手引きをして不安を除き、あるいはなにかと災難がなく幸福を与えたいとかいうように、願いの内容はさまざまであります。その願いに相当した名をもって説き表わされたのが、観音とか勢至とかいう菩薩の名であります。だから、菩薩は名によってその徳を表すので、それが道を求める人の精神というものを表したものであります。

 そこに名を念じて、その徳を与えられるということになっているのであります。だから、観音さまとか、勢至さまとなりますと、そういう方々がどこにいるかと尋ねたくなるのですが、もともと菩薩とは求道者ですから、経文を読み、仏教の書物を読みますと数かぎりなく説かれていて、それを読んでそういう菩薩はどこにおられるかと考えなければならない必要はないのです。

 それよりも、その菩薩の名が何を表すかということを考えなくてはならないと思います。その名を表さなければ、それこそ抽象的になってしまいます。そういう名よって説かれるために、その物語全体もその徳を表したものにほかならないのであります。

第16回(2017.7.6.更新)

【問い】

 浄土真宗では、阿弥陀仏一仏のみを拝んで、お釈迦様を拝まないのはなぜですか。

【金子先生の答え】

 まず、なぜお釈迦様を拝まないかということについてですが、これはお釈迦様自身が「法はわが師なり」とお説きになった、わが師は法である。だから法を同じにするものはわが友だちであるといっておられます。

 それでは、お釈迦様が法とせられたものは、何でしょうか。真宗では、それこそ南無阿弥陀仏であると行信しているのであります。それをいいかえれば、阿弥陀仏をご本尊とすることがお釈迦様の本意にかなうということであります。

 阿弥陀仏とは生ける釈尊の根本精神として見いだされたものであるといってよいとおもいます。だから、阿弥陀仏を拝むということがつまりお釈迦様に感謝する、ご恩を思うということであります。

 これは、釈迦という人間を拝むという、偉人崇拝というようなものとは違うのであります。釈尊は我は仏となったと自称された、その心を如来という。この如来とは、仏のあり方を現したものです。如から来たということを表したものであります。その如来の徳を表すのが阿弥陀ということばであります。同じ仏でありますが、仏といわれるべきものは、私たち人間に対し道を説いたものという意味において、ブッダという。そのブッダということばは釈尊に一番適当な言葉であります。このブッダの精神は不滅のものであり、その精神の在り方をあらわしたのが如より来る、如来であります。

 

第15回 (2017.6.9.更新)

【問い】

 仏教は時代の要求とかけはなれているのではないか、と思われるのですが…。

 【金子先生の答え】

 時代に適応したということは、時代の要求に応ぜよということになると思います。しかし、実際は時代こそ宗教の要求に応じねばならぬのではありませんか。

 時代の要求に応じよということは、要するに宗教を時代が利用しようとする立場であると思います。だから、宗教は時代の役に立ってほしいものであるということは、具体的にいえば時代が平和運動をすれば宗教もまた平和運動を助け、社会問題が出てくれば、その問題も宗教が片付けるというように時代時代の要求に応ぜよということであります。

 しかし、時代はどうしてもどう考えてみても救われない状態にあるのだという自覚に立てば、むしろ時代の人々はみな宗教の要求に応ぜよということをいいたいのが宗教の立場であると思います。

 時代の要求に応じよということは一方においてわかるような気もしますが、一方においては了解できない気がします。例えば、浄土教は平安末期の時代の要求に応じたものといってよいわけであります。しかし、法然上人や親鸞聖人が時代の要求に応じて、戦争を止めるように努力されたわけではありません。本当に宗教家は平和を望むならば源氏や平家の方へいき、説き伏せて戦をやめさせたらよいではないかというが、そういうことができなかったのです。それは時代が仏教の要求に応じられなかったからであります。

第14回 (2017.5.6.更新)

【問い】

 信仰はみずから体得することが大切だと思います。だから自力で修行することに意味があると思います。したがって、他力本願ということはどうも腑に落ちませんが。

金子先生の答え

 この問いの心は二つあると思います。一つは世間一般で考えられている、他力本願ではだめだということ、すなわち、他人ばかり当てにするという考えによるものです。もう一つは世間の学者が自力も他力も帰するところは同じことであるという、その考えから出ているものと思います。

 他力本願とは、人間生活に意味を与えるもの、有限者を有限のままに存在させるものであります。有限者は有限者であるということで満足することのできないものであります。その有限者は有限者のままで満たされる道というのはどうしても、その根本に無限なるものに帰依するということがなければなりません。有限は有限だけで、すなわち、私は私だけのことをやったということで落ち着くことはできないと思います。他力ということによってのみ、本願力にあってのみ、自分の行っていることに意義をもつのであります。

 真宗ではその人生が自力ではどうにもならないものがあることを感知して、大いなる佛の心を念じ、それによって有限の生活のうちに無限の喜びを感ずるものであります。それが救いであります。その救いとは存在を見出すこと、場を与えられることであります。

 存在を見失っている私たちが真宗の教えを聞いて、そして、自分もまた一個の存在として認められたのであるという喜びが救いであります。だから、「なにがなんだかわからぬものが人生である」と本当に痛感している人であったら、他力本願よりほかに救いの道はないと知られましょう。

 

第13回 (2017.4.11.更新)

【問い】

  神さまと仏さまはどうちがうのですか。

金子先生の答え

 日本人は「神仏」といっております。仏教が入ったときには「仏と名付ける神さま」というふうに理解していたようです。だがら日本人的な頭には神も仏も一つになっているようです。

 しかし、成り立ちがちがっております。神は神というものが人間のほかにあって、人間より偉く、すぐれた力をもっているというものであり、仏は仏陀釈迦からはじまったものであり、覚りを開いた人というところからきています。

 したがって、神さまの一番典型的なものはキリスト教の神で、世界を造ったとかいうようなものでないでしょうか。日本の神様もそのようなものであります。

 しかし、仏はそうではなく、人間のあり方を明らかにしたというところからきているのであります。このように、仏と神と本質的ちがうことをはっきりさせる必要があります。

 神さまというと人間のほかにあって人間の幸福、不幸というものを支配するということ、悪いことをすれば罰するという支配者、権力者的存在であるといってよいと思います。

 仏さまははじめから人類の教師ということから出発して、道を説き、したがって、道と仏とが一つになって、すなわち仏と法とが一つになって人間のあり方を明らかにして、人間のゆくてに光を与えるものなのであります。

 今日のように人間というものをはなれて、人間以上の存在を考えるということのできない時代には神というものはないといってもよいと思います。したがって、それだけ仏というものが要求されているのであります。

第12回 (2017.3.14.更新)

【問い】

  大乗仏教と小乗仏教とは、どう違うのですか。

 

金子先生の答え

 お釈迦様は家を捨て妻子を捨てて、出家生活をして道を求められたのです。したがって、出家教団に入らなければ生活は清浄であることができないということになり、出家と在家とは、はっきり区別されてきたのであります。

 在家は出家の僧に対して供養するということがあり、出家は在家の人に対して生活上の指導を与えていたのです。小乗仏教はその区別をはっきり考えてきました。

  歴史的に申しますと、お釈迦様がどのようにいわれたのか、どのように行われたかということ、すなわち言行だけを伝えたものを今日では原始仏教、昔は小乗仏教といったのであります。

 大乗仏教というものは、お釈迦様が亡くなって、その感化をうけた人がそれを継ぎ、ただいたずらに仏陀の亡くなったということを悲しんではならない、真実の釈迦は永遠に滅びることはないのだというところにでてきたのであります。

 まとめますと、小乗仏教といわれているものは釈尊の言行を主とし、大乗仏教は仏陀の精神を主にしています。形からいえば小乗仏教は特殊な教団の集まりであり、大乗仏教は在家出家の区別をせず、ただ一つの仏法によってすべての人間の道はこれしかないのであるということを明らかにしたものであります。

 乗は乗り物ですから、船路でいったもの、それを陸路にすれば道ということであります。だから、大乗はすなはち大道であります。

 

第11回 (2017.2.26.更新)

【問い】

 地獄や極楽は本当にありますか。あるとすればどこにありますか。

 

【金子先生の答え】

 仏教の思想からいえば、地獄はつくらなければありません。例えば刑務所はあるかないかと同じで、犯罪者があるからできたのであります。地獄は自分でつくるのですから、つくらないようにさえすれば、ご心配はいりません。ただ、作らないようにしなさいということですね。

 源信僧都の『往生要集』に地獄のことが書いてあります。その中に罪人と鬼の問答がでてきます。罪人は「なぜ、私をこんなひどい目にあわすのだ」という。すると鬼は「私はなにも知らぬ。汝は自分の業で私のこの身さえ作ったのではないか。」とあります。罪人というのは鬼を作って、作った鬼に苦しめられているのが地獄であります。身を焼く火は自分自身の業火であります。

 在る地獄なら逃げることもできるが、地獄は逃げることはできません。地獄一定すみかであるということは、いずれの行もおよび難い身においてあるのです。だから地獄はつくらないかぎりないのでありますが、困ったことには地獄よりなんにもつくっておらない身であります。そこへ気が付き、反省させられるのであります。

 これに反して、浄土は、実にあるものであります。しかし、浄土の実在を知るにはこの世は虚在であるということを知らねばなりません。この世も、浄土も実在であると、同じ次元において、同じ性格において考えることは無理であります。

 少なくともこの世は万事みなもってまことあることなしというふうに実感するものにとっては、真実にある、実在の世界こそ、浄土であると思うのであります。 

第10回 (2017.2.5.更新)

【問い

 霊魂は実在するものでしょうか。

 

【金子先生の答え】

 お答えする前にあなたのいう霊魂とはどんなものを考えていますかとおたずねしたい。と申しますのは、霊魂不滅といっている人は霊魂という物を考えて、身が灰になっても魂は残ると考えている人がある。その人の霊魂不滅というのは、物資不滅というような意味と区別はありません。 

 また、霊魂は滅するという人にも霊魂とは脳の働きとか、肉体の働きであるとかいう予定観念があるのです。その予定観念を離れて、人間の精神というものを自覚すれば、それは不滅的意味をもっているのであります。

 霊魂という言葉を英語ではメモリーという語であらわしているのがありました。記憶という語ですね。それは思い出の世界であります。そして、亡き親も子もみんな思い出の世界へでてきます。

 そのようにわれわれは亡き親のことを思えば、そこに私たちの精神があるのです。だから、亡き親たちは過去にあっても、その過去は思い出の人にとっては現在であります。このようにお釈迦様は亡くなられたが仏陀はなくならぬという、如来不滅の思想が成立したのです。それは亡くなられたことを手掛かりとしてできたのであります。

 原始仏教徒は生の仏さまに帰依していた。それが大乗仏教徒には常住不滅の如来をみることになったのであります。精神とはそのようなものである。そして、その意味において不滅なのであります。その人を思い出そうとすると、いつでもその人のうえにいるのであります。だから、そういう不滅というものは形のあるものではありません。

 

第9回 (2017.1.7.更新)

【問い】

 人が死んだら誰でも仏さまになるのですか。例えば仏も法も知らぬ子供が死んでも仏さまになるのですか。

 

【金子先生の答え】

 しかし、死んだもののあとを追ってみてもどうしようもありません。また死んだ子にすれば、親に先立つ親不孝という嘆きにもなりましょう。だから、亡き子を仏と拝むことになれば親不孝な子にさせないで、親孝行な子にすることになります。

 こうして仏になるかならぬかではなくて、仏にするかしないかであります。そして仏にするという義務は残れる者にあるということであります。

 

第8回 (2016.12.3.更新)

【問い】

 死ねばみな灰になり土になると思いますが、なにが極楽や地獄に行くのですか。

 

金子先生の答え

 死ねばみな灰になるということは自分ではまだ経験していないことですから、この問題はまず自分はということだと思います。灰になり、土になると他人の場合はみられますが、しかし、自分は経験していないのです。だから灰になるのだといってみてもあきらめることができないのでしょう。そこに人生というものがあるということを考えてみる必要があります。

 問題は現に今、灰になっていない、その灰になっていないところの自分はどうなるのであろうかということです。その灰になっていない自分の生涯を問題にするとき、そこに地獄とか極楽とかいうものが感じられてくるのであります。地獄へ行くのも極楽に行くということも、人生のゆくえですから、それは死をいかに見るかということでありましょう。その死は全く真っ暗で苦しくてたまらぬものであるということになれば、それは地獄一定ということでしょう。また、死を涅槃として親しむ感じもあります。お釈迦様の場合には涅槃されたといっています。涅槃されたということは、これでなすべきことをなした、なすべきことをして死んでも何の遺憾もないということであります。そこに涅槃寂静というものがあり、静かな光に向かっての歩みがあると思います。この世を極楽にするとはいえませんが、念仏者にとっては人間の生涯の終わりというものを目指して、喜んで生きて、喜んで死んでいけるということが決まれば、それが往生極楽であります。

 

第7回 (2016.11.3.更新)

【問い】

 ある宗教を信じないと仏罰が当たるなどとおどかしたり、またよく神罰、天罰などという言葉もありますが、実際にそのようなことはあるものでしょうか。

 

【金子先生の答え】

 罰とは支配者の権力によって為されるものであります。だから、天とか神とかいう人間以上になにかすぐれた能力のある存在があって、人間の運命を左右するものであるという考えからきたものであります。これはまことに非仏教的な考え方であります。人間以外にある支配的な存在者があって人間をどうするかという考え方は、少なくとも前仏教的なものであり、お釈迦様の仏教はそのようなものを否定するところからでてきたものであります。だから、神罰や天罰はあっても仏罰というようなことはありません。ただ、善をなし悪をなさぬように護念せられるのであります。

 ただ、自分自身の反省的感覚としては仏罰ということもよいことでありましょう。業というも同じことであります。自分の場合には仏のお心にそむいてきた罰と思うことも素直な感情でありますが、他人の場合には残酷なものになります。だから、仏罰だといって人をおどかすというようなことはもってのほかといわねばなりません。つまり、これは人生について正しい意見をもっておらぬものであります。それを推して申しますと、天罰だの神罰だのということもないことであるといってよいのでありましょう。

第6回 (2016.10.6.更新)

【問い】

 よく世間で、信仰深い人に奇蹟が現れたといわれますが、実際にあるものでしょうか

 

【金子先生の答え】

 まず、奇蹟の意味を明らかにする必要があります。その意味によってはありうることでもあるが、またありえないということが常識だと思います。

 例えば、信仰によって今まで長い間、仲の悪かったものが仲良しになったということがあります。こういうのは奇蹟といえぬのでしょうか。今まて病気をして悩み苦しんでいた人が病気に親しんで、感謝していくようになったということも奇蹟でありましょう。

 しかし、世間で奇蹟というのは、そういう不思議ではなく、奇怪のことと考えられています。そうだとすれば、そのような奇怪のことを奇蹟としてあらわすものは邪教であり、まちがったことといわねばなりません。たとえそういうことがあっても、それは信仰とはかかわりのないことであります。

 

第5回 (2016.9.10. 更新)

【問い】

 世間には数多くの宗教がありますが、結局、目指すところは一つではないでしょうか。また、宗教を選ぶときはどのようにして決めればよいでしょうか。

 

【金子先生の答え】

 多くの宗教のうち仏教にかぎれば、同じ仏の教えだから、悟りを求める道は多くても、同じ悟りの境地を目指しているのであるといえます。その点においては一つなのであります。でも、分け登る道は多いということは否定できません。そこで問題はその道に着眼するか、それとも同じ高嶺の月をみるという悟りの境地に着眼するかということであります。その同じ悟りの境地というところで領解すれば、のぼる道はちがってもお互いに了解しあうことができるのです。登り道に争いをする必要はない。禅でいこうが、念仏でいこうがお互いに了解しあうところがあるのです。ただ、分け登る道においてはそこに、その人としてはこの道ひとすじでいかなくてはいけないというものがあります。

 また、どの宗教を選ぶかということは、なによりも自分がなにを求めているかということによって決まるのであります。あたかも病人が医者を選ぶようなものでありましょう。宗教の選択に困るとかわからないというのは、宗教的要求のない人といわねばなりません。その要求がありさえすれば、いろいろと聞いているうちにおのずから決定するのであります。一つの教えを聞いていても、どうしても満足できないということもありましょう。それが真実の教えに帰依する縁となることもあります。

 ともあれ宗教といっても邪教といいたいものも多いことですから、利欲を満足せしめるようなものは信じない方がよいでしょう。

 

第4回 (2016.8.7.更新)

【問い】

 科学の進歩によって、今までわからなかったことがわかるようになった現在、宗教などは必要ないと思いますが…。

 

【金子先生の答え】

 まず、この問いに対して答えたいことは、科学者自身がどう思っているかと言うことであります。私の知る限りでは、立派な科学者だと思われている人がみな宗教の話をしておられる。だから、科学が進んでくば宗教はいらないとは、いったい誰が言うのだろうかということです。

 しかし、あなたの言うように、一面科学の発達により宗教はいらなくなるという立場もあります。それは宗教と称してもそれが前科学的なものであって、昔は一種の科学的役割を果たしていた。そのような宗教は科学が発達すればいらなくなります。例えば雷電は空中で荒神が太鼓を叩いているのだというようなことです。さらに真宗で言うと、『教行信証』化身土巻末において親鸞聖人が否定されているような、日の良し悪し、怨霊があるなどということは、科学の知識が進めば当然なくなっていいものであります。しかし、科化学の進歩によってますます科学の限界が知られるということもありますから、かえって純粋な宗教が求められていくわけです。

 だから、科学が発達すれば不必要な宗教もあるし、ますます必要になる宗教もあるということになります。さらに科学に対して考えられる限界は、科学という知識だけが人間の能力ではないということです。私たちは知識だけで生きていけるものではない。感情もあり理想もあり、それらはことに人間生活の大きな働きとなっています。そのような知識だけが人間生活の全部でないことを考えても科学が進めば宗教がいらないという考えかたは成り立ちません。

 

第3回 (2016.7.5.更新)

【問い】

 宗教が人生生活において根本的な大切なものだとすれば、積極的に政治に参加したり、社会事業を行うべきだと思いますが、その点に関してはどうですか。

 

金子先生の答え

 そのように考えた時代も歴史のうちにあったようです。仏教でも昔から大乗の課題は仏教の世間化か、世間の仏教化かということにありました。それも実は仏教の世間化は一つの方法であって、それによりやがて世間を仏教化することができるということであったのです。しかし、世間化のほうのみになってしまって、肝心の仏教化ができなかったのであります。平安時代でもおそらく浄土教以外の仏教、いわゆる聖道門は世間の要求に応じて政治を助け、社会事業などをし、長い間はたらいてきたのでした。しかし、実際は政治に利用されて宗教本来の意味が徹底しなかったのであります。社会事業も、ものをあわれみ、悲しみ、ばぐくむも、思うがごとく助けとぐることかたければ、この慈悲始終なしということになったのです。だから、この問題はかえって政治とか、社会事業とか、平和運動とかをやろうとする人こそ、宗教的でなければならないということであると思います。

 そして、宗教家は宗教本来の義にもとづいて、決してそういうものを第一義と考えるのではなく、どれだけ無能といわれても、既成教団がどうの、こうのといわれても、守るべきものははっきり守らねばなりません。

 金子大榮著『現代人の信仰問答』(東本願寺出版部)

第2回 (2016.6.9.更新)

【問い】

人間には良心があります。この良心に従って道徳を守っていけば、おのずから人間らしい生活ができると思います。そのうえさらに宗教が必要なものでしょうか。

 

【金子先生の答え】

 人間生活は良心にしたがって生きていけばよいというときの、その良心ということをまず明らかにする必要があります。良心は人間を人間たらしめているものという意味では精神といってもよいと思います。

 この精神ということをもうひとつ言い換えると、それは真実ということであります。真実は偽に対して、仮に対す、実は虚に対するものですから、真実とはにせものでなく、中味のあるものということです。その真実を仏教では如来という。「如来即ち真実」といってあります。だから良心もそのようなものであれば、道徳の実行さえできれば宗教はいらいともいえるのでしょう。

 しかし、その真実にしたがって実行できるかどうか、その実行にまじめであればあほど、自身に真実のないことを反省せずにおれなくなる、その道徳的反省から宗教が出てくるのです。

 しかし、その反省力すらももたないのが実はわれわれなのであります。精神一つではだめだとかいって、いかに精神を無視し、真実を無視して無反省でいるかと考えるとき、反省無用の人は実は良心が麻痺しているのでしょう。

 道徳が大事であればあるほど、常に道徳的反省が必要なのです。しかし、人間は悲しいかな、なかなかその道徳的反省すらできないのですから、宗教が非常に意味をもつと思います。私は真実のないものであるという反省の場に、本当は宗教の真実が働いているのであります。

 金子大栄著『現代人の信仰問答』(東本願寺出版部)より

 

 第1回 (2016.5.25.更新)

問い

 病気、貧乏など世の中の多くの苦しみは物質的、経済的な問題が多いようです。この問題を宗教で解決できなければ宗教など人間生活のなかで、第二、第三義的なものとしか思えませんが….

 

金子先生の答え

 宗教とは人間生活そのものが問題となってくるもの、それが真実の宗教であります。だから、それは人間が当面するところのさまざまな問題を解こうとするものではありません。それを解こうとしたのが前科学的宗教であって、それが祈祷すれば癒るとかいうようことだったのです。

 本当の宗教はそういうものではなくて、人生そのものを私たちはどのように送ったらよいのか、どう考えたらよいかというところにあります。だから、真実の宗教こそ人間生活にとっては第一義的なものであります。

 病気、貧しさというものは人間の知識によって解かれていくべきものであります。また、文化とはそのために進んできたのです。かつては、宗教はそういうことにかかりはてていたことがあったかも知れませんが、今日では宗教はその方面にでないことが本当の宗教であって、そのようにでようとするところに迷信が出てくるのです。そういう問題の解決はむしろ文化的に人間の知識で解き、あるいは政治によって解いていくべきものであります。

 宗教では病気ならばその病気をどのように受けていけばよいのか、貧しさであるならばそれをどのように受けていったらいいのかということであります。あらゆる状態に対して、それをどう受け取るか、それをどう精神力で解消していくかというところに宗教があります。

 したがって、生活の状態をなおそうとして宗教を求めようとすることは、いかにしてもまちがいといわねばなりません。